胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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三章

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「ビル! ロンドンは今何時?!」
 台所のテレビでニュースを見ていたデヴィッドが、いきなり叫ぶように庭にいるビル・ベネットを呼んだ。
「早朝の五時すぎですよ」
 杜月家の庭の草むしりをしていたビルは、汗を拭きながら勝手口から顔を覗かせのんびりと答えた。

 デヴィッドは急いで携帯電話を取り出すと番号を押し、イライラと呟いた。

「早く出て、ヘンリー」
 長いコール音の後、『もしもし』と、やっとヘンリーの不機嫌な声が聞こえた。
「やったよヘンリー! RB投資銀行、破綻だ!」
『本当に? 昨夜の最終ニュースでは、』
「たった今ニュースで流れたんだ! チャプターイレブンだよ! これでマーレイも終わりだ! ざまあみろ!」
 興奮して電話口で叫ぶデヴィッドに、『デイヴ、うるさい。耳が痛いよ』と、冷めた台詞が聞こえる。国際電話だからなのか、本人がまともに電話を口元に当てていないのか、声が遠ざかり聞こえ辛くなった。何か言っているようなのだが。

『ああ、本当だ。マクレガーはいるかい? 代わってくれないか』
 何度か訊き返した後、やっとはっきりと聞こえてきた落ち着いたヘンリーの声に、デヴィッドはつまらなそうに口を尖らせて、「はぁ~い、」と返事をすると、ビルと一緒に庭から戻り、ニュースを食い入るように見つめているアルバート・マクレガーに携帯を渡した。



 受話器を受け取ったアルバートは厳しい表情のまま言葉少なに頷き、はい、はい、と、返事をしていたが、急に目を丸くして口をあんぐりと開け、二の句が継げないままに頬を引きつらせた。

『マクレガー?』
「はい……、はい。了解しました、COO」
 電話を切り、ほぅーと深く息を吐き切って、今度は逆に思い切り吸い込んで緊張をほぐすようにもう一度息を吐く。
「我々のCOOは、本物の英国紳士ジェントルマンなのですね」
 瞳を輝かせ、面を紅潮させて嬉しそうに微笑むアルバートに、「今更何言っているんだよ」デヴィッドはまるで自分が褒められたかのように、誇らしげに口角を上げた。




「これがソールスベリーCOOから送られてきた契約書です」
 アルバートは休日で珍しく家にいた杜月社長と飛鳥に、送られてきたばかりの契約書をプリントアウトしてきて手渡した。
 書類にざっと目を通した飛鳥は、「でもこれじゃあ、圧倒的に『杜月うち』に有利で、コズモスの利益にならないよ」と困惑気味に眉を寄せる。
「『杜月』は経営再建中ですから、為替差損に悩まされることなく事業に専念して欲しいとのことです」
 アルバートは、にこにこと誇らしげに胸を張って告げた。



 電話でのヘンリーの指示は、今回のRB投資銀行の破綻で為替が想定以上に動く可能性がある、もし大きく円高に動けばコズモスに輸出する『杜月』は為替差損で損失を出す可能性がある。今の為替市場は異常事態だ、早急に配慮し手を打つように、というものだった。

「だけど、もし今より円安になれば変動レートで、円高になったら今日の始値を固定レートにするだなんて……」
「アスカさんもウイスタンにいたのですからお分かりでしょう? 英国人にとって、フェアプレイは金銭的な利益に勝る名誉にかかわることなのです」
 その言葉に飛鳥は苦笑して頷きながらも、思考を巡らせるため、押し黙って目を閉じた。


 そうだった……。苦い記憶が幾つも蘇ってくる。『杜月』が倒産を覚悟するほどに追い詰められたのも、去年からのドルの暴落のせいでもあったのだ。飛鳥は英国にいても奨学金のやり繰りを考えるだけで、為替のことなど、すっかり抜け落ちていたのだ。ガン・エデン社が為替差損で傷んだ『杜月』に買収を仕掛けてきた、という事実にしても。

 もし、値動きの荒いポンド円で、あの頃みたいな円高になったら――。

 ぞくり、と戦慄が駆け登る。きれいごとを口にできるほど、自分たちは盤石な地盤に立っている訳ではないのだ。眩暈を起こしそうな不安定さが、飛鳥の心を揺らしている。


「アルはビジネススクールを出ているんだったよね? どう思う、対ポンドでもこれ以上に円高は進むと思う?」
 アルバートは神妙な顔をして答えた。
「ドルは確実に暴落しますね。RB投資銀行の破綻は規模が大きすぎます。関係の深かった英国の銀行にも影響が及ぶでしょうね。ドルにポンドが追従すると思います」
「どのくらい動くだろう?」
「一円、二円では済まないだろうと思います」
 飛鳥はため息をついて、もう一度眉をぎゅっと寄せて目を瞑った。

「フェアプレイ……。そうだね。ヘンリーはそういう人だね」
 噛み締めるように呟いていた。


 今はまだ『杜月』も、コズモスも独立した会社でも、いずれは合併するのだ。ヘンリーにとって、これは損でも何でもないはず――。

 違う、と飛鳥は首を小刻みに振る。

 損得ではないのだ。そんな事ではない。彼はいつだって、飛鳥に対等である事を望んでいたのだ。彼が望むのは自分に跪く相手ではない。対等な立場で、同じ目標を追える相手――。
 これは同情でも、憐れみを掛けられている訳でもないのだ――。

 飛鳥は目を開けると、父親に向き直った。

「父さん、ヘンリーの申し入れを受けてもいいかな? これはアルの言う通り、ヘンリーのジェントルマンシップに則った申し入れだよ」
「ジェントルマンシップ……。同じ西洋人でも、彼はガン・エデン社の連中とはまるで違うんだな……」
 杜月氏の言葉に、一瞬アルバートの瞳に険が宿る。飛鳥は慌てて父の腕に手を掛けた。
「駄目だよ、父さん。一緒にしちゃ。英国人は何よりアメリカが嫌いなんだから……」


 杜月氏はそういうものかい、と苦笑した。そして、アルバートの前に立つと、彼に向って、否、その背後に見えるヘンリーに対して、深々と頭を下げたのだった。






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