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四章
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テーブルに背を向け、テラスの手摺にもたれかかってぼんやりとガーデンルームを眺めていたサラは、あっ、と声をあげて振り向いた。
「ヨシノ、自転車を忘れてる」
指さす方向に身を乗りだすと、滞在中、吉野が乗り回していた自転車が生け垣の陰に見え隠れしている。
「本当だ。あれは元々僕のだから、かまわないよ」飛鳥は気が抜けたように笑った。
「吉野がいないと、一気に緊張が解けたみたいだ――」
手にしたティーカップは口許まで運んだのに口をつけず、飛鳥は小さくため息をつくとソーサーにカチャリと戻した。そして、ちょっと休んでくる、と早々に席を立ってしまった。
「アスカはともかく、きみまでそんなに淋しそうな顔をするとは思わなかったよ」
優雅にティーカップを口に運びながら、ヘンリーは意外そうに、再びぼんやりと庭を見下ろしているサラの背中に声をかけた。
「きみが彼と喋っているところなんて、見たことがなかったのに」
「だって、見ているだけで面白かったんだもの」
サラは振り返って言った。
「ヨシノはずっと、あの自転車で敷地内を走り回って、この辺りの土壌調査をしていたの。それで毎日、パソコンに土地のデータを打ち込んでいて、それを見ているだけで面白くて」
「冗談だと思っていた。彼、本当にうちで畑をするつもりだったんだ?」
ヘンリーはクスクス笑いだし、サラはそんな彼を少し怒ったように軽く睨んだ。
「あの自転車、借りてもいい? 私も乗ってみたい」
「きみも畑に適した場所を探すの?」
ヘンリーが揶揄うように言うと、サラは真剣な瞳で、庭から林を超え、その先を流れる川よりも、もっとずっと遠くを探るように眺めて呟いた。
「少しだけ、知らない場所に行ってみたい」
「ヨシノが、羨ましかった?」
ヘンリーの口許から、笑みが消える。
「少しだけよ。この屋敷から出るのは嫌。でも、ほんの少しだけ、知らないことを知りたいと思っただけ」
サラは自分を誤魔化すように言葉を濁し、消え入りそうな小さな声で呟いた。
「知らないことって、たとえば、ヨシノみたいに自転車に乗って丘を駆け下りたら、どんな感じがするだろう――、とか?」
ヘンリーは、ついっと目線を逸らして俯くサラをじっと見つめる。
「ヨシノみたいに木登りして、空に近い場所から下界を眺めたら、どんなに気持ちがいいだろう、とか?」
まるで悪いことでも企んでいて、それを知られてしまったかのようにサラは俯いたままぎゅっと拳を握りしめている。ヘンリーは静かに微笑んで、そんなサラの頭を優しく撫でた。
「どうしてそんな顔をするの? きみの、そんな願いを怒るわけがないじゃないか。まずは自転車に乗れるように練習しよう。上手く乗れるようになったら、一緒に出かけよう。僕の自転車もまだあるはずだから、マーカスに聞いておくよ」
驚いたように顔をあげたサラに、ヘンリーは戸惑いを見せて苦笑する。
「僕はそんなに了見の狭い、嫌な奴なのかな?」
「わたしが、わがままなの――」
「こんなこと、わがままのうちに入らないよ。それに僕は、きみのわがままを叶えるのは好きだよ」
もう少し、もう少しだけ待っていて。サラ、きみに自由をあげるから――。
訝し気に自分を見つめるサラに微笑み返し、「今から乗ってみるかい?」とヘンリーは、サラを促して席を立つ。慌てて自分の後を追うように立ち上がったサラに、腕を伸ばし掌を向ける。
「行こう」
伸ばされた手をぎゅっと掴んだ、サラのその小さな手を握り返して、テラス階段を駆けおりた。
「ごめんよ、サラ」
よろよろと進んでいく自転車の後部を支え持ちながら呟いた。
「何、何て言ったの?」
サラは悲鳴に近い緊張した声で訊き返す。
「ほら、手を放すよ! もっと勢いよくペダルをこいで!」
ヘンリーも息を弾ませながら大きな声で叫んだ。
「いいよ! その調子!」
自分の手から離れ緑の芝生の上をよろよろと走り出す自転車を、なんとも言えない自責と悔恨の想いで眺めながら、ヘンリーは、空っぽの手をぎゅっと握りしめる。
「ヘンリー! わたし、一人で乗れてる?」
明るいサラの声が響き渡る。
「上手だよ、サラ!」
ヘンリーは、芝生の上に腰をおろして息をついた。
潮時だ――。
もうこれ以上、サラをここに閉じ込めておくことはできない――。
少しずつスピードを上げ、ふらつかずにしっかりと進んでいく自転車を目で追いながら、ヘンリーは自嘲的に嗤っていた。
――吉野には、自由に生きて欲しい。
きみの言う通りだよ、アスカ。僕だってそう思うよ。サラに自由に生きて欲しい、って。サラにはもう僕の補助は必要ない……、って本当はとっくに判っていたんだ。
大きく円を描いて戻ってきたサラが、悲鳴をあげて叫んでいる。
「ヘンリー、これ、どうやって停まればいいの!」
「ヨシノ、自転車を忘れてる」
指さす方向に身を乗りだすと、滞在中、吉野が乗り回していた自転車が生け垣の陰に見え隠れしている。
「本当だ。あれは元々僕のだから、かまわないよ」飛鳥は気が抜けたように笑った。
「吉野がいないと、一気に緊張が解けたみたいだ――」
手にしたティーカップは口許まで運んだのに口をつけず、飛鳥は小さくため息をつくとソーサーにカチャリと戻した。そして、ちょっと休んでくる、と早々に席を立ってしまった。
「アスカはともかく、きみまでそんなに淋しそうな顔をするとは思わなかったよ」
優雅にティーカップを口に運びながら、ヘンリーは意外そうに、再びぼんやりと庭を見下ろしているサラの背中に声をかけた。
「きみが彼と喋っているところなんて、見たことがなかったのに」
「だって、見ているだけで面白かったんだもの」
サラは振り返って言った。
「ヨシノはずっと、あの自転車で敷地内を走り回って、この辺りの土壌調査をしていたの。それで毎日、パソコンに土地のデータを打ち込んでいて、それを見ているだけで面白くて」
「冗談だと思っていた。彼、本当にうちで畑をするつもりだったんだ?」
ヘンリーはクスクス笑いだし、サラはそんな彼を少し怒ったように軽く睨んだ。
「あの自転車、借りてもいい? 私も乗ってみたい」
「きみも畑に適した場所を探すの?」
ヘンリーが揶揄うように言うと、サラは真剣な瞳で、庭から林を超え、その先を流れる川よりも、もっとずっと遠くを探るように眺めて呟いた。
「少しだけ、知らない場所に行ってみたい」
「ヨシノが、羨ましかった?」
ヘンリーの口許から、笑みが消える。
「少しだけよ。この屋敷から出るのは嫌。でも、ほんの少しだけ、知らないことを知りたいと思っただけ」
サラは自分を誤魔化すように言葉を濁し、消え入りそうな小さな声で呟いた。
「知らないことって、たとえば、ヨシノみたいに自転車に乗って丘を駆け下りたら、どんな感じがするだろう――、とか?」
ヘンリーは、ついっと目線を逸らして俯くサラをじっと見つめる。
「ヨシノみたいに木登りして、空に近い場所から下界を眺めたら、どんなに気持ちがいいだろう、とか?」
まるで悪いことでも企んでいて、それを知られてしまったかのようにサラは俯いたままぎゅっと拳を握りしめている。ヘンリーは静かに微笑んで、そんなサラの頭を優しく撫でた。
「どうしてそんな顔をするの? きみの、そんな願いを怒るわけがないじゃないか。まずは自転車に乗れるように練習しよう。上手く乗れるようになったら、一緒に出かけよう。僕の自転車もまだあるはずだから、マーカスに聞いておくよ」
驚いたように顔をあげたサラに、ヘンリーは戸惑いを見せて苦笑する。
「僕はそんなに了見の狭い、嫌な奴なのかな?」
「わたしが、わがままなの――」
「こんなこと、わがままのうちに入らないよ。それに僕は、きみのわがままを叶えるのは好きだよ」
もう少し、もう少しだけ待っていて。サラ、きみに自由をあげるから――。
訝し気に自分を見つめるサラに微笑み返し、「今から乗ってみるかい?」とヘンリーは、サラを促して席を立つ。慌てて自分の後を追うように立ち上がったサラに、腕を伸ばし掌を向ける。
「行こう」
伸ばされた手をぎゅっと掴んだ、サラのその小さな手を握り返して、テラス階段を駆けおりた。
「ごめんよ、サラ」
よろよろと進んでいく自転車の後部を支え持ちながら呟いた。
「何、何て言ったの?」
サラは悲鳴に近い緊張した声で訊き返す。
「ほら、手を放すよ! もっと勢いよくペダルをこいで!」
ヘンリーも息を弾ませながら大きな声で叫んだ。
「いいよ! その調子!」
自分の手から離れ緑の芝生の上をよろよろと走り出す自転車を、なんとも言えない自責と悔恨の想いで眺めながら、ヘンリーは、空っぽの手をぎゅっと握りしめる。
「ヘンリー! わたし、一人で乗れてる?」
明るいサラの声が響き渡る。
「上手だよ、サラ!」
ヘンリーは、芝生の上に腰をおろして息をついた。
潮時だ――。
もうこれ以上、サラをここに閉じ込めておくことはできない――。
少しずつスピードを上げ、ふらつかずにしっかりと進んでいく自転車を目で追いながら、ヘンリーは自嘲的に嗤っていた。
――吉野には、自由に生きて欲しい。
きみの言う通りだよ、アスカ。僕だってそう思うよ。サラに自由に生きて欲しい、って。サラにはもう僕の補助は必要ない……、って本当はとっくに判っていたんだ。
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