胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

文字の大きさ
上 下
196 / 739
四章

しおりを挟む
 テーブルに背を向け、テラスの手摺にもたれかかってぼんやりとガーデンルームを眺めていたサラは、あっ、と声をあげて振り向いた。
「ヨシノ、自転車を忘れてる」
 指さす方向に身を乗りだすと、滞在中、吉野が乗り回していた自転車が生け垣の陰に見え隠れしている。
「本当だ。あれは元々僕のだから、かまわないよ」飛鳥は気が抜けたように笑った。
「吉野がいないと、一気に緊張が解けたみたいだ――」
 手にしたティーカップは口許まで運んだのに口をつけず、飛鳥は小さくため息をつくとソーサーにカチャリと戻した。そして、ちょっと休んでくる、と早々に席を立ってしまった。



「アスカはともかく、きみまでそんなに淋しそうな顔をするとは思わなかったよ」
 優雅にティーカップを口に運びながら、ヘンリーは意外そうに、再びぼんやりと庭を見下ろしているサラの背中に声をかけた。
「きみが彼と喋っているところなんて、見たことがなかったのに」
「だって、見ているだけで面白かったんだもの」
 サラは振り返って言った。
「ヨシノはずっと、あの自転車で敷地内を走り回って、この辺りの土壌調査をしていたの。それで毎日、パソコンに土地のデータを打ち込んでいて、それを見ているだけで面白くて」
「冗談だと思っていた。彼、本当にうちで畑をするつもりだったんだ?」
 ヘンリーはクスクス笑いだし、サラはそんな彼を少し怒ったように軽く睨んだ。

「あの自転車、借りてもいい? 私も乗ってみたい」
「きみも畑に適した場所を探すの?」
 ヘンリーが揶揄うように言うと、サラは真剣な瞳で、庭から林を超え、その先を流れる川よりも、もっとずっと遠くを探るように眺めて呟いた。

「少しだけ、知らない場所に行ってみたい」
「ヨシノが、羨ましかった?」
 ヘンリーの口許から、笑みが消える。
「少しだけよ。この屋敷から出るのは嫌。でも、ほんの少しだけ、知らないことを知りたいと思っただけ」
 サラは自分を誤魔化すように言葉を濁し、消え入りそうな小さな声で呟いた。

「知らないことって、たとえば、ヨシノみたいに自転車に乗って丘を駆け下りたら、どんな感じがするだろう――、とか?」
 ヘンリーは、ついっと目線を逸らして俯くサラをじっと見つめる。
「ヨシノみたいに木登りして、空に近い場所から下界を眺めたら、どんなに気持ちがいいだろう、とか?」

 まるで悪いことでも企んでいて、それを知られてしまったかのようにサラは俯いたままぎゅっと拳を握りしめている。ヘンリーは静かに微笑んで、そんなサラの頭を優しく撫でた。

「どうしてそんな顔をするの? きみの、そんな願いを怒るわけがないじゃないか。まずは自転車に乗れるように練習しよう。上手く乗れるようになったら、一緒に出かけよう。僕の自転車もまだあるはずだから、マーカスに聞いておくよ」

 驚いたように顔をあげたサラに、ヘンリーは戸惑いを見せて苦笑する。
「僕はそんなに了見の狭い、嫌な奴なのかな?」
「わたしが、わがままなの――」
「こんなこと、わがままのうちに入らないよ。それに僕は、きみのわがままを叶えるのは好きだよ」

 もう少し、もう少しだけ待っていて。サラ、きみに自由をあげるから――。

 訝し気に自分を見つめるサラに微笑み返し、「今から乗ってみるかい?」とヘンリーは、サラを促して席を立つ。慌てて自分の後を追うように立ち上がったサラに、腕を伸ばし掌を向ける。

「行こう」
 伸ばされた手をぎゅっと掴んだ、サラのその小さな手を握り返して、テラス階段を駆けおりた。





「ごめんよ、サラ」
 よろよろと進んでいく自転車の後部を支え持ちながら呟いた。
「何、何て言ったの?」
 サラは悲鳴に近い緊張した声で訊き返す。
「ほら、手を放すよ! もっと勢いよくペダルをこいで!」
 ヘンリーも息を弾ませながら大きな声で叫んだ。
「いいよ! その調子!」

 自分の手から離れ緑の芝生の上をよろよろと走り出す自転車を、なんとも言えない自責と悔恨の想いで眺めながら、ヘンリーは、空っぽの手をぎゅっと握りしめる。
「ヘンリー! わたし、一人で乗れてる?」
 明るいサラの声が響き渡る。
「上手だよ、サラ!」
 ヘンリーは、芝生の上に腰をおろして息をついた。

 潮時だ――。
 もうこれ以上、サラをここに閉じ込めておくことはできない――。

 少しずつスピードを上げ、ふらつかずにしっかりと進んでいく自転車を目で追いながら、ヘンリーは自嘲的に嗤っていた。

 ――吉野には、自由に生きて欲しい。

 きみの言う通りだよ、アスカ。僕だってそう思うよ。サラに自由に生きて欲しい、って。サラにはもう僕の補助は必要ない……、って本当はとっくに判っていたんだ。

 大きく円を描いて戻ってきたサラが、悲鳴をあげて叫んでいる。

「ヘンリー、これ、どうやって停まればいいの!」






しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

ポンコツ女子は異世界で甘やかされる(R18ルート)

三ツ矢美咲
ファンタジー
投稿済み同タイトル小説の、ifルート・アナザーエンド・R18エピソード集。 各話タイトルの章を本編で読むと、より楽しめるかも。 第?章は前知識不要。 基本的にエロエロ。 本編がちょいちょい小難しい分、こっちはアホな話も書く予定。 一旦中断!詳細は近況を!

森の中へ

ニシザワ
ファンタジー
獣人という題名でコミケに出展したものです。 獣人と人間の話。

(完結)元お義姉様に麗しの王太子殿下を取られたけれど・・・・・・エメリーン編

青空一夏
恋愛
「元お義姉様に麗しの王太子殿下を取られたけれど・・・・・・」の続編。エメリーンの物語です。 以前の☆小説で活躍したガマちゃんズ(☆「お姉様を選んだ婚約者に乾杯」に出演)が出てきます。おとぎ話風かもしれません。 ※ガマちゃんズのご説明 ガマガエル王様は、その昔ロセ伯爵家当主から命を助けてもらったことがあります。それを大変感謝したガマガエル王様は、一族にロセ伯爵家を守ることを命じます。それ以来、ガマガエルは何代にもわたりロセ伯爵家を守ってきました。 このお話しの時点では、前の☆小説のヒロイン、アドリアーナの次男エアルヴァンがロセ伯爵になり、失恋による傷心を癒やす為に、バディド王国の別荘にやって来たという設定になります。長男クロディウスは母方のロセ侯爵を継ぎ、長女クラウディアはムーンフェア国の王太子妃になっていますが、この物語では出てきません(多分) 前の作品を知っていらっしゃる方は是非、読んでいない方もこの機会に是非、お読み頂けると嬉しいです。 国の名前は新たに設定し直します。ロセ伯爵家の国をムーンフェア王国。リトラー侯爵家の国をバディド王国とします。 ムーンフェア国のエアルヴァン・ロセ伯爵がエメリーンの恋のお相手になります。 ※現代的言葉遣いです。時代考証ありません。異世界ヨーロッパ風です。

あなたに愛や恋は求めません

灰銀猫
恋愛
婚約者と姉が自分に隠れて逢瀬を繰り返していると気付いたイルーゼ。 婚約者を諫めるも聞く耳を持たず、父に訴えても聞き流されるばかり。 このままでは不実な婚約者と結婚させられ、最悪姉に操を捧げると言い出しかねない。 婚約者を見限った彼女は、二人の逢瀬を両親に突きつける。 貴族なら愛や恋よりも義務を優先すべきと考える主人公が、自分の場所を求めて奮闘する話です。 R15は保険、タグは追加する可能性があります。 ふんわり設定のご都合主義の話なので、広いお心でお読みください。 24.3.1 女性向けHOTランキングで1位になりました。ありがとうございます。

【完結】「婚約破棄ですか? それなら昨日成立しましたよ、ご存知ありませんでしたか?」

まほりろ
恋愛
【完結】 「アリシア・フィルタ貴様との婚約を破棄する!」 イエーガー公爵家の令息レイモンド様が言い放った。レイモンド様の腕には男爵家の令嬢ミランダ様がいた。ミランダ様はピンクのふわふわした髪に赤い大きな瞳、小柄な体躯で庇護欲をそそる美少女。 対する私は銀色の髪に紫の瞳、表情が表に出にくく能面姫と呼ばれています。 レイモンド様がミランダ様に惹かれても仕方ありませんね……ですが。 「貴様は俺が心優しく美しいミランダに好意を抱いたことに嫉妬し、ミランダの教科書を破いたり、階段から突き落とすなどの狼藉を……」 「あの、ちょっとよろしいですか?」 「なんだ!」 レイモンド様が眉間にしわを寄せ私を睨む。 「婚約破棄ですか? 婚約破棄なら昨日成立しましたが、ご存知ありませんでしたか?」 私の言葉にレイモンド様とミランダ様は顔を見合わせ絶句した。 全31話、約43,000文字、完結済み。 他サイトにもアップしています。 小説家になろう、日間ランキング異世界恋愛2位!総合2位! pixivウィークリーランキング2位に入った作品です。 アルファポリス、恋愛2位、総合2位、HOTランキング2位に入った作品です。 2021/10/23アルファポリス完結ランキング4位に入ってました。ありがとうございます。 「Copyright(C)2021-九十九沢まほろ」 第15回恋愛小説大賞にエントリーしてます。

壁の花令嬢の最高の結婚

晴 菜葉
恋愛
 壁の花とは、舞踏会で誰にも声を掛けてもらえず壁に立っている適齢期の女性を示す。  社交デビューして五年、一向に声を掛けられないヴィンセント伯爵の実妹であるアメリアは、兄ハリー・レノワーズの悪友であるブランシェット子爵エデュアルト・パウエルの心ない言葉に傷ついていた。  ある日、アメリアに縁談話がくる。相手は三十歳上の財産家で、妻に暴力を働いてこれまでに三回離縁を繰り返していると噂の男だった。  アメリアは自棄になって家出を決行する。  行く当てもなく彷徨いていると、たまたま賭博場に行く途中のエデュアルトに出会した。  そんなとき、彼が暴漢に襲われてしまう。  助けたアメリアは、背中に消えない傷を負ってしまった。  乙女に一生の傷を背負わせてしまったエデュアルトは、心底反省しているようだ。 「俺が出来ることなら何だってする」  そこでアメリアは考える。  暴力を振るう亭主より、女にだらしない放蕩者の方がずっとマシ。 「では、私と契約結婚してください」 R18には※をしています。    

【R18】清掃員加藤望、社長の弱みを握りに来ました!

Bu-cha
恋愛
ずっと好きだった初恋の相手、社長の弱みを握る為に頑張ります!!にゃんっ♥ 財閥の分家の家に代々遣える“秘書”という立場の“家”に生まれた加藤望。 ”秘書“としての適正がない”ダメ秘書“の望が12月25日の朝、愛している人から連れてこられた場所は初恋の男の人の家だった。 財閥の本家の長男からの指示、”星野青(じょう)の弱みを握ってくる“という仕事。 財閥が青さんの会社を吸収する為に私を任命した・・・!! 青さんの弱みを握る為、“ダメ秘書”は今日から頑張ります!! 関連物語 『お嬢様は“いけないコト”がしたい』 『“純”の純愛ではない“愛”の鍵』連載中 『雪の上に犬と猿。たまに男と女。』 エブリスタさんにて恋愛トレンドランキング最高11位 『好き好き大好きの嘘』 エブリスタさんにて恋愛トレンドランキング最高36位 『約束したでしょ?忘れちゃった?』 エブリスタさんにて恋愛トレンドランキング最高30位 ※表紙イラスト Bu-cha作

茶番には付き合っていられません

わらびもち
恋愛
私の婚約者の隣には何故かいつも同じ女性がいる。 婚約者の交流茶会にも彼女を同席させ仲睦まじく過ごす。 これではまるで私の方が邪魔者だ。 苦言を呈しようものなら彼は目を吊り上げて罵倒する。 どうして婚約者同士の交流にわざわざ部外者を連れてくるのか。 彼が何をしたいのかさっぱり分からない。 もうこんな茶番に付き合っていられない。 そんなにその女性を傍に置きたいのなら好きにすればいいわ。

処理中です...