胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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三章

謹慎1

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 カラン、カラン、勢いよくドアベルが鳴る。
「ジャック! 荷物届いてる?」
「よぉ! 坊主、久しぶりだな!」

 エリオット校の面するハイストリートから幾つも入り組んだ裏通りを抜けた目立たない場所にある、石造りの古ぼけたパブの扉を元気良くバンッと開けて入るなり、杜月吉野は店内をぐるりと見渡して、目当ての山積みされた段ボール箱に歩み寄った。

「ジャック、コーヒー頼むよ」
 吉野は段ボール箱の数を目算すると、カウンターのハイチェアーに腰を下ろす。

「ほらよ」
「相変わらず暇そうだな」

 渡された明細書に目を通しながら、吉野は顔を上げて、もう一度客の一人もいない店内を振り返る。ペンキの剥げかけた黄色い薄汚れた壁や深緑の窓枠、歩くとキシキシと軋む傷だらけの木製の床を眺める。そう狭い訳でもないのに、フロアにはテーブル席が四組しか置かれていない。そこにかけられた朱のクロスも使い古しで色褪せている。壁際には、埃をかぶった古いピアノが一台あった。

「ほんと、小汚いよな、この店」
「口の悪いガキだな、ほっとけよ」

 ジャックはビール樽のように突き出た腹を揺すり、げらげらと笑いながら、大きなマグカップに淹れたブラックコーヒーを吉野の前に置いた。

「もっと、金をかけて手を入れたら、少しはマシになるだろ?」
「今のままでいい。忙しくなったら、わし一人じゃ回らなくなる」
 すでに七十歳を超える老主人は、そう言って加えていた煙草をゆっくりとふかした。
「これでもお前のハンバーガーで、夜はかなり客が増えたんだぞ」
 ジャックは目を細めてにかっと笑った。
「冷凍ハンバーグ、もう在庫が切れるだろ? 悪いな、俺、当分、凝ったメシ作れそうもない」
 吉野はスカラーのローブの袖を巻くって、ギプスに覆われた右手を振ってみせる。

「それでだ、レトルトやインスタントの日本食をしこたま買い漁ってきた」
 吉野は、壁際のダンボール箱を指さした。
「ジャックの取り分二割で、これ、ここでエリオットの奴らに売ってくれないか?」
 ジャックは訝し気に顔をしかめて訊ねる。

「なんで自分で売らないんだ?」
「校内で物品販売禁止だって、もう釘を指されているんだよ」
 あっけらかんとした吉野に、ジャックはまたも大笑いする。
「で、こんな小汚い店まで、貴族のお坊ちゃん方を来させようってのか!」
「小汚いのが恥ずかしいなら綺麗にしろよ」
「口の減らないガキだな!」
「あいつら、俺が怪我したの知って、一番に自分たちのメシの心配していたんだぞ。こっちはタダ働きで作ってやってたってのに!」
 吉野は、カウンターに頬杖をついて、唇を尖らせて顔をしかめる。


「なぁ、英国のメシが不味いのって、植民地政策でどんな僻地へきちに飛ばされてもその土地で我慢してやっていけるように、って本当なの?」
「さぁ? そんなの聞いたことがないぞ。まぁ、強いて言えば、食事ってのは楽しむってより、効率的にエネルギーを補給するものって思っている奴らが多いからじゃないのか」
「うそだろ? そんなの、飛鳥……俺の兄貴みたいじゃん。ここの奴ら、全然そんなことないよ。一度まともなメシ食わせたら、やっぱり不味いの嫌がるぞ。まぁ、味覚は確かに、鈍いけどな……。こんなレトルトで旨いって言うくらいにな。俺は無理だけど」

 吉野は立ち上がると、担いできたリュックを床から持ち上げ、どすんとカウンターに置いた。

「これからはハンバーガーの替わりに、チキンティッカマサラを出せよ」
 ジャックはくいっと眉毛を上げた。
「インド人を雇えって?」
「今から俺が作るから。ジャックでも作れるような簡単なやつ、考えてきた。チキンティッカはスーパーの総菜コーナーで買ってきたしな。ジャックもカレー好きだろ?」

 ジャックはニヤッと笑い、表に『休憩中』の札を下げるため、カウンターを出た。

「おい、坊主のダチか? 表にローブが立っているぞ」
 扉を開けたまま振り返って怒鳴っている。そして、吉野からは見えなかったその少年の腕を掴んで、店内に戻ってきた。

 アレン・フェイラー――。

「ジャック、先に厨房に入ってるよ」
 吉野はリュックを担ぐと、スタスタと奥の厨房に向かった。パタンと閉じられた扉を唖然として見つめ、ジャックはアレンを振り返る。
「なんだ、ダチじゃないのか? ま、暖まっていきな。ちょいと、しばらくここで留守番しといてくれや」と呆れたように肩をすくめ、吉野を追いかけて厨房に消えていった。



「おい、喧嘩でもしているのか? その態度はないだろうが」
 ローブを脱ぎ、左手のドレスシャツの袖口を唇でくわえて捲り上げ、黙りこくったままリュックから食材を出す吉野に、開口一番、ジャックは窘める様に顔をしかめる。

「友達じゃないよ」
 吉野は無表情のままだ。
「小汚いパブに入るのがよっぽど怖かったんだろうよ。この寒空に表で立ちんぼで、手が氷のように冷たかった」
 ジャックは吉野の頭を軽く小突いた。

「このチキン、ぶつ切りにして」
 だが吉野は黙々と調理に取り掛かるだけだ。
「坊主!」
「あいつが悪いわけじゃないよ。でも今は、あの顔を見たくないんだ。イライラするんだよ」

 ヘンリーと同じあの顔のせいで――。

 そう思う度に、自己嫌悪で胃がキリキリする。俺も、あいつらと同じだ――、と。そう解っていても、吉野にだってどうにもできないのだ。


 ジャックはじっと押し黙ったままの吉野の頭をくしゃっと撫で、包丁を持つと、チキンを切り分けにかかった。


「面倒なのはここだけだよ。これ以外のスパイスは調合してきてあるから、楽。あとは、レシピ通りに順番にぶち込むだけでいい」

 鍋からスタータースパイスの芳醇な香りが立ち昇る。



 扉越しにピアノの旋律が聞こえてきた。

 その滑らかな音の流れの違和感に、吉野は思わず眉根を寄せた。
「また、パガニーニ――。にしても、酷い音だな……」
 仏頂面のまま横にいるジャックを見上げ、「あのピアノ、調律に出せよ。滅茶苦茶じゃないか」と膨れっ面を向ける。
「そんなに酷いのか?」
 逆にジャックの方がきょとんとして訊き返している。吉野は、はぁ、とため息を吐いた。
「俺が金出すから、あのピアノ、修理にだしてくれ」

 吉野はトマトスープ缶を開け、鍋にどぼどぼと注ぎ入れる。



 多彩な小曲が切れ間なく流れてくる中で、ジャックはふっと、動作を止めた。

「ショパンの『Tristesse』だな。あの坊ちゃん、上手いじゃないか」

 怪訝な目をして自分を見つめる吉野を鼻先でふん、と笑い、ジャックは懐かしそうに目を細めていた。

「わしにだって、思い出の曲の一曲くらいはあるんだ」






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