胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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三章

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「贅沢なアパートメント……」
 セピア色で統一されたモダンな内装とは打って変わって、やんわりとした灰色の空気のなかに、古色蒼然とした石造りの塀に囲まれた中庭が浮かぶ。吉野は日本とはまるで異なったそんな景色を見下ろしていた。
 日が昇りきっていても空気はどんよりとして薄暗く、窓から覗く重厚なレンガ造りの隣家の屋根に、空は圧し掛かるように重たげだ。だが、彼の心に気に掛かっているのは、そんなことではない。


 こんなロンドンの中心地に庭付きの三階建。日本でいうところの、億ションというところだろう。この家の主人が飛鳥の友人だなどと、未だに吉野には信じられない。自慢じゃないがうちは根っからの庶民だぞ、一体どこに接点があったんだ? と、自分が異国にいるということよりも、兄や自分の家庭環境と釣り合わないこの豪奢な家に、大きな違和感を感じているのだ。

 吉野は、箸の上げ下ろし……、ではなく、ナイフとフォークの持ち方にまでいちいち文句をつける小煩いウィリアムを思い浮かべ、その上司だという、あのいかにも貴族然としたヘンリーを意識してため息を吐いた。
 マナーを無視して目下の自分から握手を求めようと、これから世話になるというのにあんな汚い恰好で出向いて行こうと、全く意に介されない。余裕の笑みで見下され、端っから相手にされることもない。

 あんな大人が、なんだって飛鳥みたいな不安定な奴と付き合えるんだ?

 自分の身を置く現実の噛み合わなさに納得のいかないまま、吉野の胸中には疑問ばかりが湧き上がっている。

 それにデヴィの兄貴、あいつと違ってずっと頭が良さそうだ。あんな出来の良さそうなのが上にいると、はっちゃけちまうのかな……。ヘンリーとデヴィと飛鳥が同期で、兄貴が二歳上だっけ。あの三人が並んだらさぞ派手だろうな、芸能人かよ、てレベルだ。どっちにしろここが飛鳥のいる場所だとはとても思えない。
 提携して作る空中投影の製品が機械化で大量生産できるようになれば、わざわざ飛鳥がここにいる必要はないはずだ。

 飛鳥の大学卒業まで、四年間だけ我慢すればいいんだ――。


 吉野は寝起きの頭を整理するように、昨夜……いや、わずか数時間前に降り立ったばかりの異国の地での現状を改めて整理し、もどかしさに頭を振った。

 飛行機の中であんなに寝たのにな……。取りあえず、着替えなきゃ……。

 と、振り払えない鬱屈を起き抜けの眼ざめの悪さにすり替えて、顔を洗おうと洗面台へと向かう。

 洗面台は水を張ったまま、昨夜の搭乗客に貰った花々で埋め尽くされている。吉野は苦笑してその横にあるバスタブの栓をし、湯を張った。




「おはようございます」
 昨夜指示された通りに居間に下りると、開け放たれたドアをノックして声をかけた。
「おはよう、ヨシノ。ゆっくり休めたかい?」
 パソコンに向かっていたヘンリーは、手を止め立ち上がった。

「それは前の学校の制服かい?」
 懐かしそうに軽く目を細めて穏やかに微笑み、紺のブレザーに灰色のトラウザーズ姿の吉野を眺めている。「ウイスタンのものと良く似ているよ。アーニーが朝食を用意してくれている、さぁ行こうか」と先に立って中庭に面した温室に案内する。



「おはよう、ヨシノ。きみはコーヒーかな?」
 透明のガラステーブルの上に、一人分の朝食が用意されている。
 吉野がちらりと視線を向けると、「僕らはもう済ませたから」と、アーネストは微笑んで席に着くように促した。

 食事を始める前に、「兄からこれを預かってきました」と吉野はパソコンバッグから空中投影ボックスを取り出してヘンリーに渡した。

「右端の赤いボタンが電源です」
「ありがとう。詳細はメールで貰っている。どうぞ、気にせずに先に食べて」


 ヘンリーは吉野の邪魔にならないように透明アクリル製の椅子をずらし、投影ボックスを膝に置いて電源を入れ、保存されているファイルを開いた。その傍らに椅子を寄せて覗き込んだアーネストは、一瞬の内にその躰を引いた。

 眼前に突如現れた異空間に、息を呑んでいた。身動ぎもせず、見つめていた。

 

 目を見開いて仮想画面を食い入るように眺め、ひとしきり操作し終わったヘンリーは、優し気な笑みを浮かべて、ほう、と息を吐いた。アーネストと顔を見合わせ、「デイヴも頑張っているみたいだね」と安堵したように頷く。「報われたよ」と、アーネストも満足そうに吐息を漏らしている。


 継いでヘンリーは、「さすがだね、きみのお兄さんは。こんな短期間でここまで仕上げるなんて」と吉野に視線を移した。吉野はその間中渋い顔をして黙々と食べながら、じっと観察するようにヘンリーを見つめていた。


「でも、また根を詰めて無理をしたんじゃないのかい? それが心配だから大学が始まるまでにめどがつけばいい、と、言っておいたのに」
 少し眉根を寄せて、問い掛けるような視線を向けるヘンリーに、「大丈夫です。俺がいましたから無理はさせていません」と吉野は当然のことの様に、表情を変えることなく言ってのけた。
「そう、ありがとう、ヨシノ。アスカは僕の大切なパートナーだからね。在学中は、彼の体調管理にとても気を使っていたんだ。彼、丈夫な方じゃないみたいだったからね。これからは弟のきみが傍にいてくれて安心だよ」
 ヘンリーは、吉野の挑戦的な瞳を正面から見据え、優雅な笑みを浮かべて礼を言う。


 まるで本当の友人みたいだ……。

 吉野は、日本での飛鳥やデヴィッドの様子を訊きたがり、心配するヘンリーを意外に思い、当惑せずにはいられなかった。

 今までの奴らと同じように、『杜月』の特許が欲しいだけだと思っていたのに……。



「ヘンリー卿、ひとつお尋ねしたいことがあるのですが」
 吉野は飲みかけのコーヒーカップをソーサーに戻し、居住まいを正して、真剣な瞳をヘンリーに向けた。
「何?」
「父や飛鳥に……、兄に、つけている護衛は何のためですか? デヴィについているのとは別者でしょう? 父や兄は、又、危険なことに巻き込まれているのですか?」
「マクレガーや、マーカスのこと?」
 ヘンリーは微笑を絶やすことなく訊き返した。吉野は膝の上で拳を握り締め、その顔を見据えている。
「いいえ、父と兄に二人一組で、父の方が、金髪と黒髪、どちらも背が高い。一人は痩せ形の三十代くらいの男です。もう一人はもっと若い、」


 ヘンリーの高らかな笑い声に中断され、吉野は怪訝そうな顔で言葉を止めた。

「聞いたかい、アーニー? MI6の動きが素人に筒抜けだなんて! きみ、凄いね。どうして気づいたの?」
「俺の町内のことだろ? 不審な外国人がいたら、みんなすぐに教えてくれるよ!」

 いきなり笑われ、その上、馬鹿にしているような問い掛けだ。吉野は反射的に、怒気を含ませた早口で応えていた。

「ああ、本当だ。きみ、まだインド訛りが抜けていないね」

 だが返ってきたのは、人を喰ったそんな台詞で、カッとした吉野は拳を握りしめて勢い良く席を立ち、ぎっとヘンリーを睨みつけた。

 ヘンリーはやっと笑いを収め、代わりに優雅な微笑を口許に湛えて「失礼。でも、これくらいで怒っちゃ駄目だよ。僕はまだきみの質問に答えていないだろう? 怒りを表すのは、欲しい答えを手に入れてからにするといい」と指先でテーブルをトンッと叩き、吉野に座るように促した。

 その横でアーネストは、そんな二人に動じることもなく、静かにお茶を飲んでいた。






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