125 / 758
三章
2
しおりを挟む
「飛鳥、俺、フルートが欲しいんだ」
久しぶりに吉野から電話があった。そして珍しく頼み事をされた。それも、自分が気に入るかどうか音を出してみないと判らないから、探すだけで買わなくていい。適当なのがあったら教えてくれ、という、飛鳥には専門外の困った注文だ。
嬉しいのか困っているのかよくわからない様子で、くるくると表情を変えている飛鳥を面白そうに眺めていたアーネストは、電話を切って苦笑している飛鳥に、「ヨシノから?」と、クスクスと笑いながら訊ねた。
「うん。フルートって、幾らくらいするんだろう? 吉野が言うには、高価なものだから中古で安くていいものを探してくれ、って。コンサートの選抜試験を受けるから、学校から借りるんじゃなくて自分のが欲しいんだって」
「クリスマスコンサートか……。もうそんな時期なんだね。探すといってもそう時間がないだろ? 良かったら、母が昔使っていたものが実家に何本かあるから、試してみるかい?」
アーネストは膝に置いてあった読み掛けの本をパタンと閉じた。そして、あ、と思いついたように、「ヘンリーにも聞いてみようか? うちはせいぜい手慰み程度だけど、彼の家ならそこそこいいものがあると思うよ」と、うきうきと続ける。
「ありがとう、アーニー。楽器のことは全く判らないし助かるよ。吉野が僕に頼み事をするなんてめったにないからね。なんとかしてあげたかったんだ」
飛鳥はホッとしたように表情を和らげ、アーネストにお礼を言う。
「ぜひ受かってもらいたいな。今から楽しみだよ。それにしても意外だな。ヨシノがフルートを習っていたなんて知らなかった」
さっそく実家に電話しよう、と携帯を取り出したアーネストは、ヘーゼルの瞳を楽し気に輝かせている。
「習ってないよ、フルートなんて。こっちに来るまで触ったこともないはずだよ」
平然とした飛鳥の返事に、アーネストの顔からすっと笑みが消える。だが頬が笑みを形作ったまま強張っている。
「でも龍笛は、年の数だけ吹いてきているからね。同じ横笛だろ? 母さんは、泣いているだけの赤ん坊の吉野の口に笛を当てて、お祖父ちゃんは、あいうえおよりも先に、指を折りながら数字を教えるような人だったから、吉野には、笛と数字は自分の言葉みたいなものなんだよ」
彼の困惑には気づかない様子で呑気に笑う飛鳥に、アーネストは唖然とし、継いで腹を抱えて笑いだした。杜月家の英才教育は、そんな時期から始まるのかと、いつだかのヘンリーとの会話を思い出したのだ。
「それはぜひ、僕も聴かせてもらわなくちゃ! 明後日、ロンドンに来るんだろう? 実家に寄って取ってくるよ。彼にそう言っておいてくれる?」
「駄目。……これも駄目」
吉野は、ローテーブルに並べられた十本近くあるフルートを次々と試し吹きしては、戻していった。
「全部駄目……。だけど強いて選ぶなら、これかな。これが一番マシ」
飛鳥は、顔色を無くしハラハラしながらアーネストの方を申し訳なさそうに盗み見る。当のアーネストは、吉野の不作法を特に気にする様子もないようで、終始楽し気にその様子を見守っている。
「じゃ、それで通して吹いてみせてくれる? 課題曲は何なの?」
と、コンコン、とノックの音に驚いて一斉に視線を向けると、開けっ放しの入り口に、ヘンリーがにこにこと笑みを湛えて立っていた。
「やぁ、間に合ったかな?」
歩み寄り、彼は吉野の持つフルートに目をやる。
「きみの好みは、銀よりも金?」
「課題曲には、これが一番合いそうだから」
「吹いてみせて」
アーネストの隣に腰かけると、ヘンリーは優雅に足を組んだ。
「ラ・カンパネラ……」
一曲吹き終わったところで、ヘンリーは皮肉げにくっくと笑った。
「まったく、あの学校はどうなっているんだい? 毎年、毎年パガニーニで、技巧ばかり見せつけられるのでは、観客だってたまったものじゃないだろうに」
屈み込んで、足元に置いた旅行鞄から長細いケースを取り出すと、「でも、それだけ吹ければ、選抜ではいい線いけると思うよ。次は、こっちで」と、吉野に渡す。
「きみの先生はランパル? 耳がいいんだね」
ヘンリーが、もうすでにこの世にはいない有名なフルート奏者の名前を出したので、アーネストは怪訝そうな視線をちらりと流した。だが今は、その意味を説明してくれる気配は彼にはない。
少し小首を傾げてヘンリーは吉野を見上げ、「音楽教師陣に、まだキャンベル先生はいらっしゃるのかな?」と訊ねた。吉野は黙って頷いた。そしてそのまま、ヘンリーの渡したフルートを試し吹きする。
「それなら少し変えないとね。今のままでは、どんなに上手く吹いても落とされるよ」
吉野のフルートを途中で遮り、ヘンリーは鞄からヴァイオリンケースを取り出して開くと、愛用のヴァイオリンをその手に持って立ち上がった。広々とした場所まで移動して、軽く弓で絃を引き、音を合わせる。
「コピーが得意なら、僕を真似るといい。本番では好きに吹けばいいから、試験の時だけはね。キャンベル先生はランパルが嫌いなんだ。フランス人だからね。彼の好みは僕みたいな演奏だよ」
すっと姿勢を正してヴァイオリンを構えると、「一度しか弾かないからね」と、奏で始めた。
「吉野、そろそろ弓道の準備をしないと……」
ヘンリーが慌ただしく立ち去った後、どっぷりと落ち込んでいる吉野に、飛鳥はどう声をかけたものかと狼狽えるばかりで時が過ぎ、アーネストにしてもじっと押し黙ったまま、黙々と試し吹きをしたフルートの手入れをする吉野を見守りながら時を過ごしている。
吉野はやっと顔を上げると、「これ、借りてもいいかな?」と、一本のフルートを持ち上げて見せる。
「ヘンリーのは、気に入ったんじゃないの?」
「本番はあいつのを使いたい。でも普段持ち歩いていて他の奴らに見られたら、盗まれかねないから。リッププレートに彫刻してあるこれ、あいつん家の紋章だろ?」
「ああ、確かに」
アーネストは唇の端で笑い、小首を傾げる。
「いまだに彼は、人気者?」
「異常なほどな」
吉野は時計を見て立ち上がると、飛鳥に向かって、「今日は泊まって明日の朝帰る。借りるやつは、そのまま置いておいて」と唐突に告げると、急いで自分のゲストルームに弓道の道具を取りに走った。
「これでも、本当に驚いているんだよ。まさかあの子が、パガニーニを吹くなんて……」
アーネストは吉野が部屋を出ると、やっと感想を言えるとばかりに、ほっとしたように表情を緩めた。
「吹き口と運指は、龍笛とそう変わらない、って、あいつ、言ってたよ」
そんな彼に、飛鳥の方が意外そうに首を傾げている。
「それにしても、だよ。それも、楽譜が読めないから耳で覚えたって?」
「一応、雅楽も、楽譜みたいなものはあるんだけれどね。読めないっていうよりも、基本はそうやって覚えるからだよ」
飛鳥は、アーネストが何に驚いているのか判らないまま答え、「でも、ヘンリーの演奏はショックだったみたいだね。比べても仕方がないのに……。て、いうより、レベルが違いすぎて比べようがないのに……」と、飛鳥にしては、素直に憤慨した様子を隠そうともせずに口を尖らせている。
「覚えろ、って、言われたって、ヘンリーみたいに演奏できるわけないじゃないか。いつだって彼は、むちゃばっかり言うんだ!」
「彼は、できると思っているから言うんだよ、それがどれほどハードルが高く見えようとね。信じているんだ」
アーネストは、飛鳥に宥めるように言い、微笑んだ。弟のこととなると、彼は随分と正直になるのだな、と自分の不肖の弟を思い出しながら、少しくすぐったいような共感を、飛鳥に感じて――。
久しぶりに吉野から電話があった。そして珍しく頼み事をされた。それも、自分が気に入るかどうか音を出してみないと判らないから、探すだけで買わなくていい。適当なのがあったら教えてくれ、という、飛鳥には専門外の困った注文だ。
嬉しいのか困っているのかよくわからない様子で、くるくると表情を変えている飛鳥を面白そうに眺めていたアーネストは、電話を切って苦笑している飛鳥に、「ヨシノから?」と、クスクスと笑いながら訊ねた。
「うん。フルートって、幾らくらいするんだろう? 吉野が言うには、高価なものだから中古で安くていいものを探してくれ、って。コンサートの選抜試験を受けるから、学校から借りるんじゃなくて自分のが欲しいんだって」
「クリスマスコンサートか……。もうそんな時期なんだね。探すといってもそう時間がないだろ? 良かったら、母が昔使っていたものが実家に何本かあるから、試してみるかい?」
アーネストは膝に置いてあった読み掛けの本をパタンと閉じた。そして、あ、と思いついたように、「ヘンリーにも聞いてみようか? うちはせいぜい手慰み程度だけど、彼の家ならそこそこいいものがあると思うよ」と、うきうきと続ける。
「ありがとう、アーニー。楽器のことは全く判らないし助かるよ。吉野が僕に頼み事をするなんてめったにないからね。なんとかしてあげたかったんだ」
飛鳥はホッとしたように表情を和らげ、アーネストにお礼を言う。
「ぜひ受かってもらいたいな。今から楽しみだよ。それにしても意外だな。ヨシノがフルートを習っていたなんて知らなかった」
さっそく実家に電話しよう、と携帯を取り出したアーネストは、ヘーゼルの瞳を楽し気に輝かせている。
「習ってないよ、フルートなんて。こっちに来るまで触ったこともないはずだよ」
平然とした飛鳥の返事に、アーネストの顔からすっと笑みが消える。だが頬が笑みを形作ったまま強張っている。
「でも龍笛は、年の数だけ吹いてきているからね。同じ横笛だろ? 母さんは、泣いているだけの赤ん坊の吉野の口に笛を当てて、お祖父ちゃんは、あいうえおよりも先に、指を折りながら数字を教えるような人だったから、吉野には、笛と数字は自分の言葉みたいなものなんだよ」
彼の困惑には気づかない様子で呑気に笑う飛鳥に、アーネストは唖然とし、継いで腹を抱えて笑いだした。杜月家の英才教育は、そんな時期から始まるのかと、いつだかのヘンリーとの会話を思い出したのだ。
「それはぜひ、僕も聴かせてもらわなくちゃ! 明後日、ロンドンに来るんだろう? 実家に寄って取ってくるよ。彼にそう言っておいてくれる?」
「駄目。……これも駄目」
吉野は、ローテーブルに並べられた十本近くあるフルートを次々と試し吹きしては、戻していった。
「全部駄目……。だけど強いて選ぶなら、これかな。これが一番マシ」
飛鳥は、顔色を無くしハラハラしながらアーネストの方を申し訳なさそうに盗み見る。当のアーネストは、吉野の不作法を特に気にする様子もないようで、終始楽し気にその様子を見守っている。
「じゃ、それで通して吹いてみせてくれる? 課題曲は何なの?」
と、コンコン、とノックの音に驚いて一斉に視線を向けると、開けっ放しの入り口に、ヘンリーがにこにこと笑みを湛えて立っていた。
「やぁ、間に合ったかな?」
歩み寄り、彼は吉野の持つフルートに目をやる。
「きみの好みは、銀よりも金?」
「課題曲には、これが一番合いそうだから」
「吹いてみせて」
アーネストの隣に腰かけると、ヘンリーは優雅に足を組んだ。
「ラ・カンパネラ……」
一曲吹き終わったところで、ヘンリーは皮肉げにくっくと笑った。
「まったく、あの学校はどうなっているんだい? 毎年、毎年パガニーニで、技巧ばかり見せつけられるのでは、観客だってたまったものじゃないだろうに」
屈み込んで、足元に置いた旅行鞄から長細いケースを取り出すと、「でも、それだけ吹ければ、選抜ではいい線いけると思うよ。次は、こっちで」と、吉野に渡す。
「きみの先生はランパル? 耳がいいんだね」
ヘンリーが、もうすでにこの世にはいない有名なフルート奏者の名前を出したので、アーネストは怪訝そうな視線をちらりと流した。だが今は、その意味を説明してくれる気配は彼にはない。
少し小首を傾げてヘンリーは吉野を見上げ、「音楽教師陣に、まだキャンベル先生はいらっしゃるのかな?」と訊ねた。吉野は黙って頷いた。そしてそのまま、ヘンリーの渡したフルートを試し吹きする。
「それなら少し変えないとね。今のままでは、どんなに上手く吹いても落とされるよ」
吉野のフルートを途中で遮り、ヘンリーは鞄からヴァイオリンケースを取り出して開くと、愛用のヴァイオリンをその手に持って立ち上がった。広々とした場所まで移動して、軽く弓で絃を引き、音を合わせる。
「コピーが得意なら、僕を真似るといい。本番では好きに吹けばいいから、試験の時だけはね。キャンベル先生はランパルが嫌いなんだ。フランス人だからね。彼の好みは僕みたいな演奏だよ」
すっと姿勢を正してヴァイオリンを構えると、「一度しか弾かないからね」と、奏で始めた。
「吉野、そろそろ弓道の準備をしないと……」
ヘンリーが慌ただしく立ち去った後、どっぷりと落ち込んでいる吉野に、飛鳥はどう声をかけたものかと狼狽えるばかりで時が過ぎ、アーネストにしてもじっと押し黙ったまま、黙々と試し吹きをしたフルートの手入れをする吉野を見守りながら時を過ごしている。
吉野はやっと顔を上げると、「これ、借りてもいいかな?」と、一本のフルートを持ち上げて見せる。
「ヘンリーのは、気に入ったんじゃないの?」
「本番はあいつのを使いたい。でも普段持ち歩いていて他の奴らに見られたら、盗まれかねないから。リッププレートに彫刻してあるこれ、あいつん家の紋章だろ?」
「ああ、確かに」
アーネストは唇の端で笑い、小首を傾げる。
「いまだに彼は、人気者?」
「異常なほどな」
吉野は時計を見て立ち上がると、飛鳥に向かって、「今日は泊まって明日の朝帰る。借りるやつは、そのまま置いておいて」と唐突に告げると、急いで自分のゲストルームに弓道の道具を取りに走った。
「これでも、本当に驚いているんだよ。まさかあの子が、パガニーニを吹くなんて……」
アーネストは吉野が部屋を出ると、やっと感想を言えるとばかりに、ほっとしたように表情を緩めた。
「吹き口と運指は、龍笛とそう変わらない、って、あいつ、言ってたよ」
そんな彼に、飛鳥の方が意外そうに首を傾げている。
「それにしても、だよ。それも、楽譜が読めないから耳で覚えたって?」
「一応、雅楽も、楽譜みたいなものはあるんだけれどね。読めないっていうよりも、基本はそうやって覚えるからだよ」
飛鳥は、アーネストが何に驚いているのか判らないまま答え、「でも、ヘンリーの演奏はショックだったみたいだね。比べても仕方がないのに……。て、いうより、レベルが違いすぎて比べようがないのに……」と、飛鳥にしては、素直に憤慨した様子を隠そうともせずに口を尖らせている。
「覚えろ、って、言われたって、ヘンリーみたいに演奏できるわけないじゃないか。いつだって彼は、むちゃばっかり言うんだ!」
「彼は、できると思っているから言うんだよ、それがどれほどハードルが高く見えようとね。信じているんだ」
アーネストは、飛鳥に宥めるように言い、微笑んだ。弟のこととなると、彼は随分と正直になるのだな、と自分の不肖の弟を思い出しながら、少しくすぐったいような共感を、飛鳥に感じて――。
1
お気に入りに追加
20
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

日本新世紀ー日本の変革から星間連合の中の地球へー
黄昏人
SF
現在の日本、ある地方大学の大学院生のPCが化けた!
あらゆる質問に出してくるとんでもなくスマートで完璧な答え。この化けたPC“マドンナ”を使って、彼、誠司は核融合発電、超バッテリーとモーターによるあらゆるエンジンの電動化への変換、重力エンジン・レールガンの開発・実用化などを通じて日本の経済・政治状況及び国際的な立場を変革していく。
さらに、こうしたさまざまな変革を通じて、日本が主導する地球防衛軍は、巨大な星間帝国の侵略を跳ね返すことに成功する。その結果、地球人類はその星間帝国の圧政にあえいでいた多数の歴史ある星間国家の指導的立場になっていくことになる。
この中で、自らの進化の必要性を悟った人類は、地球連邦を成立させ、知能の向上、他星系への植民を含む地球人類全体の経済の底上げと格差の是正を進める。
さらには、マドンナと誠司を擁する地球連邦は、銀河全体の生物に迫る危機の解明、撃退法の構築、撃退を主導し、銀河のなかに確固たる地位を築いていくことになる。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる