胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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三章

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 ヘンリー・ソールスベリーが持っていた花束を、アレン・フェイラーが抱えて寮に戻ってきたことで、アレンの評価は一気に好転していた。


 消灯後の薄闇に包まれたベッドの中で、クリスは、会場や、寮に戻る道々で耳にした、アレンや吉野への評価を興奮冷めやらぬ様子で語っている。

「そう、じゃ、俺もこれでお役御免だな」
 吉野は眠たそうな声で生返事する。
「きみ、最後までいなかったんだね? 先に寮に戻っていたの?」

 クリスが自室に戻った時には電気は消えたままで、吉野はすでに着替えてベッドに潜り込んでいたのだ。

「今日は疲れた」
「そりゃそうだね。僕だって、聴いているだけでもすごく緊張したよ!」
「もういいだろ? いい加減、寝させろよ」
「最後に一つだけ。どうして、いつも使っていたフルートと違うものを使ったの?」
「音は、好きだったんだけれどな。あれはソールスベリーの紋章が入っているんだ。そんなもの、フェイラーの前で使えるわけないだろ。おやすみ、クリス」

 吉野は、強引に会話を打ち切り、寝返りを打った。クリスは残念そうに吐息を漏らす。だが、小さく「おやすみ、ヨシノ」と呟いて瞼を閉じた。




「その手、どうしたんだい?」
 今学期の授業を全て終え、クリスマス休暇を迎えるための荷物を詰めている途中で寮長に呼び出された吉野は、珍しくスカラーのローブをきちんと羽織っている。ローブの袖の陰に隠すように、手を背後で組んでいる。

「大したことはありません」
「どうしたんだ、って訊いているんだよ」

 チャールズは、呆れたようにため息を吐いた。
「昨夜、アレン・フェイラーとの間に何があったんだい? 幾人かから、きみとフェイラーが控室で争っている声を聞いた、って報告があったんだ」
「争ってなどいません」
「フェイラーが、きみを泥棒扱いしていたって」
「彼の誤解です、寮長。誤解はすぐに解けました。何も問題ありません」
「きみは自分の演奏が終わるとすぐに、医療棟で手の治療を受けただろう? フェイラーがきみに怪我をさせたって、もっぱらの噂なんだよ」

 畳みかけるように喋るチャールズの追求をそこまで聞いて、吉野は、くくっと肩を震わせて哂った。

「あんなひょろこいのに、俺が怪我させられたって? 誰が信じるんですか、そんな馬鹿馬鹿しい話。まぁ、フェイラーには、武勇伝の一つにでもなるかもしれませんがね」

 平然とした吉野の受け答えに、チャールズは、又、ため息を吐く。

「俺がどじって転けた時に、変な手のつき方をしただけですよ」
「骨折だって? まず、きみが転ぶ事からして信じがたいけれどね。まぁ、いいよ……。フェイラーの話とも大方合っているし、そういう事にしておくよ」

 チャールズは仕方なさげな顔をして肩をすくめ、ローテーブルの上の紙袋から、フルートのケースを取り出して吉野の前に置いた。

「それで、盗った、盗られたの問題のフルートを、フェイラーから預かっているんだ。自分は預かれる立場じゃないから、きみに渡して欲しいって」

 吉野の表情が一気に崩れて人懐っこい笑みを浮かべたので、チャールズも釣られたように微笑んで、「まぁ、座れよ」と語調を崩し、首をくいっと傾けて自分の前のソファーを示した。
「見たいんでしょう?」
 吉野は意地悪くにやにやと笑っている。

「いいだろ?」

 同じ様ににっと笑みを作り楽し気な瞳でねだる彼の前で、吉野は左手でもどかし気にケースの蓋を開け、チャールズの側に向ける。

「楽器というより、美術品だな」
 柔らかく滑らかに輝くその美しいラインと、繊細に施された彫刻に、チャールズは感嘆の声を上げていた。

「どうして、これを使わなかったの?」
「俺とクレイマー先生のスタイルに合わなかったからです。アーネストに借りた木製グラナディラの方がイメージに合う音が出た。それだけですよ」

 クリスにも同じことを訊かれたな、と思い出し、吉野は口の端に皮肉な笑みを浮かべる。本当のところ、直前まで迷っていたのだ。どちらを使うべきかと――。あの音を諦めきれず会場まで持参したことが、間違いだった。だがそれは、後悔先に立たずというものだ。

「選抜の時とは全く別物の演奏だったって? キャンベル先生が、相当おかんむりだそうだよ」
「昨日の今日で、さすがに情報が早いですね」
 吉野は、顔を伏せてクスクスと笑った。
「どうだっていいですよ。どうせもう、フルートは吹かない」
「え?」
「俺、やっぱり西洋音楽は好きじゃない」

 チャールズが唖然として言葉を探している間に、「もう、行ってもいいですか?」と吉野はフルートケースの蓋を閉め、左腕に抱えて立ち上がった。

「アーネストが、もうじき迎えにきてくれるんで」
 その名前に、チャールズは顔を強張らせて頷いた。ラザフォード先輩をお待たせする訳にはいかない――。と、一瞬の内に彼の瞳に浮かんだ緊張を、吉野は静かに見下ろしていた。

「良いクリスマスを」
「ありがとうございます。寮長も、メリークリスマス」

 吉野は、軽く会釈して寮長室を後にした。






「ああ、ごめん、ヨシノはもう出発しちゃったよ」

 意を決して杜月吉野の部屋を訪ねたのに、肝心の彼は、すでにいなかった。もう年明けまで会えそうもない――。
 微妙に困ったような、がっかりしたような、それでいてどこかほっとしているような、そんな複雑なアレンの表情に戸惑いながらも、クリスは優しく微笑んで尋ねた。

「何かヨシノに用事? 彼の携帯に連絡しようか?」
 ドアを大きく開いて、アレンを部屋に招き入れる。
「いや、いいよ。その、怪我の具合はどうかな、って気になって……。その、怪我するところ、見ていたから――」
「見ていたの? 本当、信じられないよ! あのヨシノが転んだくらいで骨折なんて! それも全治四か月だよ、よっぽど打ちどころが悪かったんだ!」
 けたたましい声を上げて説明するクリスを凝視して、アレンは見る見るうちに顔を強張らせている。「そんなに酷い怪我だったの?」と、消え入りそうな声で呟いていた。



 ――ヘンリーのことは誰にも言うなよ。僕は、転んで怪我したんだ。

 杜月吉野は顔を歪めて痛みを我慢しながらアレンを一瞥した。

 ――そのフルート、ヘンリーに返しておいてくれないか? きみ、僕が持っているのも気分が悪いだろ? 頼むよ。

 それだけ言い残し、ショックの余り、その場にへたり込んで立つことすら出来なかったアレンを一人残して、部屋を出ようと背中を向けた。だが行きかけてふと気がついたのか、椅子の上に置いてあった花束に目を留めると、カードだけを抜き取った。

 ――きみの兄さんからだ。

 花束はアレンの膝の上に置いて、踵を返し、今度こそ本当に控室を後にしたのだ。



 初めて会話した吉野は、アレンが想像していたよりもずっと優しい話し方をし、噂とは違って、アレンよりもずっと綺麗なエリオティアン・アクセントを操っていた。はたしてこれが会話といえるのかは、はなはだ疑問ではあったが――。

 一晩中頭を絞って考えても、なぜ杜月兄弟が自分を庇ってくれたのか、アレンには皆目判らなかった。考えすぎて、頭が痛くなったほどだというのに。兄に殴られかけたことよりも、ずっと心にかかっている。

 兄が怒るのは当然だ。だって、自分は心ならずも、兄のことを侮辱してしまったのだもの――。それよりも、ヨシノ・トヅキ――。

 
 大好きな兄の機嫌を損ねてしまった事実よりも、吉野の、痛みを押し殺すあの強張った顔が脳裏に焼きついて離れないのだ。

 空っぽの吉野の机に肘をついて、その椅子に腰かけ、ぼんやりともの思いに耽っていたアレンは、クリスの呼ぶ声にいきなり現実に引き戻される。

「アレン、僕が言うのも何だけれどさ、ヨシノの事を心配してくれてありがとう」

 嬉しそうに微笑むクリスに、アレンは恥ずかしそうに、ぎこちない笑みを返した。

 心配? 僕は、あの、ヨシノ・トヅキのことを心配しているのだろうか――?

 と、自分でも疑問に思いながら。






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