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三章
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寮の自室にやっとの思いで帰り着くと、お帰り、遅かったな、と声を掛ける吉野さえ無視して、クリスは、ベッドに突っ伏して枕に顔を埋め声を殺して泣いた。
「何があった?」
傍に来て、ベッドの端に腰かけ心配そうに自分を見つめる吉野に、ただ、頭を振って声を出して応えることすら出来なかった。
どれくらい経ったのだろう……。鼻をすすりながら身体を起こしたクリスは、横にいる吉野の眼差しが自分ではなく、彼の膝上に置かれたテキストに注がれていることに、憮然として唇を尖らせた。
「ひどいよ、きみは。泣いている僕の横で、ラテン語の予習をしているなんて!」
「明日、テストなんだ」
「僕だってそうだよ」
クリスは袖で目を擦って涙を拭う。
「神様は不公平だよ。何でも持っている人間に、さらに、素晴らしい才能までお与えになるんだ」
「まぁ、『富める者はますます富み、貧しき者はますます貧しく』って聖書にもあるしな。ちょっと違うか――」
首を傾げる吉野に、「きみも富める者じゃないか」とクリスは、またふくれっ面をする。
「つい最近までうちの家、破産しかかっていたのに? 俺、産まれてからこの方、富める者だった記憶なんてないぞ。この学校だって、学費も寮費も免除だからきてるんだし」
呆れたように答える吉野に、クリスは大きく首を振る。
「その才能のことだよ。才能って、やっぱり遺伝じゃないか。凡人がいくら練習したって追いつけないんだ……」
また、クリスの目には涙が滲んでくる。
「なんのことを言っているんだよ? 判らないからはっきり言えよ」
吉野はいい加減面倒くさそうに、イライラした調子でクリスを見つめた。
「アレン・フェイラーが、クリスマスコンサートの選抜を受けるんだ。ツィゴイネルワイゼン、ピアノで弾いてみせてくれた。お兄さんに劣らないくらい、素晴らしかった――。初めて彼の演奏を聴いた時から、ずっと彼が目標で、同じキングススカラーになりたくて必死に勉強して、なんとかこの学校に入れたのに……。クリスマスコンサートでツィゴイネルワイゼンを弾くのが夢だったのに……。やっぱり、遺伝子には勝てないんだ!」
吉野は、またボロボロと泣きだしたクリスの髪をそっと撫でてやりながら、「遺伝子なんて関係ない。フェイラーは知らないけど、少なくともあいつが凄いのは、はたから見たら異常なほどの努力を、苦痛と思わず続けられるところだよ。俺の見た限りじゃ、お前はヘンリーの十分の一も努力してない」とため息をついて仕方なさそうに告げる。しゃくり上げながら驚いて自分を見つめたクリスに、吉野はさらに声を落として囁いた。
「とっておきを教えてやるから、誰にも言うなよ。飛鳥しか知らないことなんだから。漏れて広まったら飛鳥が困る」
「エアヴァイオリン……」
「実物がないときはな」
「僕、できるかな……」
クリスはベッドから足を下ろして姿勢を正し、チェロを構えるように腕を広げてみる。目を瞑って、弦を押さえるように指を動かす。
「きっとアレンも同じだね。教室でも、よく机の端っこを叩いているもの」
「あれからどうだった?」
そういえば、と何気なく訊ねた吉野の一言で、クリスは、パッっと目を開けて動きを止めると、「そうだった! あれ、見せてよ!」と大声をあげた。
「何?」
左手を前に伸ばして片目を眇め、狙いを定めて右手で引っ張るフリをし。てみせる。
「パン!」
もうしばらく、泣かしときゃよかった……。
吉野は露骨に嫌そうに顔をしかめた。だが好奇心で溢れかえっているクリスは動じない。誤魔化すのは無理そうだと諦め、吉野は不承不承スラックスのポケットからスリングショットを取りだした。
「どうやって使うの?」
「窓辺に寄って。危ないから」
部屋の端まで移動してから、吉野はポケットからポップコーンを取り出した。スリングショットのゴム部分に詰めて構える。そして、パシッ、と鋭い音を立てて放つ。
ドアにかけてあったプレートが、カンッ! とけたたましく跳ね上がる。
クリスは目を見開いて、ゴクリと唾を呑み込んでいた。やがてドアプレートの揺れが収まると、緊張した声で、「僕もやりたい」と呟いた。
吉野はスリングショットと小袋に入ったポップコーンを手渡し、簡単に説明してやった。
「うまく当たらないや!」
嬉々としてクリスは、何度も、何度も飽きることなくドアプレートを狙って、ポップコーンを詰めてはゴムを引っ張っている。
こいつらって、こういう悪さ、したことないんだろうな……。
漠然とそんなことを思いながら、吉野はクリスの細くて長い指と、綺麗に手入れされた爪を見るでもなく眺めていた。
「もういいだろ? 部屋がポップコーンだらけになった。ちゃんと拾えよ」
クリスは憮然と唇を尖らせたが、黙ってポップコーンを拾い始めた。だが、それも袋に溜まってくると、吉野を振り返り、「もう一回やってもいい?」と、ねだるように瑠璃色の瞳を輝かせる。
「どうぞご自由に。俺は、ラテン語のテスト勉強をするけどな」
吉野はクリスのベッドに置きっ放しだった教科書を取りあげると、自分の机に戻って広げる。
「忘れてた!」
クリスは急いで残るポップコーンを拾い集めて吉野の机に置くと、「これ、どこで買えるの?」と名残惜しそうに、手の中のスリングショットをじっと見つめた。
「売ってない。俺の手作り」
「じゃ、僕にも作って」
「だめだ、危険だからな。もともとこれは狩猟に使われる道具なんだ。慎重に扱わないと、人に怪我させたりするかもしれないからな」
「ポップコーンを撃つものじゃないの?」
「まさか! いろいろ試した中で、これが一番安全だったんだよ。当たるとかなり痛いけれど、傷つけるほどじゃない」
吉野はポップコーンを摘まんで指先でピンッと弾くと、パシッと掌で受け止める。
「ポップコーン以外だったら?」
「小動物くらい殺せる」
「――きみだから、扱えるってこと?」
「こんなものを持っているとな、狙いたくなるんだよ、いろいろとな。だから、だめ」
吉野の有無を言わさぬ瞳に、クリスは納得して頷いた。
吉野だから、相手に怪我させずに威嚇できるんだ、あんなふうに――。
「きみは、アレンのことが嫌いでしょ?」
入学式でのことだ。キングズスカラーの新入生と、国際スカラーの吉野が初めて一堂に会し挨拶を交わした。あの時アレンは、露骨に吉野とイスラム系のサウード、イスハ―クとの握手を拒み、無視したのだ。今日までクリスがアレンにかかわろうとしなかったのも、そんな経緯があったからだ。そこで感じた不快感までも鮮明に思いだし、クリスは不思議そうに吉野に訊ねた。
「なのになんで助けてあげるの?」
吉野は教科書に視線を落としたまま、「目が、今のあいつの目が、昔の飛鳥に似てるんだ」とぼそぼそと答えてから、考え込むように頬杖をついた。
「飛鳥も、めちゃくちゃ可愛かったしな……」
「は?」
クリスは、ウイスタン校の六月祭での、ぼさぼさ頭で印象の薄いアスカ・トズキの顔を必死に思い出そうと記憶を探る。
「判らないだろ? 飛鳥は容姿コンプレックスがきついからな。人前じゃ、まともに顔を晒さないんだ」
吉野はちょっと肩を竦めて、クスクスと笑った。
「女の子みたいに可愛いのに、素人離れした機械オタクで、おまけに家の手伝いで付き合いも悪かったからさ、ガキの頃、随分といじめられてたんだ」
吉野は言葉を切って、横に突っ立ったままのクリスを見上げた。
「だからずっと、今のフェイラーのような目をしていた。今は、違うけどな――。そういう意味じゃ、俺、ヘンリーに感謝してるよ。こっちに来てからの飛鳥はずっと楽しそうだし、友達もできた。こっちの連中の方が、日本人よりずっと大人なのかな、って期待してたんだよ、これでも」
吉野は苦笑して大きく伸びをし、背筋を伸ばす。
「ヘンリーみたいな大人なやつもいれば、そうじゃないやつもいる。どこの国だって同じだ……。ヘンリーは最初、飛鳥のことが嫌いだったのに、嫌がらせからは守ってくれたって」
クリスは神妙な顔のまま、じっと聞き入っている。
「ただたんに、いじめって行為があいつの信条に反していたからだって。好き、嫌いは関係ないんだ。同じだよ、俺も。ただたんに、フェイラーの、あの怯えきった瞳を見るのが嫌なだけだよ」
「でもきみは、ソールスベリー先輩のことも、好きじゃないんだよね?」
なんとも言えない表情でクリスは呟いた。
「大人だから信用できないってこともあるのさ」
吉野は苦笑して答えると、「さっさとラテン語を始めないと、時間がなくなるぞ」と話を打ち切り、くるりと背を向けて教科書に視線を落とした。
「何があった?」
傍に来て、ベッドの端に腰かけ心配そうに自分を見つめる吉野に、ただ、頭を振って声を出して応えることすら出来なかった。
どれくらい経ったのだろう……。鼻をすすりながら身体を起こしたクリスは、横にいる吉野の眼差しが自分ではなく、彼の膝上に置かれたテキストに注がれていることに、憮然として唇を尖らせた。
「ひどいよ、きみは。泣いている僕の横で、ラテン語の予習をしているなんて!」
「明日、テストなんだ」
「僕だってそうだよ」
クリスは袖で目を擦って涙を拭う。
「神様は不公平だよ。何でも持っている人間に、さらに、素晴らしい才能までお与えになるんだ」
「まぁ、『富める者はますます富み、貧しき者はますます貧しく』って聖書にもあるしな。ちょっと違うか――」
首を傾げる吉野に、「きみも富める者じゃないか」とクリスは、またふくれっ面をする。
「つい最近までうちの家、破産しかかっていたのに? 俺、産まれてからこの方、富める者だった記憶なんてないぞ。この学校だって、学費も寮費も免除だからきてるんだし」
呆れたように答える吉野に、クリスは大きく首を振る。
「その才能のことだよ。才能って、やっぱり遺伝じゃないか。凡人がいくら練習したって追いつけないんだ……」
また、クリスの目には涙が滲んでくる。
「なんのことを言っているんだよ? 判らないからはっきり言えよ」
吉野はいい加減面倒くさそうに、イライラした調子でクリスを見つめた。
「アレン・フェイラーが、クリスマスコンサートの選抜を受けるんだ。ツィゴイネルワイゼン、ピアノで弾いてみせてくれた。お兄さんに劣らないくらい、素晴らしかった――。初めて彼の演奏を聴いた時から、ずっと彼が目標で、同じキングススカラーになりたくて必死に勉強して、なんとかこの学校に入れたのに……。クリスマスコンサートでツィゴイネルワイゼンを弾くのが夢だったのに……。やっぱり、遺伝子には勝てないんだ!」
吉野は、またボロボロと泣きだしたクリスの髪をそっと撫でてやりながら、「遺伝子なんて関係ない。フェイラーは知らないけど、少なくともあいつが凄いのは、はたから見たら異常なほどの努力を、苦痛と思わず続けられるところだよ。俺の見た限りじゃ、お前はヘンリーの十分の一も努力してない」とため息をついて仕方なさそうに告げる。しゃくり上げながら驚いて自分を見つめたクリスに、吉野はさらに声を落として囁いた。
「とっておきを教えてやるから、誰にも言うなよ。飛鳥しか知らないことなんだから。漏れて広まったら飛鳥が困る」
「エアヴァイオリン……」
「実物がないときはな」
「僕、できるかな……」
クリスはベッドから足を下ろして姿勢を正し、チェロを構えるように腕を広げてみる。目を瞑って、弦を押さえるように指を動かす。
「きっとアレンも同じだね。教室でも、よく机の端っこを叩いているもの」
「あれからどうだった?」
そういえば、と何気なく訊ねた吉野の一言で、クリスは、パッっと目を開けて動きを止めると、「そうだった! あれ、見せてよ!」と大声をあげた。
「何?」
左手を前に伸ばして片目を眇め、狙いを定めて右手で引っ張るフリをし。てみせる。
「パン!」
もうしばらく、泣かしときゃよかった……。
吉野は露骨に嫌そうに顔をしかめた。だが好奇心で溢れかえっているクリスは動じない。誤魔化すのは無理そうだと諦め、吉野は不承不承スラックスのポケットからスリングショットを取りだした。
「どうやって使うの?」
「窓辺に寄って。危ないから」
部屋の端まで移動してから、吉野はポケットからポップコーンを取り出した。スリングショットのゴム部分に詰めて構える。そして、パシッ、と鋭い音を立てて放つ。
ドアにかけてあったプレートが、カンッ! とけたたましく跳ね上がる。
クリスは目を見開いて、ゴクリと唾を呑み込んでいた。やがてドアプレートの揺れが収まると、緊張した声で、「僕もやりたい」と呟いた。
吉野はスリングショットと小袋に入ったポップコーンを手渡し、簡単に説明してやった。
「うまく当たらないや!」
嬉々としてクリスは、何度も、何度も飽きることなくドアプレートを狙って、ポップコーンを詰めてはゴムを引っ張っている。
こいつらって、こういう悪さ、したことないんだろうな……。
漠然とそんなことを思いながら、吉野はクリスの細くて長い指と、綺麗に手入れされた爪を見るでもなく眺めていた。
「もういいだろ? 部屋がポップコーンだらけになった。ちゃんと拾えよ」
クリスは憮然と唇を尖らせたが、黙ってポップコーンを拾い始めた。だが、それも袋に溜まってくると、吉野を振り返り、「もう一回やってもいい?」と、ねだるように瑠璃色の瞳を輝かせる。
「どうぞご自由に。俺は、ラテン語のテスト勉強をするけどな」
吉野はクリスのベッドに置きっ放しだった教科書を取りあげると、自分の机に戻って広げる。
「忘れてた!」
クリスは急いで残るポップコーンを拾い集めて吉野の机に置くと、「これ、どこで買えるの?」と名残惜しそうに、手の中のスリングショットをじっと見つめた。
「売ってない。俺の手作り」
「じゃ、僕にも作って」
「だめだ、危険だからな。もともとこれは狩猟に使われる道具なんだ。慎重に扱わないと、人に怪我させたりするかもしれないからな」
「ポップコーンを撃つものじゃないの?」
「まさか! いろいろ試した中で、これが一番安全だったんだよ。当たるとかなり痛いけれど、傷つけるほどじゃない」
吉野はポップコーンを摘まんで指先でピンッと弾くと、パシッと掌で受け止める。
「ポップコーン以外だったら?」
「小動物くらい殺せる」
「――きみだから、扱えるってこと?」
「こんなものを持っているとな、狙いたくなるんだよ、いろいろとな。だから、だめ」
吉野の有無を言わさぬ瞳に、クリスは納得して頷いた。
吉野だから、相手に怪我させずに威嚇できるんだ、あんなふうに――。
「きみは、アレンのことが嫌いでしょ?」
入学式でのことだ。キングズスカラーの新入生と、国際スカラーの吉野が初めて一堂に会し挨拶を交わした。あの時アレンは、露骨に吉野とイスラム系のサウード、イスハ―クとの握手を拒み、無視したのだ。今日までクリスがアレンにかかわろうとしなかったのも、そんな経緯があったからだ。そこで感じた不快感までも鮮明に思いだし、クリスは不思議そうに吉野に訊ねた。
「なのになんで助けてあげるの?」
吉野は教科書に視線を落としたまま、「目が、今のあいつの目が、昔の飛鳥に似てるんだ」とぼそぼそと答えてから、考え込むように頬杖をついた。
「飛鳥も、めちゃくちゃ可愛かったしな……」
「は?」
クリスは、ウイスタン校の六月祭での、ぼさぼさ頭で印象の薄いアスカ・トズキの顔を必死に思い出そうと記憶を探る。
「判らないだろ? 飛鳥は容姿コンプレックスがきついからな。人前じゃ、まともに顔を晒さないんだ」
吉野はちょっと肩を竦めて、クスクスと笑った。
「女の子みたいに可愛いのに、素人離れした機械オタクで、おまけに家の手伝いで付き合いも悪かったからさ、ガキの頃、随分といじめられてたんだ」
吉野は言葉を切って、横に突っ立ったままのクリスを見上げた。
「だからずっと、今のフェイラーのような目をしていた。今は、違うけどな――。そういう意味じゃ、俺、ヘンリーに感謝してるよ。こっちに来てからの飛鳥はずっと楽しそうだし、友達もできた。こっちの連中の方が、日本人よりずっと大人なのかな、って期待してたんだよ、これでも」
吉野は苦笑して大きく伸びをし、背筋を伸ばす。
「ヘンリーみたいな大人なやつもいれば、そうじゃないやつもいる。どこの国だって同じだ……。ヘンリーは最初、飛鳥のことが嫌いだったのに、嫌がらせからは守ってくれたって」
クリスは神妙な顔のまま、じっと聞き入っている。
「ただたんに、いじめって行為があいつの信条に反していたからだって。好き、嫌いは関係ないんだ。同じだよ、俺も。ただたんに、フェイラーの、あの怯えきった瞳を見るのが嫌なだけだよ」
「でもきみは、ソールスベリー先輩のことも、好きじゃないんだよね?」
なんとも言えない表情でクリスは呟いた。
「大人だから信用できないってこともあるのさ」
吉野は苦笑して答えると、「さっさとラテン語を始めないと、時間がなくなるぞ」と話を打ち切り、くるりと背を向けて教科書に視線を落とした。
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