胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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三章

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 飛鳥には、絶対にこいつを会わせたくない……。

 自分の斜め前方に座るアレン・フェイラーの背中を不快そうに睨めつけて、吉野は、ロンドンで偶然彼を見かけることになった、その理由を考えていた。

 理数系科目は最高学年と同じ授業を取る吉野は、アレンと被る数少ない授業の一つである歴史のクラスで、爪を噛みながら退屈な時間をやりすごしている。授業を終えると早足に教室を離れるアレンの後を、ブラブラと、少し離れた位置から面倒くさそうな顔でついて行く。



 バンッ、と大きな音を立ててアレンが床に転がった。数人の上級生とのすれ違いざま、足を掛けられたのだ。声を殺した嗤い声が、嫌らしく、ざわざわと騒がしい廊下を這うようにむず痒く響く。アレンは、唇を引き結んで立ち上がろうとして、また、すっ転ぶ。キングススカラーのローブの端が、灰色のトラウザーズを穿く足先に踏まれたままだ。クスクス笑いが哄笑に取って代わられる。

 惨めにしゃがみ込んでいるアレンは、綺麗に磨かれた艶やかな黒革靴の下から、ローブの端を引き抜こうと必死に引っ張っている。微動だにしないその靴先に、怯えた瞳で恐る恐る足の持主を見上げる。長身で威圧的な上級生の顔に刻まれた侮蔑的な色に、アレンは目を見開いて泣きださんばかりに瞳を震わせている。


 みっともねぇ……。

 吉野はちっと舌打ちして、「先輩!」と声をあげる。

「ヨシノ、おかえり。どうだった?」
 その上級生は、振り返ると何事も無かったかのように、明るい声で彼を迎えた。足下にいる下級生のことなど、もうすっかり眼中にないらしい。吉野の肩を抱いて、内緒話をするように顔を近づけて若干身を屈めている。

「彼は今、アメリカだそうです。いつ帰ってくるかは未定だって」
「ああ……。やっぱり、一月の見本市の準備でお忙しいんだね」
 その上級生は大袈裟にため息を吐き、身体を真っ直ぐに起こした。
「残念だな、クリスマスコンサートには、ぜひいらして欲しかったのに。彼の出演以降、エリオットの音楽レベルはとても上がっているんだよ。音楽スカラーシップも創設されたしね。彼の演奏を記念して、コンサートの一曲目は、ツィゴイネルワイゼンを弾くのが恒例なのに。本当に残念だよ」
「クリスマス頃には、少し落ち着くだろうって」
「本当? やっぱり、彼のことに一番詳しいのはきみだね。ありがとう、きみに訊いて良かったよ。ところで、例の件だけれど……」

 吉野の肩を抱いたままゆっくりと歩き出し、声を潜めて話し続けるその背中を、アレンは感情のない目で追った。そして、やっとのろのろと立ち上がった。






 しかし、あいつの信者ってのは極端だな……。あいつの身内がなのが、そんなに許せないのか?

 吉野は、日没前の燃え立つ日差しを受けて更に輝きを増す、赤いカーテンのような葉を茂らせるけやきの木の枝に腰かけて、手帳に書き込んだ要注意人物リストに、また一人追加の名前を書き入れた。

 増える一方じゃないか。それも仕方ないか……。
 それにしたって、なんだってやり返さないんだ? 

 吉野にはそのことが何よりも不思議だ。
 兄とは違って気が弱いのか、弟の方はすぐに泣きそうになる。そのくせ有色人種には、高圧的で差別的な態度を見せる。そのせいで、普通なら上級生の下級生へのいじめを禁止し、取り締まる監督生や良識的な連中でさえ、見て見ぬフリを決め込んでいる。自業自得だ、と同情されもしない。

 吉野から見ると不思議な風習だが、伝統的にエリオット校は、反抗的で生意気な生徒を好む。他校とは一線を画す厳しい校則と教育で縛りながら、それに縛られず、覆す生徒を気骨があると褒めそやすのだ。

 あいつのように――。

 ヘンリーを英雄視する風潮を決定的にしたのが、この母校に後足で砂をかけて出て行ったからだ、というのだから、ここの連中の自虐的なブラック・ユーモアは堂に入っているとしか言いようがない。

 泣き寝入りしているようじゃ、増長させるだけだぞ。兄貴に頼ろう、たって無駄だ。あいつはそんな甘い奴じゃないんだぞ。

 吉野はため息を吐き、また、爪を噛む。



 ザクザク、ザクザク……、と枯葉を踏みしだく複数の足音に、吉野は慎重に身体を捩じり、その姿を探した。逢魔が時の、光が駆け足で薄れていく中でのぼんやりとした輪郭線に、アレン・フェイラーらしい小柄な姿態がいる。吉野はきっと唇を結んだ。

 とうとう捕まったか――。

 三人、まぁ、まだマシだな。げっ、生徒会かよ……。

 アレンを掴んで引きずるように歩かせている三人組は、灰色のトラウザーズを穿いている。テイルコートからは派手な赤色のウエストコートが、チラチラと見え隠れしている。

 面倒くせぇ……。でもまぁ、相手が生徒会ならかえってラッキーか。さっさと終わらせられる。

 手にしたポケットカメラを目一杯ズームにして、吉野は連続してシャッターを切った。
 下卑た笑い声と、声高にアレンを侮辱する声にかき消されているのか、誰も気づかない。目の前で行われている、とても英国一のエリート校生とは思えない下劣な行為に、吉野はじきに写真を撮る手を止め、眉をしかめ、嫌悪感に顔をひどく歪めて無意識に唇を噛んでいた。手にしたカメラをスリングショットに持ち替えて、思いきりゴムを引き絞る。

 パシッ!

「痛!」
 一人が頭を押さえて振り返る。

 パシッ、パシッ!

 続けてどこから飛んでくるのかも判らないつぶてを受け、彼らは低く悲鳴を上げて、きょろきょろと辺りを見回している。

「くそっ!」「どこのどいつだ!」と口々に悪態をつき、顔を見合わせて早口で何事かしゃべり合っている。そのうちの一人が、後ろ手に縛り上げたうえ目隠しをして地面に転がしているアレンを、腹立ち紛れに蹴り上げる。だがそれを潮に、三人は慎重に辺りを伺いながら立ち去っていった。




 耳を澄ませ、枯葉を踏み潰す音が完全に聞こえなくなってから、吉野は木から飛び降りた。
 ザッ、ザクッ、と、枝葉を揺らす音に、成す術もなく転がったまま、ぐずぐずと泣いていたアレンは、びくりと体を震わせた。

「もう大丈夫だ」
 吉野は声を殺して囁いた。アレンの身体を起こして支え、縛り上げていた紐を解いて目隠しを外してやる。そして、傍に落ちていた彼のローブで包むと、身体を引き上げて立たせてやった。

「歩ける?」
 日はすっかり落ち切り、辺りは夜の帳に包まれて足元すら覚束ない。だがこの数週間の間に、木々の一本一本の位置まで把握している吉野は、迷うことなく歩き出した。暗闇の中で手を引かれ、無言のままつき従うアレンは、嗚咽を収めるだけで精一杯のようだった。



 道を照らす外灯がチラチラと樹々の狭間に見える辺りまで来ると、吉野は立ち止まった。
「このまま寮には戻らずに、医療棟に行くんだ。――頭を高く上げて誇り高くあれ。お前だって、エリオット校生エリオティアンなんだ」

 そっと髪を撫でられた。顔を伏せたままずっとしゃくりあげていたアレンは、ようやくその面を上げた。

 だがその時には、そこにはもう誰もいなかった。
 ザワザワと木立を揺らす風が、その足音も、人のいた気配すらも吹き飛ばして通りすぎていただけだった。






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