胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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三章

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 つい先ほどまでは細やかな霧雨だったのが、強い春風に煽られたのか、どんどん雨脚は強くなっていく。飛鳥は見覚えのある石畳を、と言っても、どこもかしこも似たような感じの通りで既視感に囚われ、本当に見覚えがある場所なのかは自信なかったのだが、ずぶ濡れになりながら歩き回っていた。

 さっきも通った気がする赤煉瓦造りの店の角を、顔に滴り落ちる雨粒を掌で拭いながら曲がった拍子に、ドスン、と誰かにぶつかった。
「すみません!」
 慌てて謝った飛鳥は、ぱっと顔を輝かせて相手を見上げた。

 この制服、キングススカラーだ!


「すみません。道をお尋ねしたいのですが、『レッド・ドラゴン』ってパブをご存知ありませんか? ここなんですが」
 雨の中立ち止まってくれた相手に、飛鳥は急いでスマートフォンの画面を向けた。
「ああ、ここなら僕もこれから行くところです。ご一緒しましょう」
 エリオット校生らしい丁寧な言葉使いで応じ、上品に微笑むと、その黒髪の少年は、飛鳥が向かっていたのとは逆の方向に歩き出す。

「大丈夫ですか?」
 石畳につんのめって転びそうになる飛鳥を助けて支えながら、その少年、フレデリックは苦笑する。

 同じ日本人なのに、吉野とは随分違うんだな、と。
 吉野は足音をほとんどたてない。すいっと滑るように歩く。上体がぶれず、僅かな動きも無駄がなく、しなやかだ。エリオットのサマースクールを受けたことがある、というこの人は、歩くのが下手なのか、もう何度も躓いては転びそうになっている。

「雨で滑るから気をつけて下さい」
 飛鳥の腕に軽く手を添え、若干明るくなってきた空をちらと眺めながら、吉野のいるパブへと急ぎ進んだ。



 三階の元客室の、ベッド脇の壁に設置された電話が鳴った。ベッドと、小さな書き物机に椅子が置かれただけの狭い部屋だ。アンが取りあげた受話器から、客が来たから下りてこい、とジャックの声が漏れ聞こえる。
 吉野はもともと僅かしかない私物を無造作にスポーツバッグに詰め込み終わってからも、ダラダラとベッドに俯せている。

 アンはいきなり年相応の子どもに戻ったような吉野に呆れ返りなが、「ヨシノ、ほら、もう行かないと。あの人を待たせてるんでしょう?」と声を掛けたが、吉野は、「行きたくない……。俺、裏口から逃げようかな――」と、ぎゅっと枕にしがみついたままだ。
「また、飛鳥に怒られる――」


 反省室に入れられた時も、すぐに誤解は解けたとはいえ、勘違いされるようなマネをしたお前が悪いと、こってりと飛鳥に絞られた。生徒会の連中を嵌めるために自分を餌に使ったなんて、飛鳥にだけは絶対に言えなかったから、それは、まぁ、仕方がない。だけど今回は駄目だ。発信機付きの時計は、フレッドに持たせたままだし、パソコンも、スマートフォンも位置情報は切ってある。TSトランススパークスも、念のためにずっと電源は切っておいたのに――。

 どうして、バレたんだ!

 と、吉野はいつまでも悶々としたままなのだ。

「すぐに下りてくるのよ!」
 半ば怒ったようなアンの口調に、吉野は顔をしかめて深くため息をついた。
「あーあ、怒られに帰るしかないのか――」




 観念して階段脇のフロアに続くドアを開けたとたん、店に入って来たフレデリックと鉢合わせた。

「ヨシノ! 良かった、いたんだね。どうして電話にでてくれなかったの? 大変なんだよ。ラザフォード卿から連絡があって、今日一緒にロンドンに来るようにって――」

 吉野の顔を見るなり腕を掴んで、フレデリックは早口で捲し立てていた。だが、吉野の視線は彼をすり抜けて、険しくその背後を睨みつけている。

「飛鳥、何やってんだ!」
「アスカ、何をしていたんだ!」
 吉野とヘンリーの声が重なる。

「ずぶ濡れじゃないか!」

 一足早く歩み寄ったヘンリーが、滴り落ちる滴を切るように飛鳥の髪を梳く。

「傘が壊れちゃって」
 飛鳥はヘンリーに申し訳なさそうに呟くと、視線を移し、わざと顔をしかめて吉野を睨めつける。だが吉野は、先ほどまでの葛藤はどこへやらで、つかつかと歩み寄ると引きさらうようにその腕を取った。

「吉野! ちょっ、待って……、」
「小言は後で聞く。先に着替えろ」と、つんのめる飛鳥をずんずんと奥へ引っ張って行く。

「あの人が、アスカ・トヅキ――」
 思いがけないその名前が信じられず、呆気にとられているフレデリックに、今度はヘンリーが驚いたように目を見張っている。
 だが一瞬の後、「きみはもしかして、フランクの弟さん? 顎のラインと鼻の形が彼によく似ている。フランクのことは、とても残念だったよ……」と、ヘンリーは優しげな笑みを浮かべて右手を差し出した。

「フレデリック・キングスリーです」
 緊張でギクシャクしながらその手を握り返し、フレデリックはそっと遠慮がちに視線を合わせる。

 本物――。

 神秘的な青紫の瞳。秀でた額に、鼻筋の通った上品な顔立ち。それぞれのパーツは、アレンと同じなのに受ける印象は全く違う。見ているだけで、自然に自分の背筋が伸びるのが判る。

「ヨシノがいろいろ迷惑をかけているようで、すまないね」
「いいえ、そんなことは……」

 どうしてこの人が、吉野のことで謝るんだろう? と、フレデリックは疑問に思いながらヘンリーを見つめ返していた。



 袖口を折り返した吉野の紺のジャージに着替えた飛鳥は、前よりももっと幼く見えた。

 飛鳥とフレデリックはテーブル席に着き、温まるから、と吉野に勧められたカレーを口に運んでいる。ヘンリーはカウンター席で居合わせた客に捉まって身動きが取れないようだ。

「なぁ、なんで俺がここにいるの判ったの?」
 遅れて腰を下ろした吉野は、唇を尖らせて小首を傾げている。
「これ」
 飛鳥はTSを起動させた。SNSサイトに貼られたこのパブの写真に、豆粒ほどの吉野の姿が写っている。

「これで俺って判ったの?」
「コズモスの画像追跡ソフトが見つけたんだ」
 飛鳥はふふっと笑っている。
「マジかよ――」
「吉野、お前、自由すぎ」
 飛鳥は顔をしかめて怒ったふうを装ったが、上手くいかずにすぐに笑い出しながら言った。

「ヘンリーが嘆いていたよ。『僕の隠れ家が、すっかり観光地化されている』って」
「稼げる店にして、アンを大学に行かせてやりたいんだよ。飲んだくれの親父の犠牲になるなんて、可哀想だろ」
「相変わらずだね、お前は」

 飛鳥は振り返って、カウンター内にいるアンとジャックを眺めると、目を細めて弟の頭を優しくわしわしと撫でた。

「このカレー、アイシュおばさんの味がする」
「飛鳥のためのカレーだ」
 吉野は懐かしそうに微笑んで言った。


 刺激の強い味が苦手な飛鳥の為に、『杜月』のプログラマーをしているインド人一家のアイシュおばさんが作ってくれた、チキン・ティッカ・マサラは、もともとイギリスのインド料理屋で考案されたイギリス流のカレーだ。まろやかであまり辛くない。これなら飛鳥でも食べられるだろうと、アイシュおばさんは、さらに甘味を加えたレシピで作ってくれた。
 そのレシピを教わって、吉野が初めて家族のために作った料理でもあるのだ。

「ここは、お前にとっても大切な場所なんだね」
 食べ終わったスプーンを置いて、飛鳥はもう一度、吉野の頭を撫でる。
「もっと僕を頼りなよ。これでも兄なんだから」

 吉野は肩をすくめて照れたように笑った。






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