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三章
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夏季休暇中のエリオット校生たちは、荷物を片づけ、一旦寮を引き払わなければならない。寮を使用して留学生向けのサマースクールが行われるからだ。そんなわけで、二カ月近くある長い休暇中に、生徒たちがエリオットに戻ってくることはほとんどない。
しばらく会えない……。
休暇に入る前に今日こそは言おう、とベンジャミンはパブの入り口の前をうろうろと行ったり来たりしながら、ドアを開ける、というその一歩が踏み出せないでいた。
と、カラン、カランとドアベルの音とともに、誰かが走り出てきた。不意をつかれてよけきれず、ドスンとぶつかる。
「すみません、」
急いで謝り相手の顔を見ると、これから想いを告げに行くつもりの相手の、目を見開いて涙を一杯に溜めた歪んだ顔があった。その女性、アンはすぐさま顔を背けてベンジャミンの横をすり抜けて走り去る。
ベンジャミンは慌ててその後を追った。角を曲がり、細い裏道のパブの勝手口の前で、アンは両腕に頭をもたせ顔を隠すようにして、ドアにもたれて肩を震わせて泣いていた。
「逃げ場所すらないなんて――」
囁くような呟きに、ベンは何と声をかければいいのか判らないまま、ただ、通りからそんな彼女の姿が見られないように、アンに背を向けて、アンを隠すように道に立ち尽くした。
しばらくして、「あんた、そこで何してるの?」と落ち着いたアンの声が背中越しに聞こえた。
「きみが、心配だから」
「あんたには変なときにばかり会うわね」
クスっとした笑い声に安堵し、ベンジャミンはそっと振り返る。
自分よりもずっと背の高いベンジャミンを見上げたアンの目から、また、新しい涙が溢れていた。
「そのローブ、あんたもキングススカラーだったの。知らなかった」
そういえば普段の制服で彼女に会うのは初めてかもしれない。いつもクリケットやボートの練習の後で、ユニフォームのままだった。
「やだ、止まらないわ」
必死で手で涙を拭うアンの頭を掻き抱いた。アンはそのままベンの胸に額をつけて泣きじゃくっていた。
「何かあったの? 僕で力になれることがあれば――」
アンは力なく首を振る。
「ベン!」
咎めるようなきつい声に、腕の中の細い背中が、一瞬びくりと震える。アンは、奥歯をギュッと噛んで肩で深呼吸し、無理矢理涙を止めて振り返った。
自転車を傍らに、吉野が厳しい目線でこちらを見ている。
「ヨシノ、話があるの。店に寄ってちょうだい。大事な話よ」
アンは、静かな、落ち着いた低い声で告げた。そして再びフレデリックを見あげると、「ありがとう。あんたって、本当に紳士ね」と、小さく笑った。
勝手口のドアから厨房に入るアンに、吉野も黙ったまま続く。眉根を寄せたきつい視線で一瞥され、ドアはバタン、と、ベンジャミンの鼻先で閉められた。
「なぁ、アン、あいつは、」
「母が来たの」
アンは吉野の言葉を遮るように口を挟んだ。
「アンに会いに?」
「そんな甘ったるい理由のわけないじゃない。この店を買収しによ」
他に誰もいない広い厨房に、アンの自嘲的な嗤いがクスクスと響く。
「あの人、今、投資ファンドのマネージャーなんですって。どこかの大手チェーンのパブがうちの店を買いたいって」
エプロンのポケットから名刺を取りだし、調理台の上に置く。吉野は名刺にちらと目をやり、不愉快そうに顔をしかめた。
「なんだよ、その話――」
「お祖父ちゃんは、売るって」
「そんな投資ファンドなんかに、二束三文で大事な店を売ることなんかないだろ!」
「確かにうちの店の値段は、二束三文ね」
アンはまた、涙を滲ませながらクックと喉を鳴らす。
「でも、あの人が欲しいのはあんたのレシピとメニューの権利なの。だから二束三文の値段じゃなかったわ。――あの女、お祖父ちゃんの店をなんだと思ってるのかしら!」
吐き捨てるように言い、唇を噛み締めるアンの前で、吉野は言葉をなくし、ただ眉根を寄せた。
「ジャックと話してくる」
「まだ母がいるかもしれない」
「なら、そいつと話す」
吉野はそのまま踵を返してフロアへ向かう。
『休憩中』の札が下がったフロアで、ジャックはひとりカウンターについて煙草を吹かしていた。
「ジャック、」
「よう、坊主! 聞いたのか?」
緊張した面持ちの吉野をひと目見て、ジャックはにっと笑った。
「この店を売るなんてやめろよ」
「いいんだ。その金でアンを大学にやって、わしと息子は田舎に家でも買って暮らすさ」
ジャックは腹を揺すって笑っている。
「だがな、お前のレシピも、メニューも、あいつらには渡すものか。わしには何の権利もない。全部お前のもんだ。この店だけ売りつけて吠え面かかせてやる」
「そんなことできるわけないだろ! 投資ファンドが間に入ってるんだろ? あいつらの書類作成には抜かりはないよ。絶対にこっちに不利になるように仕組まれてるよ。あんな奴らに目をつけられるなんて――。ごめん、ジャック」
「何で坊主が謝るんだ?」
ジャックは椅子から下り吉野の傍らに立つと、その頭をわさわさと撫でて、伏せられた彼の顔を覗き込む。
「俺、馬鹿だった。金さえ稼げばアンを大学に行かせてやれて、ジャックの暮らしも楽になって、て、そんなことしか頭になかった。客層が変わって、昔っからのお客さんは来なくなって、今じゃもうジャックの店じゃないみたいだ――。ほんと、ごめん――。だからだろ? だから売るなんて言うんだろ? 俺が、ジャックの大切な場所を荒らしたからだ――」
「馬鹿だな、坊主。わしはお前がここに来るようになってから、ずっと楽しくて仕方がなかったんだぞ。わしも、息子も、自分のことしか考えていなかった。お前だけだ、お前だけが孫の将来を真剣に心配して思いやってくれた。そうやって、わしに、バラバラだったわしの家族を取り戻してくれたんだ。なぁ、坊主、わしだってな、アンの夢を応援してやりたいんだよ。こんなちっぽけな店に、あいつを縛りつけちゃいけないって判ったのさ」
「だからって、店を売るなんて――」
「借金はちゃらになって、まとまった金が手に入る、それでいいのさ」
吉野はぶんぶんと首を横に振って、ジャックにしがみつき、声高に叫んだ。
「駄目だよ! ここは、ジャックとマーサの築きあげた大切な城なんだって言ってたじゃないか! 手放しちゃだめだ!」
「ばぁさんは、もういないよ」
淋しそうに笑うジャックを目を見開いて見つめ、「俺、ちゃんと落とし前つけるよ。だからこの件は俺に任せて。投資ファンドなんかと、サシで話そうとしちゃ駄目だよ。うちはそれで無茶苦茶にされたんだ」と吉野は肩で深く深呼吸をする。そして、意を決したように思い詰めた声で訊いた。
「エリアスは?」
「デリバリーに出てる」
「絶対に、勝手に決めないでくれよ。弁護士を雇ってもらうから。話はそれからだ」
「大袈裟だな、坊主。決めるも何も、お前のレシピが絡んでいるんだ。勝手にはできないさ」
何をそんなに気に病むことがある? とばかりに笑って、ジャックは吉野の頭に大きなごつごつとした手をのせ、抱きしめて、優しく背中を撫でてやった。吉野はされるがままで、どこかぼんやりとしたまま視線を彷徨わせていた。
しばらく会えない……。
休暇に入る前に今日こそは言おう、とベンジャミンはパブの入り口の前をうろうろと行ったり来たりしながら、ドアを開ける、というその一歩が踏み出せないでいた。
と、カラン、カランとドアベルの音とともに、誰かが走り出てきた。不意をつかれてよけきれず、ドスンとぶつかる。
「すみません、」
急いで謝り相手の顔を見ると、これから想いを告げに行くつもりの相手の、目を見開いて涙を一杯に溜めた歪んだ顔があった。その女性、アンはすぐさま顔を背けてベンジャミンの横をすり抜けて走り去る。
ベンジャミンは慌ててその後を追った。角を曲がり、細い裏道のパブの勝手口の前で、アンは両腕に頭をもたせ顔を隠すようにして、ドアにもたれて肩を震わせて泣いていた。
「逃げ場所すらないなんて――」
囁くような呟きに、ベンは何と声をかければいいのか判らないまま、ただ、通りからそんな彼女の姿が見られないように、アンに背を向けて、アンを隠すように道に立ち尽くした。
しばらくして、「あんた、そこで何してるの?」と落ち着いたアンの声が背中越しに聞こえた。
「きみが、心配だから」
「あんたには変なときにばかり会うわね」
クスっとした笑い声に安堵し、ベンジャミンはそっと振り返る。
自分よりもずっと背の高いベンジャミンを見上げたアンの目から、また、新しい涙が溢れていた。
「そのローブ、あんたもキングススカラーだったの。知らなかった」
そういえば普段の制服で彼女に会うのは初めてかもしれない。いつもクリケットやボートの練習の後で、ユニフォームのままだった。
「やだ、止まらないわ」
必死で手で涙を拭うアンの頭を掻き抱いた。アンはそのままベンの胸に額をつけて泣きじゃくっていた。
「何かあったの? 僕で力になれることがあれば――」
アンは力なく首を振る。
「ベン!」
咎めるようなきつい声に、腕の中の細い背中が、一瞬びくりと震える。アンは、奥歯をギュッと噛んで肩で深呼吸し、無理矢理涙を止めて振り返った。
自転車を傍らに、吉野が厳しい目線でこちらを見ている。
「ヨシノ、話があるの。店に寄ってちょうだい。大事な話よ」
アンは、静かな、落ち着いた低い声で告げた。そして再びフレデリックを見あげると、「ありがとう。あんたって、本当に紳士ね」と、小さく笑った。
勝手口のドアから厨房に入るアンに、吉野も黙ったまま続く。眉根を寄せたきつい視線で一瞥され、ドアはバタン、と、ベンジャミンの鼻先で閉められた。
「なぁ、アン、あいつは、」
「母が来たの」
アンは吉野の言葉を遮るように口を挟んだ。
「アンに会いに?」
「そんな甘ったるい理由のわけないじゃない。この店を買収しによ」
他に誰もいない広い厨房に、アンの自嘲的な嗤いがクスクスと響く。
「あの人、今、投資ファンドのマネージャーなんですって。どこかの大手チェーンのパブがうちの店を買いたいって」
エプロンのポケットから名刺を取りだし、調理台の上に置く。吉野は名刺にちらと目をやり、不愉快そうに顔をしかめた。
「なんだよ、その話――」
「お祖父ちゃんは、売るって」
「そんな投資ファンドなんかに、二束三文で大事な店を売ることなんかないだろ!」
「確かにうちの店の値段は、二束三文ね」
アンはまた、涙を滲ませながらクックと喉を鳴らす。
「でも、あの人が欲しいのはあんたのレシピとメニューの権利なの。だから二束三文の値段じゃなかったわ。――あの女、お祖父ちゃんの店をなんだと思ってるのかしら!」
吐き捨てるように言い、唇を噛み締めるアンの前で、吉野は言葉をなくし、ただ眉根を寄せた。
「ジャックと話してくる」
「まだ母がいるかもしれない」
「なら、そいつと話す」
吉野はそのまま踵を返してフロアへ向かう。
『休憩中』の札が下がったフロアで、ジャックはひとりカウンターについて煙草を吹かしていた。
「ジャック、」
「よう、坊主! 聞いたのか?」
緊張した面持ちの吉野をひと目見て、ジャックはにっと笑った。
「この店を売るなんてやめろよ」
「いいんだ。その金でアンを大学にやって、わしと息子は田舎に家でも買って暮らすさ」
ジャックは腹を揺すって笑っている。
「だがな、お前のレシピも、メニューも、あいつらには渡すものか。わしには何の権利もない。全部お前のもんだ。この店だけ売りつけて吠え面かかせてやる」
「そんなことできるわけないだろ! 投資ファンドが間に入ってるんだろ? あいつらの書類作成には抜かりはないよ。絶対にこっちに不利になるように仕組まれてるよ。あんな奴らに目をつけられるなんて――。ごめん、ジャック」
「何で坊主が謝るんだ?」
ジャックは椅子から下り吉野の傍らに立つと、その頭をわさわさと撫でて、伏せられた彼の顔を覗き込む。
「俺、馬鹿だった。金さえ稼げばアンを大学に行かせてやれて、ジャックの暮らしも楽になって、て、そんなことしか頭になかった。客層が変わって、昔っからのお客さんは来なくなって、今じゃもうジャックの店じゃないみたいだ――。ほんと、ごめん――。だからだろ? だから売るなんて言うんだろ? 俺が、ジャックの大切な場所を荒らしたからだ――」
「馬鹿だな、坊主。わしはお前がここに来るようになってから、ずっと楽しくて仕方がなかったんだぞ。わしも、息子も、自分のことしか考えていなかった。お前だけだ、お前だけが孫の将来を真剣に心配して思いやってくれた。そうやって、わしに、バラバラだったわしの家族を取り戻してくれたんだ。なぁ、坊主、わしだってな、アンの夢を応援してやりたいんだよ。こんなちっぽけな店に、あいつを縛りつけちゃいけないって判ったのさ」
「だからって、店を売るなんて――」
「借金はちゃらになって、まとまった金が手に入る、それでいいのさ」
吉野はぶんぶんと首を横に振って、ジャックにしがみつき、声高に叫んだ。
「駄目だよ! ここは、ジャックとマーサの築きあげた大切な城なんだって言ってたじゃないか! 手放しちゃだめだ!」
「ばぁさんは、もういないよ」
淋しそうに笑うジャックを目を見開いて見つめ、「俺、ちゃんと落とし前つけるよ。だからこの件は俺に任せて。投資ファンドなんかと、サシで話そうとしちゃ駄目だよ。うちはそれで無茶苦茶にされたんだ」と吉野は肩で深く深呼吸をする。そして、意を決したように思い詰めた声で訊いた。
「エリアスは?」
「デリバリーに出てる」
「絶対に、勝手に決めないでくれよ。弁護士を雇ってもらうから。話はそれからだ」
「大袈裟だな、坊主。決めるも何も、お前のレシピが絡んでいるんだ。勝手にはできないさ」
何をそんなに気に病むことがある? とばかりに笑って、ジャックは吉野の頭に大きなごつごつとした手をのせ、抱きしめて、優しく背中を撫でてやった。吉野はされるがままで、どこかぼんやりとしたまま視線を彷徨わせていた。
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