胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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三章

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「ヨシノがまた逃げ出しているよ」
 アレンは一瞬振り返って小声でそう告げると、また開け放った窓枠に肘をついて暗闇に目を凝らす。

「どこ、どこ?」
 フレデリックも横に並んで、窓から身を乗り出すようにして向いの銀杏の木の下や、黒く沈み込んだ中庭の芝生の上に吉野の姿を探した。
「ほら、あそこ」
 アレンが指差した方向を目で追い、「泳ぎに行くのかな。今日は、月も出ていないのに……」と心配そうに呟いて、自分のスマートフォンを取り出し吉野の位置情報を確認する。

「連れ戻してくるよ。寮長室の灯りもすぐ後に消えたんだ。寮長より先に見つけないと」
 アレンは薄暗がりの中、急いでもう一度制服に着替えローブを羽織った。
「僕も行くよ」
 心配そうに顔をしかめるフレデリックに、アレンは首を横に振って応える。
「一人で平気。僕は夜目が利くからすぐ追いつけるよ。もし見回りが来たら誤魔化しておいて」


 吉野が頻繁に抜け出すせいなのかは知らないが、最近はやたらと夜間の取り締まりが厳しくなった。夜中の急な点呼が度重なっているのだ。

「見回りする本人が追い駆けているのなら、大丈夫だよ」
 フレデリックは苦笑したが、もう同行するとは言わずに、気をつけて、とアレンを送り出した。



 吉野のように、窓から木を伝って飛び降りる訳にはいかないので、アレンは足音を忍ばせて階段を下り、一階の窓を開けて外に出るとそこから全力で走り出す。


 月のない闇夜でも歩けるほど何度も通った池のある林に入ると、微かに不思議な音が聞こえてきた。

 フルート……?

 音に惹かれて進んでいくと、新緑の葉を茂らせたけやきの大木の根元に吉野がいた。

 ふっと雲が切れ、月が顔を覗かせる。吉野は、唇を笛に当てたまま顔をあげ笑っているように目を細めていた。


 その調べは今まで聴いたことのない不思議な旋律で、空気を震わせる高音にもかかわらず、あまりにも静かで、流れるようで、アレンは、本当は吉野と話がしたくて追いかけていたことをすっかり忘れ、浄化され、澄み渡る空気に身を浸すようにしゃがみこんでいた。

 どのくらいたったのか、顔を伏せ、じっと聴き入っていたアレンは、音が途切れたことに気づいて顔をあげた。目の前に吉野がいて、同じようにしゃがみ込んで自分を覗き込んでいた。

 驚いてのけ反るアレンに、「何やってんだ、こんなところで。学習能力のないやつだな!」と、吉野は乱暴な口調で言い、自分のことは棚にあげて偉そうに顎をしゃくる。

「さっさと帰れ。消灯時間を過ぎてるんだぞ」
「きみを探しにきたんだよ。早く戻らないと、今日は寮長が見回りに出ているんだ」
「そうなのか、チャールズ?」


 顔をあげた吉野の視線を追って振り返ると、寮長が苦笑しながら見おろしている。
「まぁ、そうだね。かなり収穫があったよ、五、六人は捕まえたしね」
「なんだ、もうそんなに広まっているのか――」
 つまらなそうに呟く吉野に、チャールズは肩をすくめる。

「だから、夜歩きは慎みなさいってことだよ。今じゃもう、ここの伝説がすっかり変わってしまって困ったことだ」
「伝説って――?」
 訳が判らず怪訝な顔をして吉野とチャールズを見比べていたアレンに、
「なんだ、お前、知らないのか?」と吉野はニヤニヤしながら、声のトーンを落として顔を寄せた。

「出るんだよ、この池。何年か前に、上級生から預かった大切な鍵を落としてなくしちまってな、怒られて、つまはじきにされて、そこの池に飛び込んで死んだ、何とかアボットていう一学年がな、鍵をなくした時間になると、こう、池から這いでてきて――、」

「きゃっ、」

 ボチャン、という水音に、アレンは耳を押さえ瞼をギュッと瞑って小さく悲鳴を上げる。クスクスと聞こえる忍び笑いに恐る恐る目を開けると、吉野も、寮長も、声を殺して口を抑えていた。

「からかったの?」
 頬を膨らませて怒るアレンに、吉野は笑いを噛み殺しながら続けた。
「――って作り話をな、ここでの昼寝の時間を確保するために、お前の兄貴ヘンリーが振り撒いたんだ」

 思いがけず兄の名を出され、アレンは唖然として二の句が継げなくなっている。

「今は、類まれな妙音に誘われ、ふらふらと夜中に彷徨い歩く寮生が続出、セイレーンの池って噂になっているよ」
 チャールズは吉野の肩に手を置いて、ため息をつく。

「もう、勘弁してくれよ。どうして夜じゃないと駄目なんだい?」
「月が綺麗だろ」
「さっきまで曇って見えなかった」
「雲が切れると思ったんだよ。こんな日は遠くまで飛べるんだ」
 無邪気な顔で月を眺める吉野の頭を、チャールズはコンと小突いた。
「まぁ、そういうことだ。アレン、ここで見たことは内緒にしておくれ」
「寮長公認ってことですか?」
 眉をしかめるアレンに、チャールズは、「たまに息抜きさせてやらないと、とんでもないことをしでかすからね、この子は」と、苦笑して言った。

「笛なら自習室で吹けばいいのに……」
「空気の澱んだ教室じゃ嫌なんだ」吉野は呟き、チャールズは納得がいかない様子のアレンの頭をくしゃっと撫でてやりながら、「あんな麻薬みたいな笛の音、他の子たちに聞かせるわけにはいかないよ。きみなら判るだろ?」と背中を丸めてアレンの視線に合わせ、同意を求めるようにじっと覗き込む。

 そんな風に言われると反論出来ない――。自分も、何もかも忘れて聞き惚れていたのだから。アレンは、当初の目的を思い出し、困ったように口角を上げ、頷いた。

 また、言えなかった――。

 どうしてこう、間が悪いんだろう。やっと彼が、自分に対しても他の子と同じような口調で話してくれるようになったのに――。

 もどかしい想いを抱えたまま、アレンは、月明りに照らされた道を一歩遅れて、寮長と肩を並べて歩く吉野の背中を、淋しげに見つめながら帰路に着いていた。






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