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三章
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「ヨシノのお茶会に行こうよ!」
頬を薔薇色に染めて駆けてきたクリスは、学舎から出てきたばかりのアレンとフレデリックの腕を掴むと、ぐいぐいと引っ張っる。
「先着順だから急がなきゃ!」
訳が判らないまま回廊を抜けて中庭に出、さらに離れた別の学舎に向かう道すがら、二人はかわるがわるクリスに質問した。
「お茶会って?」
「どこに行くの?」
「科学室。科学部が創立祭で出す喫茶の試食会をするんだよ」
クリスは舌を噛みそうになりながら、足早に進み、説明する。
「ヨシノって化学部だっけ?」
「違うけど、料理監修特別顧問だって!」
三人は裏道に出るなり、走り出した。
吉野が何かするとなったら、すぐに人が集まってくる。同じ寮だからって特別扱いはなしだ。急がないとあぶれてしまう!
科学室前の廊下は、すでに開場待ちの生徒でごった返していた。
「えー! もう、ないの!」
ただの試食会だというのに整理券がいるらしい。もちろん、そんなものはすでに残っていない。大声で科学部員が説明し、謝っている。三人ともがっくりと肩を落とした。と、寮長のチャールズが歩み寄って肩を叩き、「ほら、きみたちの分」と整理券を三枚差し出してくれた。
驚いて目を輝かせる下級生たちにその長身を屈めて、チャールズは顔を近づけると小声でささやいた。
「ヨシノにお礼を言っておくんだよ」
いつも通りの時間に店に入ったアンは、ニヤニヤしている祖父の様子には気をとめることもなく、言われるまま椅子に腰かけ、頬杖をついてぼんやりと入り口を眺めていた。
しばらくすると、ほんわりと、甘い、優雅な花の香りに鼻孔をくすぐられた。正面に向き直ると、目の前のカウンターにガラスのティーセットが置かれている。ティーポットの中の紅茶には、桜の花が一輪ふわふわと漂っている。
「うわぁ、綺麗ね」
「スコーンもあるぞ」
ジャックは武骨な手で、薄いピンク色のスコーンをシンプルな白い皿にのせ、アイスクリームを装って差し出した。
アンは目を丸くして、「お祖父ちゃん、いつからこんなおしゃれなメニュー出すようになったの?」と気味の悪いものでも見るように、眉間に皺をよせる。
「馬鹿、坊主が持ってきたに決まってるだろ。ほら、レシピ」
ジャックは嬉しそうに顔を緩ませて、アンの前にばさりとレポート用紙の束を投げ置いた。久しぶりだ。こんな祖父を見るのは。
「さっさと食え。アイスが溶ける」
私には、そんな顔しないくせに――。
吉野が顔を見せなくなってから、ずっと苦虫を潰したように不機嫌だった祖父の浮かれた様子にアンは苦笑いしながら、紅茶を注ぎ、口に運ぶ。芳香が口一杯に広がった。
「甘い、優しい味ね。蜂蜜?」
ドンッ、とジャックの持ち上げたガラス瓶の置かれる音が鈍く響く。
「桜のはちみつ漬けだそうだ」
「このスコーンも桜?」
アンは、濃いピンクの欠片の見え隠れするスコーンを持ち上げて一口かじった。
「桜と苺のスコーン、ホワイトチョコレートアイス添えです」
厨房から戻ったエリアスが、ジャックの代わりに答えた。
「女性客向けの春限定メニューだそうです。もっとも、彼が持ってきた分量だけでは、三日でなくなりそうですがね」
アンは、目の前に置かれたガラス瓶に視線を戻す。もう、三分の一は減っている。スコーンを食べながら、渡されたレシピに目を通した。
「桜のスパークリングワインまで――。何でもありね、このはちみつ漬け。でも……」
「洗って、拭いて、塩漬けにして、乾かしてまた、塩漬けにして保管。使う時に水に浸けて塩を抜いて、拭いて、やっとはちみつに漬ける。恐ろしく手間でしょう?」
いつもと同じ、張りついた笑顔で説明するエリアスは、今日はいつもよりも少しだけ、のぼせているように饒舌だった。
「一週間分の売り上げを見て注文があるようなら、街外れのヘンダーソンの奥さんと契約を結ぶそうですよ。彼が奥さんに作り方を指導したそうです」
「ああ、あの家には見事な桜の木があるものな。おまけにあのばあさんは、菓子だの、料理だのを作るのが嫌いじゃないときたもんだ」
ジャックは納得したように何度も頷いている。
「この紅茶も、桜の花が入っているだけではなくて、桜の葉を混ぜ込んだ彼のオリジナルブレンドだそうですよ。あんな子どもが、どうやって作っているんだか――」
エリアスは小さく息をつくと、「まったく彼の手は、全てを黄金に変えるミダスの手だな」と皮肉めいた口調で呟いた。
「ヨシノは、ミダス王のように強欲じゃないわ」
アンは、キッとエリアスを睨めつける。
「けれど、その手で触れるものを、全て金に換えていく。そうでしょう、ジャック? 人気メニューに、輸入食品、赤字経営のこの店をあっという間に黒字にして、改装費用までたたき出した」
「改装?」
訝しげに眉を寄せたアンに、ジャックは、「改装するんだ、この店をな。これからは、俺と、お前の親父とでやっていくんだ、アン」と、ふいに真面目くさった調子で告げた。
「そんなの無理よ――」
寝耳に水の話にアンは茫然として。
「お前の親父がまともに働くようになったら、お前は大学へ行け」
「え?」
「坊主と約束したんだ」
ジャックは、ひょいっと肩をすくめた。
「期待していますよ、アン」
エリアスも、口元に微笑をたたえてアンを見つめていた。
「ヨシノはあなたに投資するって言ったそうじゃないですか。彼にそこまで言わせるあなたの真価を見せて下さい」
「そんなもの、ただの同情か、道楽に決まってるじゃない。ヨシノはエリオットの、お金持ちの、お坊ちゃんだもの」
アンは苛立たしげに眉を寄せ、吐き捨てる様に言った。
「それは違います。彼の実家である『杜月』という会社は、本当に潰れかけていたんです。うちのCOOは、友人でもあったヨシノの兄とその会社を救うために、わざわざジョサイアグループからIT部門のコズモスを独立させ、吸収合併の形を取らずに、あくまで新会社設立という対等の立場で、『杜月』と合併させたんです。親友のプライドを傷つけないように、そんな回りくどいやり方でね。杜月家には、道楽であなたに投資するような余分な金はありませんよ。ヨシノはここで、自分の頭で稼ぎだしたんです。あなたのためにね」
エリアスは、自分のこめかみを指先でトントンと叩いて、薄く微笑んでいた。
前年度のウイスタン校最優秀生徒賞は、予想通りのヘンリー・ソールスベリーだった。そして、特別生徒賞が、アスカ・トヅキだ。化学発明コンクールでの功績が称えられての結果だった。その対象となった空中映像が、TSの原型だ。この空中映像に関する特許は、ほぼアスカ・トヅキとアーカシャ―HDが押さえている。米国での発表以来、未上場のアーカシャ―HDに代わって、ジョサイヤ貿易の株価はうなぎ上りなのだ。
『杜月』は、ヘンリー・ソールスベリーのまったく見事な先物買いだった。たかだか数百万ポンドの投資で、得られた利益は計り知れない。
今、世界中で最も注目されている技術者アスカ・トヅキには、コズモスの社員であっても早々近づくことはできない。が、そのウイークポイントと言われる問題児の弟、その子守りの話が降ってわいた時、エリアスは、初めて神に感謝した。
じっと当惑して考え込んでいるアンを眺めながら、エリアスは、今、自分自身がここにいる理由を噛みしめるように思い返していた。
こんな、小娘のために――。
化粧でもすれば、少しは見られるようになるかもしれないが、何の変哲もない田舎娘だ。あの年頃には、こんなのでも女に見えるのか?
「改装は六月に入ってからです。それまで一緒に力を合わせて頑張りましょう」
アンに向けられた侮蔑的な視線は表には欠片もだすことなく、エリアスはにこやかに微笑み、ジャックと顔を見合わせ、頷き合っていた。
頬を薔薇色に染めて駆けてきたクリスは、学舎から出てきたばかりのアレンとフレデリックの腕を掴むと、ぐいぐいと引っ張っる。
「先着順だから急がなきゃ!」
訳が判らないまま回廊を抜けて中庭に出、さらに離れた別の学舎に向かう道すがら、二人はかわるがわるクリスに質問した。
「お茶会って?」
「どこに行くの?」
「科学室。科学部が創立祭で出す喫茶の試食会をするんだよ」
クリスは舌を噛みそうになりながら、足早に進み、説明する。
「ヨシノって化学部だっけ?」
「違うけど、料理監修特別顧問だって!」
三人は裏道に出るなり、走り出した。
吉野が何かするとなったら、すぐに人が集まってくる。同じ寮だからって特別扱いはなしだ。急がないとあぶれてしまう!
科学室前の廊下は、すでに開場待ちの生徒でごった返していた。
「えー! もう、ないの!」
ただの試食会だというのに整理券がいるらしい。もちろん、そんなものはすでに残っていない。大声で科学部員が説明し、謝っている。三人ともがっくりと肩を落とした。と、寮長のチャールズが歩み寄って肩を叩き、「ほら、きみたちの分」と整理券を三枚差し出してくれた。
驚いて目を輝かせる下級生たちにその長身を屈めて、チャールズは顔を近づけると小声でささやいた。
「ヨシノにお礼を言っておくんだよ」
いつも通りの時間に店に入ったアンは、ニヤニヤしている祖父の様子には気をとめることもなく、言われるまま椅子に腰かけ、頬杖をついてぼんやりと入り口を眺めていた。
しばらくすると、ほんわりと、甘い、優雅な花の香りに鼻孔をくすぐられた。正面に向き直ると、目の前のカウンターにガラスのティーセットが置かれている。ティーポットの中の紅茶には、桜の花が一輪ふわふわと漂っている。
「うわぁ、綺麗ね」
「スコーンもあるぞ」
ジャックは武骨な手で、薄いピンク色のスコーンをシンプルな白い皿にのせ、アイスクリームを装って差し出した。
アンは目を丸くして、「お祖父ちゃん、いつからこんなおしゃれなメニュー出すようになったの?」と気味の悪いものでも見るように、眉間に皺をよせる。
「馬鹿、坊主が持ってきたに決まってるだろ。ほら、レシピ」
ジャックは嬉しそうに顔を緩ませて、アンの前にばさりとレポート用紙の束を投げ置いた。久しぶりだ。こんな祖父を見るのは。
「さっさと食え。アイスが溶ける」
私には、そんな顔しないくせに――。
吉野が顔を見せなくなってから、ずっと苦虫を潰したように不機嫌だった祖父の浮かれた様子にアンは苦笑いしながら、紅茶を注ぎ、口に運ぶ。芳香が口一杯に広がった。
「甘い、優しい味ね。蜂蜜?」
ドンッ、とジャックの持ち上げたガラス瓶の置かれる音が鈍く響く。
「桜のはちみつ漬けだそうだ」
「このスコーンも桜?」
アンは、濃いピンクの欠片の見え隠れするスコーンを持ち上げて一口かじった。
「桜と苺のスコーン、ホワイトチョコレートアイス添えです」
厨房から戻ったエリアスが、ジャックの代わりに答えた。
「女性客向けの春限定メニューだそうです。もっとも、彼が持ってきた分量だけでは、三日でなくなりそうですがね」
アンは、目の前に置かれたガラス瓶に視線を戻す。もう、三分の一は減っている。スコーンを食べながら、渡されたレシピに目を通した。
「桜のスパークリングワインまで――。何でもありね、このはちみつ漬け。でも……」
「洗って、拭いて、塩漬けにして、乾かしてまた、塩漬けにして保管。使う時に水に浸けて塩を抜いて、拭いて、やっとはちみつに漬ける。恐ろしく手間でしょう?」
いつもと同じ、張りついた笑顔で説明するエリアスは、今日はいつもよりも少しだけ、のぼせているように饒舌だった。
「一週間分の売り上げを見て注文があるようなら、街外れのヘンダーソンの奥さんと契約を結ぶそうですよ。彼が奥さんに作り方を指導したそうです」
「ああ、あの家には見事な桜の木があるものな。おまけにあのばあさんは、菓子だの、料理だのを作るのが嫌いじゃないときたもんだ」
ジャックは納得したように何度も頷いている。
「この紅茶も、桜の花が入っているだけではなくて、桜の葉を混ぜ込んだ彼のオリジナルブレンドだそうですよ。あんな子どもが、どうやって作っているんだか――」
エリアスは小さく息をつくと、「まったく彼の手は、全てを黄金に変えるミダスの手だな」と皮肉めいた口調で呟いた。
「ヨシノは、ミダス王のように強欲じゃないわ」
アンは、キッとエリアスを睨めつける。
「けれど、その手で触れるものを、全て金に換えていく。そうでしょう、ジャック? 人気メニューに、輸入食品、赤字経営のこの店をあっという間に黒字にして、改装費用までたたき出した」
「改装?」
訝しげに眉を寄せたアンに、ジャックは、「改装するんだ、この店をな。これからは、俺と、お前の親父とでやっていくんだ、アン」と、ふいに真面目くさった調子で告げた。
「そんなの無理よ――」
寝耳に水の話にアンは茫然として。
「お前の親父がまともに働くようになったら、お前は大学へ行け」
「え?」
「坊主と約束したんだ」
ジャックは、ひょいっと肩をすくめた。
「期待していますよ、アン」
エリアスも、口元に微笑をたたえてアンを見つめていた。
「ヨシノはあなたに投資するって言ったそうじゃないですか。彼にそこまで言わせるあなたの真価を見せて下さい」
「そんなもの、ただの同情か、道楽に決まってるじゃない。ヨシノはエリオットの、お金持ちの、お坊ちゃんだもの」
アンは苛立たしげに眉を寄せ、吐き捨てる様に言った。
「それは違います。彼の実家である『杜月』という会社は、本当に潰れかけていたんです。うちのCOOは、友人でもあったヨシノの兄とその会社を救うために、わざわざジョサイアグループからIT部門のコズモスを独立させ、吸収合併の形を取らずに、あくまで新会社設立という対等の立場で、『杜月』と合併させたんです。親友のプライドを傷つけないように、そんな回りくどいやり方でね。杜月家には、道楽であなたに投資するような余分な金はありませんよ。ヨシノはここで、自分の頭で稼ぎだしたんです。あなたのためにね」
エリアスは、自分のこめかみを指先でトントンと叩いて、薄く微笑んでいた。
前年度のウイスタン校最優秀生徒賞は、予想通りのヘンリー・ソールスベリーだった。そして、特別生徒賞が、アスカ・トヅキだ。化学発明コンクールでの功績が称えられての結果だった。その対象となった空中映像が、TSの原型だ。この空中映像に関する特許は、ほぼアスカ・トヅキとアーカシャ―HDが押さえている。米国での発表以来、未上場のアーカシャ―HDに代わって、ジョサイヤ貿易の株価はうなぎ上りなのだ。
『杜月』は、ヘンリー・ソールスベリーのまったく見事な先物買いだった。たかだか数百万ポンドの投資で、得られた利益は計り知れない。
今、世界中で最も注目されている技術者アスカ・トヅキには、コズモスの社員であっても早々近づくことはできない。が、そのウイークポイントと言われる問題児の弟、その子守りの話が降ってわいた時、エリアスは、初めて神に感謝した。
じっと当惑して考え込んでいるアンを眺めながら、エリアスは、今、自分自身がここにいる理由を噛みしめるように思い返していた。
こんな、小娘のために――。
化粧でもすれば、少しは見られるようになるかもしれないが、何の変哲もない田舎娘だ。あの年頃には、こんなのでも女に見えるのか?
「改装は六月に入ってからです。それまで一緒に力を合わせて頑張りましょう」
アンに向けられた侮蔑的な視線は表には欠片もだすことなく、エリアスはにこやかに微笑み、ジャックと顔を見合わせ、頷き合っていた。
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