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三章
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「マーレイ銀行の破綻、吸収合併が決まったよ」
電話を切ったアーネストは、ソファーに寝そべって休むヘンリーの足側に脱力したように腰かけ、大きくため息を吐いた。
「長かったよ。この一カ月ちょっとの期間が、今までで一番長く感じられたよ……」
ぎゅっと唇を結び、肩を震わせて掠れた声で呟くアーネストを、ヘンリーは起き上がって掻き抱いた。柔らかな巻き毛を大きく開いた両手でそっと包み込む。
「もう大丈夫だよ。終わったんだ」
EUとの関係を深め欧州政策を中心に置くラザフォード家と、金融取引を中心に米国寄りの政策を擁護するマーレイ銀行ら金融機関との何年間にも渡る確執は、単なる政治的な問題では済まなかった。常に身の危険を伴い、自由を制限し、暗く重たい澱んだ澱をラザフォード家の子どもたちの上にも降り積もらせていたのだ。
「デイブに連絡しなくちゃ」
アーネストは、顔を上げて薄っすらと涙の滲む瞳で微笑んで言った。
「安心させてあげるといい」
ヘンリーも優しく微笑んで頷いた。
立ち上がり、デヴィッドに電話を掛けるアーネストの背中から目を逸らすヘンリーの顔から笑みが消え、窓外のずっと遠くの灰色の空を、厳しい視線が見据えていた。
本当の惨状はこれからだ――。
マーレイが舞台から降りたところで、彼らの置き土産は、これから更に英国と欧州経済を蝕んでズタズタにする……。ラザフォード家にかかる重圧が無くなる訳ではないのだ。そんなことは、アーネストも百も承知だろうに――。
ヘンリーは初めて見たアーネストの涙に驚き、日本にいるデヴィッドに思いを馳せていた。
デイヴの為か……。
あの時ですら、アーネストは決して涙を見せなかった。薄暗い倉庫の中で、救出されたデヴィッドをただ抱きしめて、歯を食いしばって肩を震わせていた、今と同じように――。
金融危機で揺れる英国内にいるよりは日本の方が安全だろうと、両親を説得しデヴィッドを留学させた。それにも拘わらず、デヴィッドは異国で刺客に襲われたのだ。どれほど心配し、歯がゆい思いをしたことだろう。
政治的な問題は終わらない。けれどこれで今暫くは、彼らの安全は確保されるはずだ。
ヘンリーは瞼を閉じて、祖国を覆う鈍色を一時的に遮った。そして、話を終え電話を切ったアーネストに、努めて朗らかな調子で告げた。
「十一月に入ったらすぐに、国際見本市参加の記者会見をするよ」
アーネストも切り替わった話題に、いつもと変わらない優雅な笑みで頷く。
「会場の手配は?」
「済ませている」
「参加製品も発表するの?」
「それは内緒だよ」
ヘンリーは深くソファーに身を預け、背もたれを支えに頬杖をつくと、クスクスと笑った。
「だって、アスカのことだからね。二カ月もあったら更に改良してきそうじゃないか」
「確かに」
大きく頷いて、アーネストは少し羨ましそうなため息を吐く。
「あの兄弟の頭脳はどうなっているんだろうね。遺伝なのかなぁ?」
「ヨシノは、サーカスの曲芸師並に訓練されたからだ、って言っていたけれどね」
「足し算の答えを当てる犬みたいに?」
「飴とムチでね」
「僕は杜月家の教育方法を是非知りたいなぁ。きみのお姫様にも言えることだけどね。天才の生育過程に興味をそそられるよ」
何げないアーネストの言葉に、ヘンリーはなんとも言えない苦笑を浮かべる。
「サラに関してのそれくらいの事なら説明できるけれど、真似はできないよ」
「え! 是非教えてよ」
「彼女の一日は、まずサンスクリット語でヒンドゥーの聖典を暗唱することから始まったそうだよ。試してみるかい? ちなみに彼女は元々はカルカッタの出身だから母語はベンガル語。けれどヒンディー語も、英語も日常会話の中で習得している」
アーネストは大袈裟に腕を広げ、ため息を吐いた。
「そんなことじゃないかと思ったよ。簡単に真似できるようなことなら、其処ら中、天才だらけになるものね」
「まぁ、僕たちみたいな凡人は、地道な努力を繰り返して一歩ずつ進んでいくしかないのさ」
のんびりとした様子で笑うヘンリーを少し意外な心持で眺めながら、アーネストは今までに感じたことの無い、ほんわりと温かな安堵感に包まれていた。
ヘンリーは変わった。
真面目でがむしゃらなところは変わらないのに、以前みたいに苦しそうじゃない……。エリオットにいた頃は、いつも何かに追い立てられているかのようだったのに。この一年で、ずっと大人になった。
アーネストは、この年下の幼馴染を感慨深く見つめていると、自然に顔がほころんでいた。
――僕が手を引いて歩いたきみは、いつの間にか僕と肩を並べて歩くようになっていた。そして今は、僕はきみの背中を見守る位置にいる。この位置は意外に悪くないよ。今のきみは、ちゃんと振り向いて、僕らがいることを確かめてくれるもの――。
「十一月か……。その記者会見が地道な努力の第一歩、新制コズモスのスタートだね」
しみじみと呟いたアーネストに向かい合い、ヘンリーは大きく頷いて自信たっぷりの笑みを返した。
電話を切ったアーネストは、ソファーに寝そべって休むヘンリーの足側に脱力したように腰かけ、大きくため息を吐いた。
「長かったよ。この一カ月ちょっとの期間が、今までで一番長く感じられたよ……」
ぎゅっと唇を結び、肩を震わせて掠れた声で呟くアーネストを、ヘンリーは起き上がって掻き抱いた。柔らかな巻き毛を大きく開いた両手でそっと包み込む。
「もう大丈夫だよ。終わったんだ」
EUとの関係を深め欧州政策を中心に置くラザフォード家と、金融取引を中心に米国寄りの政策を擁護するマーレイ銀行ら金融機関との何年間にも渡る確執は、単なる政治的な問題では済まなかった。常に身の危険を伴い、自由を制限し、暗く重たい澱んだ澱をラザフォード家の子どもたちの上にも降り積もらせていたのだ。
「デイブに連絡しなくちゃ」
アーネストは、顔を上げて薄っすらと涙の滲む瞳で微笑んで言った。
「安心させてあげるといい」
ヘンリーも優しく微笑んで頷いた。
立ち上がり、デヴィッドに電話を掛けるアーネストの背中から目を逸らすヘンリーの顔から笑みが消え、窓外のずっと遠くの灰色の空を、厳しい視線が見据えていた。
本当の惨状はこれからだ――。
マーレイが舞台から降りたところで、彼らの置き土産は、これから更に英国と欧州経済を蝕んでズタズタにする……。ラザフォード家にかかる重圧が無くなる訳ではないのだ。そんなことは、アーネストも百も承知だろうに――。
ヘンリーは初めて見たアーネストの涙に驚き、日本にいるデヴィッドに思いを馳せていた。
デイヴの為か……。
あの時ですら、アーネストは決して涙を見せなかった。薄暗い倉庫の中で、救出されたデヴィッドをただ抱きしめて、歯を食いしばって肩を震わせていた、今と同じように――。
金融危機で揺れる英国内にいるよりは日本の方が安全だろうと、両親を説得しデヴィッドを留学させた。それにも拘わらず、デヴィッドは異国で刺客に襲われたのだ。どれほど心配し、歯がゆい思いをしたことだろう。
政治的な問題は終わらない。けれどこれで今暫くは、彼らの安全は確保されるはずだ。
ヘンリーは瞼を閉じて、祖国を覆う鈍色を一時的に遮った。そして、話を終え電話を切ったアーネストに、努めて朗らかな調子で告げた。
「十一月に入ったらすぐに、国際見本市参加の記者会見をするよ」
アーネストも切り替わった話題に、いつもと変わらない優雅な笑みで頷く。
「会場の手配は?」
「済ませている」
「参加製品も発表するの?」
「それは内緒だよ」
ヘンリーは深くソファーに身を預け、背もたれを支えに頬杖をつくと、クスクスと笑った。
「だって、アスカのことだからね。二カ月もあったら更に改良してきそうじゃないか」
「確かに」
大きく頷いて、アーネストは少し羨ましそうなため息を吐く。
「あの兄弟の頭脳はどうなっているんだろうね。遺伝なのかなぁ?」
「ヨシノは、サーカスの曲芸師並に訓練されたからだ、って言っていたけれどね」
「足し算の答えを当てる犬みたいに?」
「飴とムチでね」
「僕は杜月家の教育方法を是非知りたいなぁ。きみのお姫様にも言えることだけどね。天才の生育過程に興味をそそられるよ」
何げないアーネストの言葉に、ヘンリーはなんとも言えない苦笑を浮かべる。
「サラに関してのそれくらいの事なら説明できるけれど、真似はできないよ」
「え! 是非教えてよ」
「彼女の一日は、まずサンスクリット語でヒンドゥーの聖典を暗唱することから始まったそうだよ。試してみるかい? ちなみに彼女は元々はカルカッタの出身だから母語はベンガル語。けれどヒンディー語も、英語も日常会話の中で習得している」
アーネストは大袈裟に腕を広げ、ため息を吐いた。
「そんなことじゃないかと思ったよ。簡単に真似できるようなことなら、其処ら中、天才だらけになるものね」
「まぁ、僕たちみたいな凡人は、地道な努力を繰り返して一歩ずつ進んでいくしかないのさ」
のんびりとした様子で笑うヘンリーを少し意外な心持で眺めながら、アーネストは今までに感じたことの無い、ほんわりと温かな安堵感に包まれていた。
ヘンリーは変わった。
真面目でがむしゃらなところは変わらないのに、以前みたいに苦しそうじゃない……。エリオットにいた頃は、いつも何かに追い立てられているかのようだったのに。この一年で、ずっと大人になった。
アーネストは、この年下の幼馴染を感慨深く見つめていると、自然に顔がほころんでいた。
――僕が手を引いて歩いたきみは、いつの間にか僕と肩を並べて歩くようになっていた。そして今は、僕はきみの背中を見守る位置にいる。この位置は意外に悪くないよ。今のきみは、ちゃんと振り向いて、僕らがいることを確かめてくれるもの――。
「十一月か……。その記者会見が地道な努力の第一歩、新制コズモスのスタートだね」
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