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四章
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「何をそんなに怖れているの?」
うなされ、飛び起きた飛鳥の頭をかき抱いて、その背中を宥める様にそっとさすってやりながら、ヘンリーは静かな声で訊ねた。
息を荒げて縋りついているのに、飛鳥はぶんぶんと首を振るだけだ。
「ウイスタンであんなにも嫌がらせされていた時でさえ、きみは平気な顔でやり過ごしていたのに。……そんなに、ヨシノのことが心配?」
びくりと飛鳥の手に力が入り、ヘンリーのシャツを握りしめる。
「ハワード教授と関係があるんだね?」
ヘンリーは畳みかけるように尋ねた。ゆっくりと身体をひいて、飛鳥の髪をかき上げその瞳を覗きこむ。
「僕では力になれない? まだ僕が信用できない?」
飛鳥は眉間に皺を寄せ、ぎゅっと目を瞑って顔を伏せて唇を引き結ぶばかりだ。
その口が開かれ、自分に応えてくれることを祈りながら、ヘンリーはじっと、黙ったまま飛鳥が決心するのを待った。それは瞬きするほどのわずかな時のようにも、じりじりするほど長い間のようにも感じられ――。
やっと飛鳥は口を開き、ゆっくりと息を吐くと小さく嗤ってヘンリーを見つめ返した。
「ずるいよ、きみは。いつだって、僕がノーと言えないように尋ねるんだ」
添えられた手から身体を離して、飛鳥はベッドから立ち上がった。
「雨、止んだね。……サラに謝らないと。食事の席であんな不愉快な思いをさせて、ほんとうに僕は失敗ばかりだ」
自嘲的に嗤いながら、飛鳥は大きく窓を開けた。
「ここに来てから、僕は、きみとサラのことがずっと羨ましかったんだ。僕もきみみたいに吉野のことを守れたら、どんなにいいだろうって。ずっと考えていた」
堰を切ったように喋り出す飛鳥をじっと見守りながら、ヘンリーはベッドに腰かけたまま身じろぎもせず聞き入っている。
「でも、それはできない。あの吉野を閉じ込めるなんて、絶対無理だ。そう思うだろ?」
くすくすと笑う飛鳥に、ヘンリーも苦笑して頷く。
「吉野の中に、お祖父ちゃんの知識の全てが詰まっている」
飛鳥は声を絞り出すようにして続けた。
「言っただろう? 僕は失敗作だ。お祖父ちゃんの才能は受け継がれなかった。僕はいつだって周りの顔色ばかりうかがって、自分の意思で行動できないんだ。そもそも自分の意思なんてないのかもしれない。僕で失敗したから、お祖父ちゃんは吉野をあんなふうに自由に育てたんだ。小さいうちに数学を叩きこんだ後は、会社のことにはいっさい触れさせなかった」
飛鳥は辛そうに顔をしかめ、ぐっと奥歯を噛みしめている。
「アスカ……」
いつの間にか横にヘンリーがいて、そっと髪を撫でてくれていた。
「ゆっくりでいい。時間は十分にあるからね」
止められない嗚咽に顔を覆い、うずくまる飛鳥の横にヘンリーも腰かけ、壁にもたれた。
「僕のせいで、お祖父ちゃんは、死んだんだ――」
咽喉に詰まっていた言葉がやっと声に乗った。
「きみに軽蔑されても仕方がない。僕は、本当に愚かで、弱虫で――」
唇を噛み、息を呑み込み、自分を落ち着けようと歯をくいしばる飛鳥を、ヘンリーは壊れ物に触れるようにそっと抱きしめる。
「きみを軽蔑したりしないよ。僕はきみのことを知っているからね」
飛鳥は首を横に振る。
「最後まで聞いたら、きみだって、今の言葉を取り消すよ。それくらい馬鹿なことを、僕はしてしまったんだ」
肩で息をし、深呼吸して、くいっと飛鳥は顔を上げた。
「お祖父ちゃんが、医療用に開発したレーザー用ガラスを、僕が、核融合実験に応用できるようにしたんだ――。お祖父ちゃんは、その方法を知っていたけれど、グラスフィールド社の依頼をずっとはねつけていた。それを、僕が――。
母さんが死んでから、ガン・エデン社からの嫌がらせや、会社の経営のことや、何もかも無茶苦茶で、先が見えなくて、怖くて、そんな時に優しくされて、それがどういうことか、考えなかった。彼に、お祖父ちゃんに聞いてくれって頼まれて、言えばきっと怒られるから、勝手に、僕が――。考えることが面白くて、彼が喜んでくれるのが嬉しくて、彼が言うように、『杜月』のためになると信じていたんだ。それで、レーザーを強化するためのガラスの構造をどんどん進化させて――」
震える声で一気に喋って、また声を詰まらせる。
「それが、三番目の特許?」
飛鳥は黙ったまま頷いた。そしてまた、震える声で言葉を継いだ。
「――公開されているのは、一部だけなんだ。グラスフィールド社は、お祖父ちゃんが考えたと思っていた。お祖父ちゃんに知られて、彼と会えなくなって、嫌がらせがエスカレートしていった。その製法をあいつらに渡すまで、嫌がらせは続く。僕がお祖父ちゃんの弱みだと思われていた。僕が、彼に製法を漏らしたから。だから、お祖父ちゃんは、終わらせたんだ――。僕を、守る為に――」
「彼っていうのは、グラスフィールド社の社員?」
飛鳥は、抱え込んだ膝に顔を埋めたまま頷いた。
「ずっとそう思っていた。でも違うかも知れない」
辛そうに顔を上げ、掌で額を支えるようにして、唇を歪める。
「グラスフィールド社に、依頼する側の人間だったのかも知れない。ものすごく頭が良くて、彼に刺激されてどんどん視界が開けていって――。エリオット発音だった。アメリカ人だ、って言ってたのに、英国英語を使っていた」
「エリオット――」
ヘンリーは訝し気に呟いた。
「彼も、留学生だったのかな、サマースクールでエリオットに行った話をしたら、懐かしそうに笑っていたよ。クリケットがしたいって」
飛鳥は、口を歪めて小さく嗤った。
「だからグラスフィールド社がなくなっても、不安の種が消えないんだね。軍の核開発施設が直接絡んでいたらまた脅されるかもしれない。次はヨシノが狙われる。きみ達の、あの理論を完成させたのは、ヨシノだから――」
ヘンリーは静かな声で、凍りついた飛鳥の、目を見開き、蒼褪めた面をかろうじて支えているような、小刻みに震える肩に手を添えて言った。
「まさか、あんな子どもが高等数学や物理学を駆使して計算式を出したなんて、今まで誰も考えもしなかったのにね。彼がこの年齢でケンブリッジ大学に受かりでもしたら、確実に目をつけられる。せっかくきみのお祖父さまが、命を落としてまできみ達を守ろうとして下さったのに――」
「お祖父ちゃんと約束したんだ。僕は二度と同じ過ちを繰り返さない、って」
「うん」
「僕に、吉野を守れるのかな――。お祖父ちゃんとの約束を、守り切れるのかな――」
飛鳥は、ヘンリーの肩に額をあずけて呟いた。ヘンリーは、優しくその背に手を添えた。
「闘うしかないよ」
飛鳥が落ち着くのを見計らってから、ヘンリーは唐突に訊ねた。
「きみは、きみを騙したその男を憎んでいる?」
「――憎みも、恨みもしてないよ。騙された僕が馬鹿なんだ。僕は、僕のことを一生許さない。一生、許されたくない。この想いを抱えたまま生きることが、僕の贖罪なんだ」
飛鳥は小さく首を横に振った。俯いたまま、クックッ、と喉を上下させ、泣いているように嗤っていた。
うなされ、飛び起きた飛鳥の頭をかき抱いて、その背中を宥める様にそっとさすってやりながら、ヘンリーは静かな声で訊ねた。
息を荒げて縋りついているのに、飛鳥はぶんぶんと首を振るだけだ。
「ウイスタンであんなにも嫌がらせされていた時でさえ、きみは平気な顔でやり過ごしていたのに。……そんなに、ヨシノのことが心配?」
びくりと飛鳥の手に力が入り、ヘンリーのシャツを握りしめる。
「ハワード教授と関係があるんだね?」
ヘンリーは畳みかけるように尋ねた。ゆっくりと身体をひいて、飛鳥の髪をかき上げその瞳を覗きこむ。
「僕では力になれない? まだ僕が信用できない?」
飛鳥は眉間に皺を寄せ、ぎゅっと目を瞑って顔を伏せて唇を引き結ぶばかりだ。
その口が開かれ、自分に応えてくれることを祈りながら、ヘンリーはじっと、黙ったまま飛鳥が決心するのを待った。それは瞬きするほどのわずかな時のようにも、じりじりするほど長い間のようにも感じられ――。
やっと飛鳥は口を開き、ゆっくりと息を吐くと小さく嗤ってヘンリーを見つめ返した。
「ずるいよ、きみは。いつだって、僕がノーと言えないように尋ねるんだ」
添えられた手から身体を離して、飛鳥はベッドから立ち上がった。
「雨、止んだね。……サラに謝らないと。食事の席であんな不愉快な思いをさせて、ほんとうに僕は失敗ばかりだ」
自嘲的に嗤いながら、飛鳥は大きく窓を開けた。
「ここに来てから、僕は、きみとサラのことがずっと羨ましかったんだ。僕もきみみたいに吉野のことを守れたら、どんなにいいだろうって。ずっと考えていた」
堰を切ったように喋り出す飛鳥をじっと見守りながら、ヘンリーはベッドに腰かけたまま身じろぎもせず聞き入っている。
「でも、それはできない。あの吉野を閉じ込めるなんて、絶対無理だ。そう思うだろ?」
くすくすと笑う飛鳥に、ヘンリーも苦笑して頷く。
「吉野の中に、お祖父ちゃんの知識の全てが詰まっている」
飛鳥は声を絞り出すようにして続けた。
「言っただろう? 僕は失敗作だ。お祖父ちゃんの才能は受け継がれなかった。僕はいつだって周りの顔色ばかりうかがって、自分の意思で行動できないんだ。そもそも自分の意思なんてないのかもしれない。僕で失敗したから、お祖父ちゃんは吉野をあんなふうに自由に育てたんだ。小さいうちに数学を叩きこんだ後は、会社のことにはいっさい触れさせなかった」
飛鳥は辛そうに顔をしかめ、ぐっと奥歯を噛みしめている。
「アスカ……」
いつの間にか横にヘンリーがいて、そっと髪を撫でてくれていた。
「ゆっくりでいい。時間は十分にあるからね」
止められない嗚咽に顔を覆い、うずくまる飛鳥の横にヘンリーも腰かけ、壁にもたれた。
「僕のせいで、お祖父ちゃんは、死んだんだ――」
咽喉に詰まっていた言葉がやっと声に乗った。
「きみに軽蔑されても仕方がない。僕は、本当に愚かで、弱虫で――」
唇を噛み、息を呑み込み、自分を落ち着けようと歯をくいしばる飛鳥を、ヘンリーは壊れ物に触れるようにそっと抱きしめる。
「きみを軽蔑したりしないよ。僕はきみのことを知っているからね」
飛鳥は首を横に振る。
「最後まで聞いたら、きみだって、今の言葉を取り消すよ。それくらい馬鹿なことを、僕はしてしまったんだ」
肩で息をし、深呼吸して、くいっと飛鳥は顔を上げた。
「お祖父ちゃんが、医療用に開発したレーザー用ガラスを、僕が、核融合実験に応用できるようにしたんだ――。お祖父ちゃんは、その方法を知っていたけれど、グラスフィールド社の依頼をずっとはねつけていた。それを、僕が――。
母さんが死んでから、ガン・エデン社からの嫌がらせや、会社の経営のことや、何もかも無茶苦茶で、先が見えなくて、怖くて、そんな時に優しくされて、それがどういうことか、考えなかった。彼に、お祖父ちゃんに聞いてくれって頼まれて、言えばきっと怒られるから、勝手に、僕が――。考えることが面白くて、彼が喜んでくれるのが嬉しくて、彼が言うように、『杜月』のためになると信じていたんだ。それで、レーザーを強化するためのガラスの構造をどんどん進化させて――」
震える声で一気に喋って、また声を詰まらせる。
「それが、三番目の特許?」
飛鳥は黙ったまま頷いた。そしてまた、震える声で言葉を継いだ。
「――公開されているのは、一部だけなんだ。グラスフィールド社は、お祖父ちゃんが考えたと思っていた。お祖父ちゃんに知られて、彼と会えなくなって、嫌がらせがエスカレートしていった。その製法をあいつらに渡すまで、嫌がらせは続く。僕がお祖父ちゃんの弱みだと思われていた。僕が、彼に製法を漏らしたから。だから、お祖父ちゃんは、終わらせたんだ――。僕を、守る為に――」
「彼っていうのは、グラスフィールド社の社員?」
飛鳥は、抱え込んだ膝に顔を埋めたまま頷いた。
「ずっとそう思っていた。でも違うかも知れない」
辛そうに顔を上げ、掌で額を支えるようにして、唇を歪める。
「グラスフィールド社に、依頼する側の人間だったのかも知れない。ものすごく頭が良くて、彼に刺激されてどんどん視界が開けていって――。エリオット発音だった。アメリカ人だ、って言ってたのに、英国英語を使っていた」
「エリオット――」
ヘンリーは訝し気に呟いた。
「彼も、留学生だったのかな、サマースクールでエリオットに行った話をしたら、懐かしそうに笑っていたよ。クリケットがしたいって」
飛鳥は、口を歪めて小さく嗤った。
「だからグラスフィールド社がなくなっても、不安の種が消えないんだね。軍の核開発施設が直接絡んでいたらまた脅されるかもしれない。次はヨシノが狙われる。きみ達の、あの理論を完成させたのは、ヨシノだから――」
ヘンリーは静かな声で、凍りついた飛鳥の、目を見開き、蒼褪めた面をかろうじて支えているような、小刻みに震える肩に手を添えて言った。
「まさか、あんな子どもが高等数学や物理学を駆使して計算式を出したなんて、今まで誰も考えもしなかったのにね。彼がこの年齢でケンブリッジ大学に受かりでもしたら、確実に目をつけられる。せっかくきみのお祖父さまが、命を落としてまできみ達を守ろうとして下さったのに――」
「お祖父ちゃんと約束したんだ。僕は二度と同じ過ちを繰り返さない、って」
「うん」
「僕に、吉野を守れるのかな――。お祖父ちゃんとの約束を、守り切れるのかな――」
飛鳥は、ヘンリーの肩に額をあずけて呟いた。ヘンリーは、優しくその背に手を添えた。
「闘うしかないよ」
飛鳥が落ち着くのを見計らってから、ヘンリーは唐突に訊ねた。
「きみは、きみを騙したその男を憎んでいる?」
「――憎みも、恨みもしてないよ。騙された僕が馬鹿なんだ。僕は、僕のことを一生許さない。一生、許されたくない。この想いを抱えたまま生きることが、僕の贖罪なんだ」
飛鳥は小さく首を横に振った。俯いたまま、クックッ、と喉を上下させ、泣いているように嗤っていた。
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