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三章
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「本当に申し訳ない。信じられないよ、ヘンリーがこんな真似をするなんて!」
吉野を車で迎えに行ってくれていたアーネストは、帰り着くなり、いつも温和な彼には珍しく、眉根を寄せて憤慨しながら飛鳥に謝った。
「え?」
怪訝そうにアーネストから弟の上に視線を映した飛鳥は、あんなに嫌がっていた正装のローブを羽織っている制服のままの吉野の、脇にだらりと下ろされた袖の端から見え隠れする白い包帯にようやく気づき、とたんに蒼褪める。
「それ、昨日の……」
「まったく、何を考えているんだよ、ヘンリーは!」
「大した事ないんだ。気にしないで下さい」
吉野は、アーネストに少し困ったような笑顔で応え、「飛鳥、俺、コーヒーが飲みたい」と、真っ直ぐな視線で訴えた。
アーネストは、「きみの鞄、部屋に運んでおくよ」と、すぐに察して席を外してくれたので、飛鳥と吉野はキッチンに移動した。
「飛鳥に淹れてもらうの、いつぶりだろうな?」
「お前、小さい頃からコーヒーが好きだったものね。小学生がカフェインとっちゃ駄目だっていくら言っても聞かなかった」
「根拠がないだろ? 紅茶も緑茶も、コーラも飲むなとは言わないのにさ。なんでコーヒーは駄目なんだ?」
吉野は左手でカップを持ち、のんびりした様子で口に運ぶ。
「うん? イメージかな?」
「だな。いかにも眠れなくなりそうな……。イメージって大事だよな。――本当、良かったよ、この程度の怪我ですんで。あのまま、あいつの顔に当たってたら誤魔化しようがなかった」
吉野は目を細めて、心から安心している様に微笑んだ。
「ありがとう、吉野」
「大したことないよ」
「ローブで隠したくなるほど、ごついギプスを嵌めてるのに?」
飛鳥は泣きだしそうに声を震わせて、くっと笑っている。
「ああ、これは、みんなに揶揄われるからだよ。猿も木から落ちるのか! とかなんとか。それに、ほら、」
吉野はローブを脱いで、白いギプスを飛鳥の眼前に晒した。それはもう、白、とはいえないほどに落書きで埋め尽くされている。
「恥ずかしすぎるだろ?」と、吉野は言葉とは裏腹に嬉しそうに言った。
「お前には、いい友達が沢山いるんだね」
飛鳥も小さく笑うと、「本当にありがとう、吉野」と、もう一度しみじみと繰り返した。
「お前から話を聞いていなかったら、僕はきっとヘンリーを誤解していたよ」
あの日、いきなりコンサートの選抜に出たいと言って、フルートを借りに来た吉野は、弓道の稽古後に珍しく泊っていき、飛鳥に真剣な相談を持ちかけてきたのだ。
――アレンは、殴られ慣れている気がするんだ。
あいつ、けっこう酷いことをされているのに、まるで抵抗しないんだ。俺の友達が、あいつとちょっと親しくなったんだけどさ、嫌がらせされても、自分が悪いからって言うんだって。自分が気づかない間に、きっと不愉快な思いをさせたに違いないからしかたがないって。おかしいだろ? そんなの。
アレンが弾いているピアノを聴いたんだけどな、ヘンリーの演奏にそっくりなんだ。だけど、あいつみたいには力強くなくて、ずっと泣いているみたいで――。それでも曲の終りには、微かな希望が見える、そんな弾き方だった。ヘンリーは、あいつの兄貴は、あいつの希望なんだ、って思ったんだ。
ヘンリーがあいつの演奏を聴きに来てやったら、少しは嫌がらせも減ると思うんだ。でもヘンリーは、米国の親族は嫌いで来る気なんて、更々ないだろ? 俺、頑張って選抜試験で残るから、俺の演奏を聴きにコンサートに来てくれるように、ヘンリーに頼んでくれないか?
ヘンリーと飛鳥の間では交わされたことのない内容だった。初めて知った彼の歪な家庭環境に驚かされたのは、飛鳥の方だ。彼の妹に偶然あった時に感じた違和感、けして彼の口からは語られることのない家族の話題――。吉野がエリオットで知り得たヘンリーの姿は、飛鳥の眼前に立つ彼の姿からは思いも及ばぬものだった。
「あの子は虐待されて育ってきている……。ヘンリーも同じだって、あの場で初めて納得できた」
飛鳥は辛そうに眉を寄せる。吉野は目を伏せたまま、黙って頷いた。
「あの子は大丈夫?」
「判らない。あれから会っていない。でも、俺の怪我を心配してたって、友達がメールをくれていたから、平気なんじゃないか? あいつが俺のことを気にするなんて、普段の奴からは想像できないもの。誤解は解けてるよ」
「そう……」
飛鳥は小さく吐息を漏らした。吉野の怪我を心配してくれている、その事実にほっと安堵したのだ。レイシストとはいっても、けして自己中心的なだけの子でもないのだ、と。
あの子だって、大きなショックを受けたに違いないのに――。
彼のそばには、ちゃんとその衝撃を受けとめてくれる人がいるのだろうか? 今度はそんな心配が、飛鳥の胸中で頭をもたげていた。
「あいつの方は?」
「大丈夫、ヘンリーだからね」
飛鳥はしんみりと微笑んでいる。
「まったく勘弁してくれよ。この大事な時期に……。イメージは大事なんだよ。あいつには、エリオットの伝説でいてもらわないと困るんだ」
「大丈夫。彼は、奇跡みたいな人だから」
露骨に眉根をしかめる弟の険を含んだ口ぶりに、飛鳥は自分でも意外なほどすっきりとした心持ちで応え、付け足した。
「彼には、どんな辛い過去でも昇華できるだけの強さがある。だから伝説なんじゃないか」
俺の骨を砕くほどの憎悪を、どうやって昇華したのか教えて欲しいよ――。
そんなことが可能なのなら、飛鳥だって、もっと楽に生きられるはずなのに――。
吉野は飛鳥から目を逸らし、面を伏せて苦笑する。
「あの子もきっと大丈夫だよね、ヘンリーの弟だものね」
「だといいな」
きっと、ヘンリー次第だな。アレンも、『杜月』もあいつ次第だ――。まったく、他人の運命を握っているっていう自覚あんのか? あの野郎! 今度あんな真似しやがったら、飛鳥を連れて日本に帰ってやる!
吉野は、またぞろ心の中で毒づきながら、「飛鳥、コーヒーおかわり」
と、空っぽのカップを兄の前に差しだした。
吉野を車で迎えに行ってくれていたアーネストは、帰り着くなり、いつも温和な彼には珍しく、眉根を寄せて憤慨しながら飛鳥に謝った。
「え?」
怪訝そうにアーネストから弟の上に視線を映した飛鳥は、あんなに嫌がっていた正装のローブを羽織っている制服のままの吉野の、脇にだらりと下ろされた袖の端から見え隠れする白い包帯にようやく気づき、とたんに蒼褪める。
「それ、昨日の……」
「まったく、何を考えているんだよ、ヘンリーは!」
「大した事ないんだ。気にしないで下さい」
吉野は、アーネストに少し困ったような笑顔で応え、「飛鳥、俺、コーヒーが飲みたい」と、真っ直ぐな視線で訴えた。
アーネストは、「きみの鞄、部屋に運んでおくよ」と、すぐに察して席を外してくれたので、飛鳥と吉野はキッチンに移動した。
「飛鳥に淹れてもらうの、いつぶりだろうな?」
「お前、小さい頃からコーヒーが好きだったものね。小学生がカフェインとっちゃ駄目だっていくら言っても聞かなかった」
「根拠がないだろ? 紅茶も緑茶も、コーラも飲むなとは言わないのにさ。なんでコーヒーは駄目なんだ?」
吉野は左手でカップを持ち、のんびりした様子で口に運ぶ。
「うん? イメージかな?」
「だな。いかにも眠れなくなりそうな……。イメージって大事だよな。――本当、良かったよ、この程度の怪我ですんで。あのまま、あいつの顔に当たってたら誤魔化しようがなかった」
吉野は目を細めて、心から安心している様に微笑んだ。
「ありがとう、吉野」
「大したことないよ」
「ローブで隠したくなるほど、ごついギプスを嵌めてるのに?」
飛鳥は泣きだしそうに声を震わせて、くっと笑っている。
「ああ、これは、みんなに揶揄われるからだよ。猿も木から落ちるのか! とかなんとか。それに、ほら、」
吉野はローブを脱いで、白いギプスを飛鳥の眼前に晒した。それはもう、白、とはいえないほどに落書きで埋め尽くされている。
「恥ずかしすぎるだろ?」と、吉野は言葉とは裏腹に嬉しそうに言った。
「お前には、いい友達が沢山いるんだね」
飛鳥も小さく笑うと、「本当にありがとう、吉野」と、もう一度しみじみと繰り返した。
「お前から話を聞いていなかったら、僕はきっとヘンリーを誤解していたよ」
あの日、いきなりコンサートの選抜に出たいと言って、フルートを借りに来た吉野は、弓道の稽古後に珍しく泊っていき、飛鳥に真剣な相談を持ちかけてきたのだ。
――アレンは、殴られ慣れている気がするんだ。
あいつ、けっこう酷いことをされているのに、まるで抵抗しないんだ。俺の友達が、あいつとちょっと親しくなったんだけどさ、嫌がらせされても、自分が悪いからって言うんだって。自分が気づかない間に、きっと不愉快な思いをさせたに違いないからしかたがないって。おかしいだろ? そんなの。
アレンが弾いているピアノを聴いたんだけどな、ヘンリーの演奏にそっくりなんだ。だけど、あいつみたいには力強くなくて、ずっと泣いているみたいで――。それでも曲の終りには、微かな希望が見える、そんな弾き方だった。ヘンリーは、あいつの兄貴は、あいつの希望なんだ、って思ったんだ。
ヘンリーがあいつの演奏を聴きに来てやったら、少しは嫌がらせも減ると思うんだ。でもヘンリーは、米国の親族は嫌いで来る気なんて、更々ないだろ? 俺、頑張って選抜試験で残るから、俺の演奏を聴きにコンサートに来てくれるように、ヘンリーに頼んでくれないか?
ヘンリーと飛鳥の間では交わされたことのない内容だった。初めて知った彼の歪な家庭環境に驚かされたのは、飛鳥の方だ。彼の妹に偶然あった時に感じた違和感、けして彼の口からは語られることのない家族の話題――。吉野がエリオットで知り得たヘンリーの姿は、飛鳥の眼前に立つ彼の姿からは思いも及ばぬものだった。
「あの子は虐待されて育ってきている……。ヘンリーも同じだって、あの場で初めて納得できた」
飛鳥は辛そうに眉を寄せる。吉野は目を伏せたまま、黙って頷いた。
「あの子は大丈夫?」
「判らない。あれから会っていない。でも、俺の怪我を心配してたって、友達がメールをくれていたから、平気なんじゃないか? あいつが俺のことを気にするなんて、普段の奴からは想像できないもの。誤解は解けてるよ」
「そう……」
飛鳥は小さく吐息を漏らした。吉野の怪我を心配してくれている、その事実にほっと安堵したのだ。レイシストとはいっても、けして自己中心的なだけの子でもないのだ、と。
あの子だって、大きなショックを受けたに違いないのに――。
彼のそばには、ちゃんとその衝撃を受けとめてくれる人がいるのだろうか? 今度はそんな心配が、飛鳥の胸中で頭をもたげていた。
「あいつの方は?」
「大丈夫、ヘンリーだからね」
飛鳥はしんみりと微笑んでいる。
「まったく勘弁してくれよ。この大事な時期に……。イメージは大事なんだよ。あいつには、エリオットの伝説でいてもらわないと困るんだ」
「大丈夫。彼は、奇跡みたいな人だから」
露骨に眉根をしかめる弟の険を含んだ口ぶりに、飛鳥は自分でも意外なほどすっきりとした心持ちで応え、付け足した。
「彼には、どんな辛い過去でも昇華できるだけの強さがある。だから伝説なんじゃないか」
俺の骨を砕くほどの憎悪を、どうやって昇華したのか教えて欲しいよ――。
そんなことが可能なのなら、飛鳥だって、もっと楽に生きられるはずなのに――。
吉野は飛鳥から目を逸らし、面を伏せて苦笑する。
「あの子もきっと大丈夫だよね、ヘンリーの弟だものね」
「だといいな」
きっと、ヘンリー次第だな。アレンも、『杜月』もあいつ次第だ――。まったく、他人の運命を握っているっていう自覚あんのか? あの野郎! 今度あんな真似しやがったら、飛鳥を連れて日本に帰ってやる!
吉野は、またぞろ心の中で毒づきながら、「飛鳥、コーヒーおかわり」
と、空っぽのカップを兄の前に差しだした。
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