160 / 745
三章
2
しおりを挟む
イースター休暇が終わりケンブリッジに戻ってきた飛鳥たちも、大学での慌ただしい日常に戻っていた。
アーネストは、エリオットにいるエリアスからの報告メールを確認してふっと微笑み、「ヨシノの手は、もうかなり回復しているそうだよ」
と横を歩く飛鳥に告げた。
「良かった。笛と弓がないと、あいつ、すぐイライラしだすから」
飛鳥は嬉しそうに目を細める。
「でも、このパブの女の子、大丈夫なの?」
アーネストは眉をひそめて心配そうに首を傾げている。
「大丈夫って? ちょっときつそうだけれど、可愛らしい、面倒見の良さそうないい子だったよ」
飛鳥は訝しげにアーネストを見つめ返した。
「エリオットは男子校だからね。可愛い子にちょっと優しくされると、コロッとまいってしまうよ。ヨシノは大丈夫なの? そんな子を近くに置いておいて」
予想外の真面目な問いかけに、飛鳥はかえって吹きだしている。
「アンは僕たちと同じ、あれ、いっこ下だったかな? 吉野からしたら、五つ、六つも上だよ。あり得ないよ」
「え、そう? 十分あり得ると思うけれど……。だってヨシノは、その子のことをすごく気にかけているんだろ?」
「大学に行けってね。家族の犠牲になってるような子をみると、放っておけないんだよ。吉野は優しいから」
飛鳥はすっと目を伏せて、困ったように微笑んだ。
「誰にでも?」
「誰にでも」
頷く飛鳥にアーネストは苦笑して言った。
「それは困った癖だね。やっぱりあの子は手のかかる子だよ」
飛鳥は声を立てて笑い、ふと通り過ぎようとしていた、校舎の裏手に植えられた一本の桜に目をとめて立ち止まった。
「アーニー、ソメイヨシノだ!」
嬉しそうに目を輝かせて、アーネストを呼び止める。
「日本の桜は、ほとんどがこの木なんだよ。英国に来て、初めて見たよ!」
日本人に負けず劣らず英国人は桜好きで、至る所に植えられている。だがソメイヨシノだけは、目にすることが無かったのだ。飛鳥は、ほっとしたように歩み寄って、その幹に触れた。頭上には、白色に近い淡紅色の花が枝一杯に満開だ。
「ちゃんと、英国にも根づいていたんだね」
「ヨシノと同じ名前の桜?」
アーネストの問いに、飛鳥はただニコニコと頷き返した。
右手のゴムボールをぎゅっ、ぎゅっ、と何度も繰り返して握る、そのゴムの摩擦音が途切れ、ふぅと息をつくのを見計らってから、クリスは吉野に声をかけた。さきほどから声をかけるタイミングを狙っていたのだ。
「リハビリは順調?」
「うん、生活する分にはもう困らない」
吉野は、椅子の上で思いっきり背中を伸ばして欠伸をする。
「きみ、本当に今年のIGCSEを受けるの?」
クリスは、つまらなそうに憮然とした顔をして訊ねている。
「国際スカラーの下級生組は、みんな受けるだろ」
「僕は来年だよ。きみがそのつもりだって知っていたら、もっと早くから準備したのに――」
「今年IGCSEでグレードAを取って、来年は、Aレベル。こんな学校、二年で卒業だ」
吉野はせいせいするとばかりに、にっと笑っている。
「きみはここが嫌いなの?」
数あるパブリックスクールの中でも、常にダントツで人気の学校なのに――。二年間に渡る受験期間を経てこの学校に入ったクリスには、吉野がなぜ、こうも早く大学に進学したがるのかが理解できない。
「エリオットで学ぶのは、勉強だけじゃないよ、ヨシノ」
クリスからしてみれば、あまりにも短絡的な吉野の言い分に納得ができないのだ。少しむっとして頬を膨らませる。
「紳士になるための学校だもんな」
吉野はくっくっと可笑しそうに笑う。
「なりたくないよ――、そんなもの」
吉野は、机に突っ伏して肩を震わせて投げやりに笑っていた。
「全く、なんで俺、こんな学校に来ちまったんだろうな。政治家になるのでも、金融に進む訳でもないのに……。俺みたいなのが、ここでコネ作ったって何の役に立つ? 卒業したら、もう二度と会うこともないよ」
「きみにとって、僕たちはその程度の存在?」
傷ついたように呟いたクリスに、吉野は、はっと口をつぐみ、「ごめん……、俺、疲れているんだ」と、言い訳する。
クリスは黙ったまま顔を伏せ、自分の机に向かうと片づけを始めた。もうじき、消灯の時間だった。
「僕も、きみのお兄さんに会いたかったな」
灯りの消えた部屋で、カーテンの隙間から差し込む月明りの中、仄かに浮かぶ天井を見るでもなく見つめてクリスは呟いた。
「フレッドが、言っていたんだ」
「うん」
「きみとは全然似ていなくて驚いたって」
「そうか?」
吉野は眠たそうに相槌を打つ。
「きみは早く大人になって、お兄さんやヘンリー先輩と一緒に、TSを造りたいの? だから、そんなに焦っているの?」
「TSなんかどうでもいいよ。あれは、ヘンリーの望みであって、飛鳥のじゃない。俺は、飛鳥を取り戻したいだけだよ」
「取り戻すって?」
「あいつにいいように使われて、やりたいこともできない飛鳥なんて、飛鳥じゃない。いつだって、飛鳥ばっかりが会社の犠牲になるのが嫌なんだ」
吉野は、クリスに背を向けたまま応えた。
枕に顔を埋めて、ロンドンで会った時の飛鳥の静かな瞳を思い出し、ぎりっと歯ぎしりをしていた。
飛鳥は、もう、何もかも諦めているみたいだったから。
前と、同じだ。祖父ちゃんや、父さんの言いなりになって、言われるままに使われる事で、俺たちを、家族を、支えてくれていた頃と。今も、あの時と変わらない。
飛鳥は今までずっと自分ひとりを犠牲にして働いていたのに、俺は、飛鳥が犠牲にしてきたものは何なのか、気づきもしなかった。考えたことすらなかった。
当たり前のように自分ひとり遊んで、我がままを言って、飛鳥を困らせてきた。
もうこんなのは嫌だ。
飛鳥が勉強が学生の本分だって言うから、勉強だけはきちんとやってきた。早くこんなところは出ていって、飛鳥に追いつきたい。追いついて、飛鳥を自由にしてやりたい。
吉野はそんな想いを、何不自由なく育ってきたクリスに話したいとも、話して判って貰えるとも、思わなかったのだ。
「飛鳥と俺の夢は、ヘンリーとは違うんだよ」
だから、それだけ言うと後はもう寝たふりをして、声をかけられても応えようとしなかった。
アーネストは、エリオットにいるエリアスからの報告メールを確認してふっと微笑み、「ヨシノの手は、もうかなり回復しているそうだよ」
と横を歩く飛鳥に告げた。
「良かった。笛と弓がないと、あいつ、すぐイライラしだすから」
飛鳥は嬉しそうに目を細める。
「でも、このパブの女の子、大丈夫なの?」
アーネストは眉をひそめて心配そうに首を傾げている。
「大丈夫って? ちょっときつそうだけれど、可愛らしい、面倒見の良さそうないい子だったよ」
飛鳥は訝しげにアーネストを見つめ返した。
「エリオットは男子校だからね。可愛い子にちょっと優しくされると、コロッとまいってしまうよ。ヨシノは大丈夫なの? そんな子を近くに置いておいて」
予想外の真面目な問いかけに、飛鳥はかえって吹きだしている。
「アンは僕たちと同じ、あれ、いっこ下だったかな? 吉野からしたら、五つ、六つも上だよ。あり得ないよ」
「え、そう? 十分あり得ると思うけれど……。だってヨシノは、その子のことをすごく気にかけているんだろ?」
「大学に行けってね。家族の犠牲になってるような子をみると、放っておけないんだよ。吉野は優しいから」
飛鳥はすっと目を伏せて、困ったように微笑んだ。
「誰にでも?」
「誰にでも」
頷く飛鳥にアーネストは苦笑して言った。
「それは困った癖だね。やっぱりあの子は手のかかる子だよ」
飛鳥は声を立てて笑い、ふと通り過ぎようとしていた、校舎の裏手に植えられた一本の桜に目をとめて立ち止まった。
「アーニー、ソメイヨシノだ!」
嬉しそうに目を輝かせて、アーネストを呼び止める。
「日本の桜は、ほとんどがこの木なんだよ。英国に来て、初めて見たよ!」
日本人に負けず劣らず英国人は桜好きで、至る所に植えられている。だがソメイヨシノだけは、目にすることが無かったのだ。飛鳥は、ほっとしたように歩み寄って、その幹に触れた。頭上には、白色に近い淡紅色の花が枝一杯に満開だ。
「ちゃんと、英国にも根づいていたんだね」
「ヨシノと同じ名前の桜?」
アーネストの問いに、飛鳥はただニコニコと頷き返した。
右手のゴムボールをぎゅっ、ぎゅっ、と何度も繰り返して握る、そのゴムの摩擦音が途切れ、ふぅと息をつくのを見計らってから、クリスは吉野に声をかけた。さきほどから声をかけるタイミングを狙っていたのだ。
「リハビリは順調?」
「うん、生活する分にはもう困らない」
吉野は、椅子の上で思いっきり背中を伸ばして欠伸をする。
「きみ、本当に今年のIGCSEを受けるの?」
クリスは、つまらなそうに憮然とした顔をして訊ねている。
「国際スカラーの下級生組は、みんな受けるだろ」
「僕は来年だよ。きみがそのつもりだって知っていたら、もっと早くから準備したのに――」
「今年IGCSEでグレードAを取って、来年は、Aレベル。こんな学校、二年で卒業だ」
吉野はせいせいするとばかりに、にっと笑っている。
「きみはここが嫌いなの?」
数あるパブリックスクールの中でも、常にダントツで人気の学校なのに――。二年間に渡る受験期間を経てこの学校に入ったクリスには、吉野がなぜ、こうも早く大学に進学したがるのかが理解できない。
「エリオットで学ぶのは、勉強だけじゃないよ、ヨシノ」
クリスからしてみれば、あまりにも短絡的な吉野の言い分に納得ができないのだ。少しむっとして頬を膨らませる。
「紳士になるための学校だもんな」
吉野はくっくっと可笑しそうに笑う。
「なりたくないよ――、そんなもの」
吉野は、机に突っ伏して肩を震わせて投げやりに笑っていた。
「全く、なんで俺、こんな学校に来ちまったんだろうな。政治家になるのでも、金融に進む訳でもないのに……。俺みたいなのが、ここでコネ作ったって何の役に立つ? 卒業したら、もう二度と会うこともないよ」
「きみにとって、僕たちはその程度の存在?」
傷ついたように呟いたクリスに、吉野は、はっと口をつぐみ、「ごめん……、俺、疲れているんだ」と、言い訳する。
クリスは黙ったまま顔を伏せ、自分の机に向かうと片づけを始めた。もうじき、消灯の時間だった。
「僕も、きみのお兄さんに会いたかったな」
灯りの消えた部屋で、カーテンの隙間から差し込む月明りの中、仄かに浮かぶ天井を見るでもなく見つめてクリスは呟いた。
「フレッドが、言っていたんだ」
「うん」
「きみとは全然似ていなくて驚いたって」
「そうか?」
吉野は眠たそうに相槌を打つ。
「きみは早く大人になって、お兄さんやヘンリー先輩と一緒に、TSを造りたいの? だから、そんなに焦っているの?」
「TSなんかどうでもいいよ。あれは、ヘンリーの望みであって、飛鳥のじゃない。俺は、飛鳥を取り戻したいだけだよ」
「取り戻すって?」
「あいつにいいように使われて、やりたいこともできない飛鳥なんて、飛鳥じゃない。いつだって、飛鳥ばっかりが会社の犠牲になるのが嫌なんだ」
吉野は、クリスに背を向けたまま応えた。
枕に顔を埋めて、ロンドンで会った時の飛鳥の静かな瞳を思い出し、ぎりっと歯ぎしりをしていた。
飛鳥は、もう、何もかも諦めているみたいだったから。
前と、同じだ。祖父ちゃんや、父さんの言いなりになって、言われるままに使われる事で、俺たちを、家族を、支えてくれていた頃と。今も、あの時と変わらない。
飛鳥は今までずっと自分ひとりを犠牲にして働いていたのに、俺は、飛鳥が犠牲にしてきたものは何なのか、気づきもしなかった。考えたことすらなかった。
当たり前のように自分ひとり遊んで、我がままを言って、飛鳥を困らせてきた。
もうこんなのは嫌だ。
飛鳥が勉強が学生の本分だって言うから、勉強だけはきちんとやってきた。早くこんなところは出ていって、飛鳥に追いつきたい。追いついて、飛鳥を自由にしてやりたい。
吉野はそんな想いを、何不自由なく育ってきたクリスに話したいとも、話して判って貰えるとも、思わなかったのだ。
「飛鳥と俺の夢は、ヘンリーとは違うんだよ」
だから、それだけ言うと後はもう寝たふりをして、声をかけられても応えようとしなかった。
0
お気に入りに追加
19
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
お嬢様、お仕置の時間です。
moa
恋愛
私は御門 凛(みかど りん)、御門財閥の長女として産まれた。
両親は跡継ぎの息子が欲しかったようで女として産まれた私のことをよく思っていなかった。
私の世話は執事とメイド達がしてくれていた。
私が2歳になったとき、弟の御門 新(みかど あらた)が産まれた。
両親は念願の息子が産まれたことで私を執事とメイド達に渡し、新を連れて家を出ていってしまった。
新しい屋敷を建ててそこで暮らしているそうだが、必要な費用を送ってくれている以外は何も教えてくれてくれなかった。
私が小さい頃から執事としてずっと一緒にいる氷川 海(ひかわ かい)が身の回りの世話や勉強など色々してくれていた。
海は普段は優しくなんでもこなしてしまう完璧な執事。
しかし厳しいときは厳しくて怒らせるとすごく怖い。
海は執事としてずっと一緒にいると思っていたのにある日、私の中で何か特別な感情がある事に気付く。
しかし、愛を知らずに育ってきた私が愛と知るのは、まだ先の話。
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる