121 / 739
三章
7
しおりを挟む
医療棟の大きな窓を細やかな雨が濡らし、静かに雨粒が滴り落ちている。水滴で曇った窓の向こう側に何か気がかりでもあるのか、アレン・フェイラーはじっと切望するかのような瞳を向けていた。
「フェイラー」
びくり、と一瞬怯えたように震えて、アレンは声のする方をおずおずと振り返った。
「寮長……」
ホッとしたように笑うアレンの髪を、チャールズは優しく撫でてやる。
「全治一か月だって? 一体どうしたんだい?」
アレンは目を伏せて、「転んだんです」と消え入りそうな声で答えた。
「そう……。ずいぶん酷い転び方をしたんだね。すまなかったね。きみがこんなに酷く転ばないように、僕はもっと気をつけていなければならなかった」
アレンは驚いて、跳ねる様に顔を上げて大きく頭を振る。
チャールズはそんなアレンの否定を留めるかのように、そっとそっと頬に指先で触れる。
「顔が赤い。熱が上がってきているようだよ。先生が、今晩あたり発熱するだろうとおっしゃっていた。熱が引くまでは、ここから帰れないからね。授業が遅れる分は、寮監と相談してチューターをつけるよ。心配しないでゆっくり休むといいよ」
優しく微笑んで、チャールズはもう一度、くしゃりとアレンの頭を撫でて立ちあがった。
「あの、家族には……」
アレンは不安そうな瞳でチャールズを見上げた。
「お伝えした方がいいかい? もし、きみが望むなら街の病院に入院してもかまわないよ」
「いいえ、言わないで下さい。心配させると嫌なので」
「そう、我慢強いんだね」
「ありがとうございます、寮長」
「先生を呼んで来るよ」
だが、慈悲深い笑みを顔に張りつかせてはいても、
彼は、きみのことなんか、心配したりしないよ……。そもそも、家族だなんて思われてもいないんだから。
と、その心中でチャールズは呟いている。
「あ、そうそう、きみの両手が無事で良かった。足の打撲も、十二月には良くなっているだろうしね。クリスマスコンサートの選抜を受けるといい。ツィゴイネルワイゼンのね。出場はヴァイオリンじゃなきゃいけない、ってわけでもないんだよ」
帰りかけた足を止めて振り返ったチャールズは、不安げに見つめ返すアレンに畳みかけるように続けて言った。
「見せつけてやるといい。きみが、ヘンリー・ソールスベリーの弟だってことを。それだけできみは、もっと上手く歩けるようになるよ。……こんな風に転ぶこともなくなる」
不思議そうにセレストブルーの瞳の色を変えるアレンに、チャールズは苦笑しながらそうつけ加えた。
米国人には、嫌味も、ユーモアも通じないか――。
「おやすみ、フェイラー」
チャールズは、踵を返し病室を後にした。
人種だの、肌の色だの、そんな事より言葉が通じるかどうかの方が、ずっと大事だけれどなぁ。あの綺麗なお人形よりも、吉野の方がよほどマシな会話ができる。同じ英語圏の人間だって、会話が出来なければ何時まで経っても異邦人のままだ――。と、チャールズは医療棟を後にすると、楽し気に口笛を吹きながら細やかな霧雨の中を、寮とは反対の方向に歩いて行く。
それにしても、あいつの言っていた通りだ。才能溢れる野生馬。ただし、躾けるのも、手懐けるのも一苦労。彼が去ってから、すっかり精彩を欠いてしまったこの学校の最後の年に、こんな楽しいプレゼントが用意されていたなんて!
問題だらけの現状が、かえってチャールズの心を浮き立たせているなどと、当事者には思いもよらぬことだろう。霧雨にけぶる薄明かりに照らされる街路を軽やかに突っ切って池のある林までくると、チャールズは携帯を取り出した。液晶画面で足元を照らしながら、枯葉に埋もれる道なき道を注意深く分け入って進む。
「ヨシノ、じきに消灯時間だ、降りておいで!」
暗がりの中、携帯を高く上げて、濡れそぼり重たげに下がる紅葉を照らしだす。
「なんだよ。俺にGPSでもつけてんのか?」
「そんなものは必要ないよ。きみは単純だからね」
チャールズは上方から落ちて来る声に笑いながら答えると、更に声を高めて続けた。
「フェイラーは、全治一か月だ。でも、打撲、裂傷、軽い捻挫ですんだよ。何日かは医療棟で過ごすことになるけれどね」
しばらくの沈黙の後に、「そこどけよ、ぶつかる」と、吉野の聞きとり辛い小さな声が聞こえた。
チャールズは言われた通りに幾分か後ずさって、場所を空ける。
ザザッ、と枝葉に溜まった大粒の滴を撒き散らして、吉野が飛び降りてきた。
「さぁ、帰ろう。こんなところでいじけていたんじゃ、風邪をひくよ」
「俺は濡れているときの方が元気なんだ」
振り返りもせずに歩き出す吉野の後ろを、チャールズもおぼつかない足取りで追従する。この暗闇を平気な顔で進んで行く背中を、夜行性の動物を追うように見据えて――。
林から外灯のある遊歩道に出たところで、「反省した?」と少しからかうように声をかけた。
予想外に吉野は素直に頷いた。思わず顔をほころばせ、その頭を撫でようと伸ばした手を、チャールズは、寸前で握りしめて下ろしていた。
「僕も努力するよ。ただの欧米人から、チャールズ・フレミングっていう、いち個人だってことをきみに認めてもらえるようにね」
先程とは口調の変わったチャールズの言葉は、真面目に、真っすぐに吉野に届けられた。
「大人だな、あんた達は」
あんた達の、達は、一般的な英国人? それとも、特定の誰かが含まれているの?
チャールズは、本当はもっと突っ込んで訊きたかったが、吉野が、いつものようにとげとげとした様子ではなく、その全身を包む霧雨のように、静かで細やかな空気をまとっていたので、もう何も言わずに、肩を並べて軽やかに寮への帰路についたのだった。
「フェイラー」
びくり、と一瞬怯えたように震えて、アレンは声のする方をおずおずと振り返った。
「寮長……」
ホッとしたように笑うアレンの髪を、チャールズは優しく撫でてやる。
「全治一か月だって? 一体どうしたんだい?」
アレンは目を伏せて、「転んだんです」と消え入りそうな声で答えた。
「そう……。ずいぶん酷い転び方をしたんだね。すまなかったね。きみがこんなに酷く転ばないように、僕はもっと気をつけていなければならなかった」
アレンは驚いて、跳ねる様に顔を上げて大きく頭を振る。
チャールズはそんなアレンの否定を留めるかのように、そっとそっと頬に指先で触れる。
「顔が赤い。熱が上がってきているようだよ。先生が、今晩あたり発熱するだろうとおっしゃっていた。熱が引くまでは、ここから帰れないからね。授業が遅れる分は、寮監と相談してチューターをつけるよ。心配しないでゆっくり休むといいよ」
優しく微笑んで、チャールズはもう一度、くしゃりとアレンの頭を撫でて立ちあがった。
「あの、家族には……」
アレンは不安そうな瞳でチャールズを見上げた。
「お伝えした方がいいかい? もし、きみが望むなら街の病院に入院してもかまわないよ」
「いいえ、言わないで下さい。心配させると嫌なので」
「そう、我慢強いんだね」
「ありがとうございます、寮長」
「先生を呼んで来るよ」
だが、慈悲深い笑みを顔に張りつかせてはいても、
彼は、きみのことなんか、心配したりしないよ……。そもそも、家族だなんて思われてもいないんだから。
と、その心中でチャールズは呟いている。
「あ、そうそう、きみの両手が無事で良かった。足の打撲も、十二月には良くなっているだろうしね。クリスマスコンサートの選抜を受けるといい。ツィゴイネルワイゼンのね。出場はヴァイオリンじゃなきゃいけない、ってわけでもないんだよ」
帰りかけた足を止めて振り返ったチャールズは、不安げに見つめ返すアレンに畳みかけるように続けて言った。
「見せつけてやるといい。きみが、ヘンリー・ソールスベリーの弟だってことを。それだけできみは、もっと上手く歩けるようになるよ。……こんな風に転ぶこともなくなる」
不思議そうにセレストブルーの瞳の色を変えるアレンに、チャールズは苦笑しながらそうつけ加えた。
米国人には、嫌味も、ユーモアも通じないか――。
「おやすみ、フェイラー」
チャールズは、踵を返し病室を後にした。
人種だの、肌の色だの、そんな事より言葉が通じるかどうかの方が、ずっと大事だけれどなぁ。あの綺麗なお人形よりも、吉野の方がよほどマシな会話ができる。同じ英語圏の人間だって、会話が出来なければ何時まで経っても異邦人のままだ――。と、チャールズは医療棟を後にすると、楽し気に口笛を吹きながら細やかな霧雨の中を、寮とは反対の方向に歩いて行く。
それにしても、あいつの言っていた通りだ。才能溢れる野生馬。ただし、躾けるのも、手懐けるのも一苦労。彼が去ってから、すっかり精彩を欠いてしまったこの学校の最後の年に、こんな楽しいプレゼントが用意されていたなんて!
問題だらけの現状が、かえってチャールズの心を浮き立たせているなどと、当事者には思いもよらぬことだろう。霧雨にけぶる薄明かりに照らされる街路を軽やかに突っ切って池のある林までくると、チャールズは携帯を取り出した。液晶画面で足元を照らしながら、枯葉に埋もれる道なき道を注意深く分け入って進む。
「ヨシノ、じきに消灯時間だ、降りておいで!」
暗がりの中、携帯を高く上げて、濡れそぼり重たげに下がる紅葉を照らしだす。
「なんだよ。俺にGPSでもつけてんのか?」
「そんなものは必要ないよ。きみは単純だからね」
チャールズは上方から落ちて来る声に笑いながら答えると、更に声を高めて続けた。
「フェイラーは、全治一か月だ。でも、打撲、裂傷、軽い捻挫ですんだよ。何日かは医療棟で過ごすことになるけれどね」
しばらくの沈黙の後に、「そこどけよ、ぶつかる」と、吉野の聞きとり辛い小さな声が聞こえた。
チャールズは言われた通りに幾分か後ずさって、場所を空ける。
ザザッ、と枝葉に溜まった大粒の滴を撒き散らして、吉野が飛び降りてきた。
「さぁ、帰ろう。こんなところでいじけていたんじゃ、風邪をひくよ」
「俺は濡れているときの方が元気なんだ」
振り返りもせずに歩き出す吉野の後ろを、チャールズもおぼつかない足取りで追従する。この暗闇を平気な顔で進んで行く背中を、夜行性の動物を追うように見据えて――。
林から外灯のある遊歩道に出たところで、「反省した?」と少しからかうように声をかけた。
予想外に吉野は素直に頷いた。思わず顔をほころばせ、その頭を撫でようと伸ばした手を、チャールズは、寸前で握りしめて下ろしていた。
「僕も努力するよ。ただの欧米人から、チャールズ・フレミングっていう、いち個人だってことをきみに認めてもらえるようにね」
先程とは口調の変わったチャールズの言葉は、真面目に、真っすぐに吉野に届けられた。
「大人だな、あんた達は」
あんた達の、達は、一般的な英国人? それとも、特定の誰かが含まれているの?
チャールズは、本当はもっと突っ込んで訊きたかったが、吉野が、いつものようにとげとげとした様子ではなく、その全身を包む霧雨のように、静かで細やかな空気をまとっていたので、もう何も言わずに、肩を並べて軽やかに寮への帰路についたのだった。
1
お気に入りに追加
18
あなたにおすすめの小説
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
お嬢様、お仕置の時間です。
moa
恋愛
私は御門 凛(みかど りん)、御門財閥の長女として産まれた。
両親は跡継ぎの息子が欲しかったようで女として産まれた私のことをよく思っていなかった。
私の世話は執事とメイド達がしてくれていた。
私が2歳になったとき、弟の御門 新(みかど あらた)が産まれた。
両親は念願の息子が産まれたことで私を執事とメイド達に渡し、新を連れて家を出ていってしまった。
新しい屋敷を建ててそこで暮らしているそうだが、必要な費用を送ってくれている以外は何も教えてくれてくれなかった。
私が小さい頃から執事としてずっと一緒にいる氷川 海(ひかわ かい)が身の回りの世話や勉強など色々してくれていた。
海は普段は優しくなんでもこなしてしまう完璧な執事。
しかし厳しいときは厳しくて怒らせるとすごく怖い。
海は執事としてずっと一緒にいると思っていたのにある日、私の中で何か特別な感情がある事に気付く。
しかし、愛を知らずに育ってきた私が愛と知るのは、まだ先の話。
婚約者に消えろと言われたので湖に飛び込んだら、気づけば三年が経っていました。
束原ミヤコ
恋愛
公爵令嬢シャロンは、王太子オリバーの婚約者に選ばれてから、厳しい王妃教育に耐えていた。
だが、十六歳になり貴族学園に入学すると、オリバーはすでに子爵令嬢エミリアと浮気をしていた。
そしてある冬のこと。オリバーに「私の為に消えろ」というような意味のことを告げられる。
全てを諦めたシャロンは、精霊の湖と呼ばれている学園の裏庭にある湖に飛び込んだ。
気づくと、見知らぬ場所に寝かされていた。
そこにはかつて、病弱で体の小さかった辺境伯家の息子アダムがいた。
すっかり立派になったアダムは「あれから三年、君は目覚めなかった」と言った――。
公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-
猫まんじゅう
恋愛
そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。
無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。
筈だったのです······が?
◆◇◆
「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」
拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」
溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない?
◆◇◆
安心保障のR15設定。
描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。
ゆるゆる設定のコメディ要素あり。
つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。
※妊娠に関する内容を含みます。
【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】
こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる