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三章
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「だから、薄着でフラフラするなって言ったのに」
教授宅からフラットに戻るなり、キッチンのカウンターに突っ伏して頭痛を訴える飛鳥の横で、吉野は嫌味たらしく呟いていた。
「ほら、デヴィ、もっと丁寧に擦れよ」
今度は、ジンジャーティーに入れる生姜を摩り下ろしているデヴィッドに文句をつける。吉野は相当ご機嫌斜めのようだ。
「これ、切れ過ぎて怖いんだけどぉ」
デヴィッドは唇を尖らせておろし金を振り回し、ぶつぶつ文句をつけている。
「道具のせいにするなよ。お前が下手なの。ほら、貸してみ。ちゃんと押さえてろよ」
吉野は左手で生姜の塊を摘まむと、手早くデヴィッドの押さえるおろし金で、ボールの中に摩り下ろしていく。
「わざわざ気をつけろって言ってんのに、雪の中、薄着で遊び回って風邪引くなんて馬鹿だろ?」
また始まった吉野の際限のない嫌味に、「ごめんって、もう判ったから」と飛鳥も、いいかげん鬱陶しそうに顔をしかめて、はちみつ入りジンジャーティーのなみなみと注がれたマグカップを、両手で包み込むように持ちあげた。
教授宅のある官舎に吉野が戻った時、カレッジの中庭では、寮に残っていた学生と、独身でカレッジ内官舎に住むフェロー達までが参加して、僅かな雪をかき集めての雪合戦が行われていた。
寝不足でフラフラしているくせに、子どものようにはしゃいでいるのを、一言、二言の注意だけに留めて、つい見逃して止めずにいた。やはり飛鳥はてきめんに風邪を引いた。吉野の苛立ちの半分は、自分自身に向けられたものでもあるのだ。
「ヨシノのジンジャーティー、美味しいねぇ。もう、一緒に日本に帰ろうよ。うちで一生雇ってあげるからさ」
そんな吉野の機嫌をとりなそうとしているのか、本気とも冗談ともつかない真面目な顔をして、デヴィッドはしみじみ呟いている。
「お前が繊維を残さずに生姜を摩り下ろせるようになったら考えてやる。でも俺、高給取りだぞ。サウードなんか、平日の夕食と日曜の朝食を作ってやったら卒業までの年契約で、百万ポンド払うって言ってるくらいだしな」
吉野はさらりと笑って返した。
「サウードって?」
「同級のアラブの王子様」
むっとしているデヴィッドに、飛鳥は我慢しきれずにクスクスと笑いだす。
「強力なライバル出現だね。生姜の摩り下ろしの練習した方がいいんじゃない?」
「そうだよ。俺に頼るな。今は、こっちが世話して貰わなきゃ困るってのに」
吉野はギプスで固められた右手を振って、「だから飛鳥も、それ飲んだらさっさと寝ろよ」と苦笑する。
「デヴィは、教授と知り合いだったんだな」
飛鳥を自室のベッドに追いやってから、吉野は自分用に湯を沸かす。
「父の代からお世話になっているからねぇ」
「そんな有名人が祖父ちゃんの知り合いだなんて、思ってもみなかった」
ぼんやりとカウンターに頬杖をつき、窓の外に視線を移す。また、雪がちらちらと降り出している。
「嫌だな……」
シュンシュンと湯の沸く音にのろのろと立ち上がり、コーヒーを淹れる。
「どうしたのぉ? らしくないじゃん?」
デヴィッドも、マグカップを差し出しジンジャーティーのおかわりを頼むと、吉野に付き合うように頬杖をついた。
「本当に見つかるなんて、思っていなかったんだ」
吉野はぽつりと呟いた。
「見つからなけりゃ良かったのに……」
「アスカちゃん、あんなに喜んでいたのに?」
「飛鳥がこれ以上祖父ちゃんに縛られるのが嫌なんだ。ずっと飛鳥は、祖父ちゃんの亡霊に取り憑かれているみたいだもの」
そのままペタリとカウンターに突っ伏して、吉野は深くため息を吐く。
「何の心配をしているんだよ? 教授は立派な方だよぉ」
吉野は小さく頭を振って、右手のギプスから覗く指先の爪を噛んだ。だが急に不機嫌な調子で顔を上げると、デヴィッドに向き直る。
「お前、いつまでいるの?」
「十日かな」
「俺、五日から学校なんだ。その前にロンドンに買い物に行きたい。その間、飛鳥を看ていてくれる?」
「別にいいよぉ」
ヨシノがアスカちゃん、ほったらかして買い物なんて――。
青天の霹靂だな、などと心の中で呟きながらも、「バーゲンに行きたいんでしょ? 何が欲しいのぉ?」と、にやにや笑って訊ねた。
英国は物価が高いのだ。現実的でしまり屋の吉野にしてみれば、この年二回のバーゲンセールに、いろいろ揃えておきたいものがあるのだろう、と。
「新学期の準備だよ」
吉野は相変わらず不機嫌な顔のまま、にやりと口の端だけをあげた。
教授宅からフラットに戻るなり、キッチンのカウンターに突っ伏して頭痛を訴える飛鳥の横で、吉野は嫌味たらしく呟いていた。
「ほら、デヴィ、もっと丁寧に擦れよ」
今度は、ジンジャーティーに入れる生姜を摩り下ろしているデヴィッドに文句をつける。吉野は相当ご機嫌斜めのようだ。
「これ、切れ過ぎて怖いんだけどぉ」
デヴィッドは唇を尖らせておろし金を振り回し、ぶつぶつ文句をつけている。
「道具のせいにするなよ。お前が下手なの。ほら、貸してみ。ちゃんと押さえてろよ」
吉野は左手で生姜の塊を摘まむと、手早くデヴィッドの押さえるおろし金で、ボールの中に摩り下ろしていく。
「わざわざ気をつけろって言ってんのに、雪の中、薄着で遊び回って風邪引くなんて馬鹿だろ?」
また始まった吉野の際限のない嫌味に、「ごめんって、もう判ったから」と飛鳥も、いいかげん鬱陶しそうに顔をしかめて、はちみつ入りジンジャーティーのなみなみと注がれたマグカップを、両手で包み込むように持ちあげた。
教授宅のある官舎に吉野が戻った時、カレッジの中庭では、寮に残っていた学生と、独身でカレッジ内官舎に住むフェロー達までが参加して、僅かな雪をかき集めての雪合戦が行われていた。
寝不足でフラフラしているくせに、子どものようにはしゃいでいるのを、一言、二言の注意だけに留めて、つい見逃して止めずにいた。やはり飛鳥はてきめんに風邪を引いた。吉野の苛立ちの半分は、自分自身に向けられたものでもあるのだ。
「ヨシノのジンジャーティー、美味しいねぇ。もう、一緒に日本に帰ろうよ。うちで一生雇ってあげるからさ」
そんな吉野の機嫌をとりなそうとしているのか、本気とも冗談ともつかない真面目な顔をして、デヴィッドはしみじみ呟いている。
「お前が繊維を残さずに生姜を摩り下ろせるようになったら考えてやる。でも俺、高給取りだぞ。サウードなんか、平日の夕食と日曜の朝食を作ってやったら卒業までの年契約で、百万ポンド払うって言ってるくらいだしな」
吉野はさらりと笑って返した。
「サウードって?」
「同級のアラブの王子様」
むっとしているデヴィッドに、飛鳥は我慢しきれずにクスクスと笑いだす。
「強力なライバル出現だね。生姜の摩り下ろしの練習した方がいいんじゃない?」
「そうだよ。俺に頼るな。今は、こっちが世話して貰わなきゃ困るってのに」
吉野はギプスで固められた右手を振って、「だから飛鳥も、それ飲んだらさっさと寝ろよ」と苦笑する。
「デヴィは、教授と知り合いだったんだな」
飛鳥を自室のベッドに追いやってから、吉野は自分用に湯を沸かす。
「父の代からお世話になっているからねぇ」
「そんな有名人が祖父ちゃんの知り合いだなんて、思ってもみなかった」
ぼんやりとカウンターに頬杖をつき、窓の外に視線を移す。また、雪がちらちらと降り出している。
「嫌だな……」
シュンシュンと湯の沸く音にのろのろと立ち上がり、コーヒーを淹れる。
「どうしたのぉ? らしくないじゃん?」
デヴィッドも、マグカップを差し出しジンジャーティーのおかわりを頼むと、吉野に付き合うように頬杖をついた。
「本当に見つかるなんて、思っていなかったんだ」
吉野はぽつりと呟いた。
「見つからなけりゃ良かったのに……」
「アスカちゃん、あんなに喜んでいたのに?」
「飛鳥がこれ以上祖父ちゃんに縛られるのが嫌なんだ。ずっと飛鳥は、祖父ちゃんの亡霊に取り憑かれているみたいだもの」
そのままペタリとカウンターに突っ伏して、吉野は深くため息を吐く。
「何の心配をしているんだよ? 教授は立派な方だよぉ」
吉野は小さく頭を振って、右手のギプスから覗く指先の爪を噛んだ。だが急に不機嫌な調子で顔を上げると、デヴィッドに向き直る。
「お前、いつまでいるの?」
「十日かな」
「俺、五日から学校なんだ。その前にロンドンに買い物に行きたい。その間、飛鳥を看ていてくれる?」
「別にいいよぉ」
ヨシノがアスカちゃん、ほったらかして買い物なんて――。
青天の霹靂だな、などと心の中で呟きながらも、「バーゲンに行きたいんでしょ? 何が欲しいのぉ?」と、にやにや笑って訊ねた。
英国は物価が高いのだ。現実的でしまり屋の吉野にしてみれば、この年二回のバーゲンセールに、いろいろ揃えておきたいものがあるのだろう、と。
「新学期の準備だよ」
吉野は相変わらず不機嫌な顔のまま、にやりと口の端だけをあげた。
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