胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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三章

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「ヨシノ! 降りて来て!」
 クリスは息を弾ませて、やっと見つけた木の上の吉野を大声で呼んだ。
「誰の用事? みんな俺のこと、しょうもない用事で使いすぎだろ!」
 イライラとした声だけが、遥か頭上から降って来る。
「僕だよ! 僕がきみと話したいんだ!」
 クリスは、木の枝に留まる大きな鳥の羽にも見える、黒いローブに向かって更に声を高める。
「じゃ、登って来いよ」
 平然と言い放つ吉野に、「無理だよ!」クリスは唇を尖らせて叫び返す。
「ロープを下ろしてやるよ」


 吉野は、自分の座っている枝に金具の付いたロープを回して固定し、ゆらりと垂らしてやった。
「それから、これ嵌めて」
 次いで、ポケットから取り出した手袋を投げてやる。



 クリスは手袋を受け止めて嵌めると、ぎゅっとロープを握りしめ、片足を木に掛ける。

「そうじゃない、結び目があるだろ? そこに足を掛けるんだ」

 言われた通りにロープの結び目を足掛かりにして、自分の身体を引き上げた。歯を食いしばり、顔を真っ赤にして必死に登る。やっと、吉野のいる枝が近づいてきた。ふいに痺れるような手の痛みが消え、大きな手に支えられて身体がふわっと宙に浮いた。
 慎重に下された座りの良い枝の上で、目の前の幹にしがみつく。しばらくすると早鐘のように鳴り響く心臓と、荒い息使いも落ち着いてきたので、頭をそうっと動かしてみた。葉のすっかり落ち切った冬枯れた樫の木の、三又に分かれた枝の一本に腰かけている。小刻みに震える手を、落ちないようにと幹に回したまま、地面を、ついで樹上に広がる空を眺める。

「空が近いね」
 ロープを登っていた時のドキドキとは別の高揚感が、全身に広がっていく。今まで感じたことのない不思議な充足感を味わいながら、自然に湧き上がってくる笑みで頬を緩めて、吉野を振り返る。

「なんでだろう? わずか数ヤード高い場所にいるだけで、世界が違って見えるよ」
「何でだろうな」
 吉野もにっと笑って言った。

「それで、話って?」
「この景色を見ていたら、どうでも良くなっちゃったよ」
 クリスは木の幹に背をもたせかけて、すっきりと微笑んだ。
「そうか」
 吉野も、特に訊こうともしなかった。


「でも、ここに来るまで、かなり迷ったよ」
 クリスは思い出したように苦笑いして言った。
「位置情報を教えたのに?」
「池の方が判り易くて良かったのに」
「葉が落ち切ったからな。こっちの方なら、来る奴もいないし。向こうはしょっちゅう、フェイラーがうろうろしているからもう行かない」
「きみを探しているんだよ」
「言うなよ」
 それには答えずに、クリスは唇を尖らせて悔しそうな顔をした。
「時々、腹が立つよ。なんでアレンは、きみのこと、あんなに嫌うんだろうって」
「そうか? 俺は解るよ」

 茜色に空を染め、金色の塊が幾重にも重なる木々の細い枝の向こうに、ゆっくりと傾き始めている。吉野は眩しそうに目を細めて眺めながら、ぽつりと呟いた。

「綺麗だろ。影絵みたいなんだ」
 樹の幹を挟んで背中合わせのクリスに声をかける。クリスはそろそろと身体の向きを変え、顔を上げた。
「羨ましいな。きみはいつも、こんな高みから世界を眺めていたんだね」

 二人とも、じっと黙り込んだまま同じ空を見つめた。

「きみはどうして嫌われるのが怖くないの?」
 唐突に尋ねられた問いかけに、吉野はククッとおかしそうに笑った。
「どうして万人に好かれたいって思うんだ? 他人に気に入られるように気を使って、生きていて楽しいか?」

 逆に尋ねられたが、クリスには答えられなかった。目を見開いて、吉野を凝視する。

「俺は、俺のことを判ってくれる奴が一人いればいいよ」
 吉野は枝の上に立ち上がるとじっと遠くを眺め、「帰ろうか。日が落ちると、お前、暗闇の中じゃまともに歩けないだろ?」と、からかうような声音でクリスを促した。





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