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三章
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「やっぱり美味しいねぇ。ヨシノのカレーは……。僕は日曜日の夜が待ち遠しくて仕方がないよ」
キッチンで温め直したばかりのチキンティッカマサラを、クリスの部屋の吉野の机でサウードはさも幸せそうに頬張っている。
パブには立ち入れないけれどテイクアウトなら、とイスハ―クからごり押しで許可を貰ったこのカレーは、毎日限定三十食であっという間に売り切れる、パブ『レッド・ドラゴン』の人気メニューだ。日曜日だけは、吉野自ら店に作りに行くので、サウードとイスハ―クの分を取り分けておいてくれる。それを、吉野や、クリスが持ち帰ってくれるのがサウードの毎週末の楽しみとなっているのだ。
「それでヨシノは? ここ最近、授業でしか顔を見ていない気がするんだけれど」
「まだパブだよ」
クリスは困ったように小さくため息をつく。
「こんな時間なのに?」
サウードは自分の腕時計に目をやった。
「もう、八時を過ぎている」
「上級生と一緒なんだよ、ベンジャミン・ハロルド先輩と」
「生徒会の? ふーん……。ヨシノってああ見えて、策士だよね。監督生の寮長だけじゃ足りなくて、今度は生徒会も盾に使っているんだ」
口の中一杯に頬張りながらもぞもぞと喋るサウードに対して、「ヨシノのことを悪く言うな!」とクリスは思わず立ち上がり、大声で怒鳴っていた。
「僕は褒めたんだよ。ヨシノのそういうところ、僕は、好きだもの」
サウードは平気な顔をして、まず壁際に離れて立つ殺気だったイスハ―クを視線で抑え、継いで、クリスをその漆黒の夜のように静かな瞳で見つめた。
「彼を見ていると、すごくいろんな事を学べる。彼の行動には必ず意味があるからね。何もないのに、寮長のライバルのハロルドと仲良くするわけないじゃないか」
「でも、ヨシノは寮長のことあんまり好きじゃなさそうだよ……。いつも怒られているし……」
「そう? 僕には仲良さそうに見えるけれどな。イスハ―ク、コーヒーをふたつ」
サウードは食べ終わった容器を傍らに押しやり、従者にひらひらと手を振った。
ラスベガス国際見本市でのアーカシャ―HDの講演から、吉野の周辺は一気に騒がしくなっていた。その画期的な内容はもちろんの事として、その中で『杜月』の名が出された事、その開発者が吉野の実兄だという事、そして何よりも、それを語ったのがエリオットの伝説的人物であるヘンリー・ソールスベリーだったからだ。
それ以来、吉野は人を避けるように逃げ回っている。同室のクリスでさえ、消灯時間ギリギリまで帰ってこない吉野と会話する機会がめっきりと減ってしまった。その上、手の怪我のせいで、今はスポーツも音楽も課外授業を受けられない吉野は、なぜか英文学と歴史の補講授業を取っていて、クリスといる時間がさらに減っているのだ。
僕まで避ける事ないじゃないか――。
だが、腹立たしいのはそれだけではないのだ。
寮にいない時間、吉野は下級生には禁止されている街のパブに入り浸っている、それも上級生とつるんで遊び回っている、という噂があっという間に広がっているのだ。おまけにその上級生というのがただの生徒ではなく、生徒会の面々だということで、表だって吉野に注意するでもなく、カレッジ寮の下級生の誰しもが、何もできないまま心配そうに吉野を静観していた。
「みんな、こんなに心配しているっていうのに……」
クリスは悔しそうに歯嚙みして呟いている。
「あいつは、どうしているの?」
唐突な問いかけに、怪訝そうにサウードを見返す。
「レイシスト」
「ああ、アレンは僕と一緒に帰ってきたよ。生徒会の連中が来たからね」
クリスはふくれっ面のままイライラと答えた。
「彼も日曜はいつもあそこにいるよ。ボトムさんが、まるで音楽喫茶になったみたいだって笑ってたよ」
クリスはさすがにびくびくしながら寮の仲間と連れだって、休日にカレーやレトルト食品を買いにいくくらいだったが、アレンはいつ行ってもそこにいて、じっと隅っこの席に座っていた。そして、修理に出されていたピアノが戻ってきてからは、ずっとそのピアノを弾いている。吉野がいないときでさえ――。クリスはそんなアレンを放ってはおけず、夕方の適当な時間になると迎えに行くのが習慣になっている。これもクリスの腹立ちのタネの一つなのだ。
アレンは、ヨシノに謝りたくてずっとあそこに通っているのに――。
肝心の吉野は、アレンの事をずっと無視したままなのだ。
「ヨシノは一体どうしちゃったんだろうね。それから、アレンの事をもうレイシストって言わないでやって。彼だって、いろいろ反省しているんだから……」
クリスは、ため息混じりにだが毅然としてそう言うと、サウードの背後の窓から僅かに覗く、イチョウの枝に視線を移した。
早く帰ってきてよ、ヨシノ――。きみがいないと、つまらないよ。
「ふーん……。人間ってそんなに簡単に変われるものなの?」
サウードは、無表情のまま呟いている。クリスの言い分に納得できない様子がありありとその目の色に現れていた。
「変われるよ――。だって、きみだって変わったよ。初めて会った時には、きみだって、アレンと同じような目をして僕たちを見ていたもの」
あの窓が今にも開いて、吉野が帰ってくればいいのに――、と、クリスはぼんやりと想像しながら窓外の真っ暗な闇を眺めていたので、その時、サウードがどんな顔で自分の言葉を受け取ったのかは判らなかった。
「クリス、コーヒーを」
名前を呼ばれ、クリスは視線をサウードに戻した。サウードは、静かな瞳で紙コップのコーヒーを口に運んでいた。
キッチンで温め直したばかりのチキンティッカマサラを、クリスの部屋の吉野の机でサウードはさも幸せそうに頬張っている。
パブには立ち入れないけれどテイクアウトなら、とイスハ―クからごり押しで許可を貰ったこのカレーは、毎日限定三十食であっという間に売り切れる、パブ『レッド・ドラゴン』の人気メニューだ。日曜日だけは、吉野自ら店に作りに行くので、サウードとイスハ―クの分を取り分けておいてくれる。それを、吉野や、クリスが持ち帰ってくれるのがサウードの毎週末の楽しみとなっているのだ。
「それでヨシノは? ここ最近、授業でしか顔を見ていない気がするんだけれど」
「まだパブだよ」
クリスは困ったように小さくため息をつく。
「こんな時間なのに?」
サウードは自分の腕時計に目をやった。
「もう、八時を過ぎている」
「上級生と一緒なんだよ、ベンジャミン・ハロルド先輩と」
「生徒会の? ふーん……。ヨシノってああ見えて、策士だよね。監督生の寮長だけじゃ足りなくて、今度は生徒会も盾に使っているんだ」
口の中一杯に頬張りながらもぞもぞと喋るサウードに対して、「ヨシノのことを悪く言うな!」とクリスは思わず立ち上がり、大声で怒鳴っていた。
「僕は褒めたんだよ。ヨシノのそういうところ、僕は、好きだもの」
サウードは平気な顔をして、まず壁際に離れて立つ殺気だったイスハ―クを視線で抑え、継いで、クリスをその漆黒の夜のように静かな瞳で見つめた。
「彼を見ていると、すごくいろんな事を学べる。彼の行動には必ず意味があるからね。何もないのに、寮長のライバルのハロルドと仲良くするわけないじゃないか」
「でも、ヨシノは寮長のことあんまり好きじゃなさそうだよ……。いつも怒られているし……」
「そう? 僕には仲良さそうに見えるけれどな。イスハ―ク、コーヒーをふたつ」
サウードは食べ終わった容器を傍らに押しやり、従者にひらひらと手を振った。
ラスベガス国際見本市でのアーカシャ―HDの講演から、吉野の周辺は一気に騒がしくなっていた。その画期的な内容はもちろんの事として、その中で『杜月』の名が出された事、その開発者が吉野の実兄だという事、そして何よりも、それを語ったのがエリオットの伝説的人物であるヘンリー・ソールスベリーだったからだ。
それ以来、吉野は人を避けるように逃げ回っている。同室のクリスでさえ、消灯時間ギリギリまで帰ってこない吉野と会話する機会がめっきりと減ってしまった。その上、手の怪我のせいで、今はスポーツも音楽も課外授業を受けられない吉野は、なぜか英文学と歴史の補講授業を取っていて、クリスといる時間がさらに減っているのだ。
僕まで避ける事ないじゃないか――。
だが、腹立たしいのはそれだけではないのだ。
寮にいない時間、吉野は下級生には禁止されている街のパブに入り浸っている、それも上級生とつるんで遊び回っている、という噂があっという間に広がっているのだ。おまけにその上級生というのがただの生徒ではなく、生徒会の面々だということで、表だって吉野に注意するでもなく、カレッジ寮の下級生の誰しもが、何もできないまま心配そうに吉野を静観していた。
「みんな、こんなに心配しているっていうのに……」
クリスは悔しそうに歯嚙みして呟いている。
「あいつは、どうしているの?」
唐突な問いかけに、怪訝そうにサウードを見返す。
「レイシスト」
「ああ、アレンは僕と一緒に帰ってきたよ。生徒会の連中が来たからね」
クリスはふくれっ面のままイライラと答えた。
「彼も日曜はいつもあそこにいるよ。ボトムさんが、まるで音楽喫茶になったみたいだって笑ってたよ」
クリスはさすがにびくびくしながら寮の仲間と連れだって、休日にカレーやレトルト食品を買いにいくくらいだったが、アレンはいつ行ってもそこにいて、じっと隅っこの席に座っていた。そして、修理に出されていたピアノが戻ってきてからは、ずっとそのピアノを弾いている。吉野がいないときでさえ――。クリスはそんなアレンを放ってはおけず、夕方の適当な時間になると迎えに行くのが習慣になっている。これもクリスの腹立ちのタネの一つなのだ。
アレンは、ヨシノに謝りたくてずっとあそこに通っているのに――。
肝心の吉野は、アレンの事をずっと無視したままなのだ。
「ヨシノは一体どうしちゃったんだろうね。それから、アレンの事をもうレイシストって言わないでやって。彼だって、いろいろ反省しているんだから……」
クリスは、ため息混じりにだが毅然としてそう言うと、サウードの背後の窓から僅かに覗く、イチョウの枝に視線を移した。
早く帰ってきてよ、ヨシノ――。きみがいないと、つまらないよ。
「ふーん……。人間ってそんなに簡単に変われるものなの?」
サウードは、無表情のまま呟いている。クリスの言い分に納得できない様子がありありとその目の色に現れていた。
「変われるよ――。だって、きみだって変わったよ。初めて会った時には、きみだって、アレンと同じような目をして僕たちを見ていたもの」
あの窓が今にも開いて、吉野が帰ってくればいいのに――、と、クリスはぼんやりと想像しながら窓外の真っ暗な闇を眺めていたので、その時、サウードがどんな顔で自分の言葉を受け取ったのかは判らなかった。
「クリス、コーヒーを」
名前を呼ばれ、クリスは視線をサウードに戻した。サウードは、静かな瞳で紙コップのコーヒーを口に運んでいた。
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