胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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四章

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「もう、蝉は鳴いてないよな?」
 真面目な顔をして尋ねる吉野に、飛鳥は苦笑して答える。
「なに言っているんだよ、英国に蝉がいるわけないだろ?」
 吉野は安心したように、くしゃりと相好を崩した。

「じゃ、怒られに帰るよ」
 にっと笑って肩を竦め、吉野は身を屈めて車に乗った。窓を下ろし、もう一度名残惜しそうに飛鳥に視線を向ける。
「飛鳥、あまり無理するなよ」
「お前こそ、あんまりウィルを困らせるんじゃないよ」
 その名前に、急に自分の置かれている現実を思いだし、吉野は顔をしかめ口をへの字に曲げた。
「あー、帰るの嫌だ……」
 そんな吉野に、飛鳥は訝し気に小首を傾げ、探るようにその顔を覗き込んだ。
「吉野、お前、僕に何か隠してる?」
 吉野は慌てて目を逸らし、飛鳥の背後で笑いを堪えているヘンリーに、
「世話になったな、ありがとう」と大声で礼を言い、運転席に座るマーカスに、いいよ、行って、と声をかけてから、もう一度飛鳥に、にっこりと笑顔を向けて軽く手を振った。

「あいつ、絶対、何か隠してる――」
 飛鳥はふくれっ面のまま、鮮やかな芝生の緑の間を走り去って行く黒光りする自動車を見送った。
「誘ったのは僕だからね」とヘンリーは意味ありげに含み笑っている。飛鳥はきゅっと顔をしかめて、「ポーカー?」とため息交じりに訊ねた。

「彼、本当に強いんだね。驚いたよ。あそこまでとは思わなかった。普段は単純で判りやすい子なのに、カードを持つと別人だね」
 飛鳥は憮然とした顔をして、「きみまでそんなことを言うなんて……」とますます頬を膨らませて眉をしかめる。
「そんなに怒ることでもないだろ? ただのゲームだ」
「いくら賭けたの?」
「いや、お金は賭けていないよ」
「じゃ、何を賭けたの? 吉野は、賭けのないゲームはしないよ。あくまでギャンブルなんだから」
 不機嫌な想いを隠そうともせずに、飛鳥は吐き捨てるように続けた。
「普段はわりにしっかりしている方なのに、賭け事をしているときは、きみの言う通り別人だよ。大体、吉野は自分がいくら賭けているかなんて考えずにやっているんだから。お金に換算したらびびって感覚が狂うから、チップ一枚の金額は考えるなって、教えられたって。そんなの、一度でも負けたら破滅だよ」
 ヘンリーは黙ったまま聞いていたが涼し気な笑みを浮かべて、もう遠く、見えなくなった自動車を追い駆けるように目を細めた。
「きみが思っているのとは、少し違う気がするな。きっと、彼は負けないよ。だって彼、負ける勝負は初めからしないもの。あの子はきみが思っているよりも、ずっと大人だよ」

 だが飛鳥は拗ねたように口を尖らせる。
「ぜんぜん子どもだよ」
 ヘンリーはもう何も言い返さずに、ただ、にこにこと笑っていた。

「ヨシノは、もう帰ったの?」
 正面玄関の扉がバンッと開けられ、サラが息を弾ませて駆けってきた。
「残念、たった今出たよ」
「お見送りしたかったのに」
 ヘンリーのシャツの袖をきゅっと握って、がっかりとした表情を見せている。
「報告会議は終わったの?」
 優しく頭を撫でるヘンリーを見あげて、サラはこくんと頷いた。
「じゃ、お茶にしようか」

 正面玄関から南側のテラスに向かいながら、飛鳥は不思議そうにヘンリーに目を遣った。
「ねぇ、僕はここに来てから、きみが仕事をしているところをまるで見ていない気がするんだけれど――。少し前までは、目まぐるしく忙しそうにしていたのに……」
「ん? まぁ、ジョサイヤの後継者問題もカタがついたしね。その他もいろいろ、今は落ち着いているからね」
 ヘンリーは悪戯ぽくサラと顔を見合わせ、意味ありげに笑い合って言った。
「でも、毎日ちゃんと働いているよ。――僕のスペアがね」
「スペア?」
「スペアというよりも、影かな? それとも蜃気楼?」
 にやにや笑いながら、ヘンリーは胸ポケットのTSトランススパークスを取り出し、起動させた。そのまま歩き続けながら、「ほら、ちょうど会議中だ」と正面に現れた半透明の画面を、飛鳥からもよく見えるように指で拡大してみせる。

「この僕は、少し疲れた顔をしていないかい?」
 いくらか不満気に自分に顔を向けるヘンリーを、サラは口を尖らせて軽く睨み返す。
「だって、ヘンリーが面倒くさがって真面目に録画しなかったんだもの」
「そうだっけ?」
 素知らぬ顔でヘンリーは笑い返している。

「これ、リアルタイムだよね?」
 目を丸くして映像を凝視している飛鳥に、ヘンリーは揶揄うような笑みを浮かべて説明してくれた。

「そうだよ。ウェブ会議中だよ。この僕の映像、良くできているだろ? 取りあえず、人口知能で即答できない問題が出されたら、僕自身が呼び出されるようにはなっているんだ。まぁ、今のところはそんな問題も起こっていないし、『スペア』に、まかせっきりだけれどね」
 ピンっと、画面に映る自分自身の顔を弾いて、その映像を消す。
「夏前までは、腰を下ろしてお茶を飲む暇もないくらい忙しかったからね。それに、」
 ヘンリーは肩を竦めて、クスクスと笑いながら言葉を継いだ。
「僕が采配を振るうよりも、『彼』の方がずっと上手くやってくれている気がするよ」




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