胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

文字の大きさ
上 下
136 / 745
三章

しおりを挟む
「だから、薄着でフラフラするなって言ったのに」
 教授宅からフラットに戻るなり、キッチンのカウンターに突っ伏して頭痛を訴える飛鳥の横で、吉野は嫌味たらしく呟いていた。

「ほら、デヴィ、もっと丁寧に擦れよ」
 今度は、ジンジャーティーに入れる生姜を摩り下ろしているデヴィッドに文句をつける。吉野は相当ご機嫌斜めのようだ。
「これ、切れ過ぎて怖いんだけどぉ」
 デヴィッドは唇を尖らせておろし金を振り回し、ぶつぶつ文句をつけている。
「道具のせいにするなよ。お前が下手なの。ほら、貸してみ。ちゃんと押さえてろよ」
 吉野は左手で生姜の塊を摘まむと、手早くデヴィッドの押さえるおろし金で、ボールの中に摩り下ろしていく。



「わざわざ気をつけろって言ってんのに、雪の中、薄着で遊び回って風邪引くなんて馬鹿だろ?」
 また始まった吉野の際限のない嫌味に、「ごめんって、もう判ったから」と飛鳥も、いいかげん鬱陶しそうに顔をしかめて、はちみつ入りジンジャーティーのなみなみと注がれたマグカップを、両手で包み込むように持ちあげた。


 教授宅のある官舎に吉野が戻った時、カレッジの中庭では、寮に残っていた学生と、独身でカレッジ内官舎に住むフェロー達までが参加して、僅かな雪をかき集めての雪合戦が行われていた。
 寝不足でフラフラしているくせに、子どものようにはしゃいでいるのを、一言、二言の注意だけに留めて、つい見逃して止めずにいた。やはり飛鳥はてきめんに風邪を引いた。吉野の苛立ちの半分は、自分自身に向けられたものでもあるのだ。
 

「ヨシノのジンジャーティー、美味しいねぇ。もう、一緒に日本に帰ろうよ。うちで一生雇ってあげるからさ」
 そんな吉野の機嫌をとりなそうとしているのか、本気とも冗談ともつかない真面目な顔をして、デヴィッドはしみじみ呟いている。

「お前が繊維を残さずに生姜を摩り下ろせるようになったら考えてやる。でも俺、高給取りだぞ。サウードなんか、平日の夕食と日曜の朝食を作ってやったら卒業までの年契約で、百万ポンド払うって言ってるくらいだしな」
 吉野はさらりと笑って返した。

「サウードって?」
「同級のアラブの王子様」
 むっとしているデヴィッドに、飛鳥は我慢しきれずにクスクスと笑いだす。
「強力なライバル出現だね。生姜の摩り下ろしの練習した方がいいんじゃない?」
「そうだよ。俺に頼るな。今は、こっちが世話して貰わなきゃ困るってのに」
 吉野はギプスで固められた右手を振って、「だから飛鳥も、それ飲んだらさっさと寝ろよ」と苦笑する。




「デヴィは、教授と知り合いだったんだな」
 飛鳥を自室のベッドに追いやってから、吉野は自分用に湯を沸かす。
「父の代からお世話になっているからねぇ」
「そんな有名人が祖父ちゃんの知り合いだなんて、思ってもみなかった」
 ぼんやりとカウンターに頬杖をつき、窓の外に視線を移す。また、雪がちらちらと降り出している。
「嫌だな……」
 シュンシュンと湯の沸く音にのろのろと立ち上がり、コーヒーを淹れる。

「どうしたのぉ? らしくないじゃん?」
 デヴィッドも、マグカップを差し出しジンジャーティーのおかわりを頼むと、吉野に付き合うように頬杖をついた。

「本当に見つかるなんて、思っていなかったんだ」
 吉野はぽつりと呟いた。
「見つからなけりゃ良かったのに……」
「アスカちゃん、あんなに喜んでいたのに?」
「飛鳥がこれ以上祖父ちゃんに縛られるのが嫌なんだ。ずっと飛鳥は、祖父ちゃんの亡霊に取り憑かれているみたいだもの」
 そのままペタリとカウンターに突っ伏して、吉野は深くため息を吐く。

「何の心配をしているんだよ? 教授は立派な方だよぉ」

 吉野は小さく頭を振って、右手のギプスから覗く指先の爪を噛んだ。だが急に不機嫌な調子で顔を上げると、デヴィッドに向き直る。

「お前、いつまでいるの?」
「十日かな」
「俺、五日から学校なんだ。その前にロンドンに買い物に行きたい。その間、飛鳥を看ていてくれる?」
「別にいいよぉ」

 ヨシノがアスカちゃん、ほったらかして買い物なんて――。

 青天の霹靂だな、などと心の中で呟きながらも、「バーゲンに行きたいんでしょ? 何が欲しいのぉ?」と、にやにや笑って訊ねた。
 英国は物価が高いのだ。現実的でしまり屋の吉野にしてみれば、この年二回のバーゲンセールに、いろいろ揃えておきたいものがあるのだろう、と。

「新学期の準備だよ」
 吉野は相変わらず不機嫌な顔のまま、にやりと口の端だけをあげた。






しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

♡蜜壺に指を滑り込ませて蜜をクチュクチュ♡

x頭金x
大衆娯楽
♡ちょっとHなショートショート♡年末まで毎日5本投稿中!!

[R18] 激しめエロつめあわせ♡

ねねこ
恋愛
短編のエロを色々と。 激しくて濃厚なの多め♡ 苦手な人はお気をつけくださいませ♡

若妻の穴を堪能する夫の話

かめのこたろう
現代文学
内容は題名の通りです。

お嬢様、お仕置の時間です。

moa
恋愛
私は御門 凛(みかど りん)、御門財閥の長女として産まれた。 両親は跡継ぎの息子が欲しかったようで女として産まれた私のことをよく思っていなかった。 私の世話は執事とメイド達がしてくれていた。 私が2歳になったとき、弟の御門 新(みかど あらた)が産まれた。 両親は念願の息子が産まれたことで私を執事とメイド達に渡し、新を連れて家を出ていってしまった。 新しい屋敷を建ててそこで暮らしているそうだが、必要な費用を送ってくれている以外は何も教えてくれてくれなかった。 私が小さい頃から執事としてずっと一緒にいる氷川 海(ひかわ かい)が身の回りの世話や勉強など色々してくれていた。 海は普段は優しくなんでもこなしてしまう完璧な執事。 しかし厳しいときは厳しくて怒らせるとすごく怖い。 海は執事としてずっと一緒にいると思っていたのにある日、私の中で何か特別な感情がある事に気付く。 しかし、愛を知らずに育ってきた私が愛と知るのは、まだ先の話。

生意気な女の子久しぶりのお仕置き

恩知らずなわんこ
現代文学
久しくお仕置きを受けていなかった女の子彩花はすっかり調子に乗っていた。そんな彩花はある事から久しぶりに厳しいお仕置きを受けてしまう。

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

処理中です...