胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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二章

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 神社での用事を中断して自宅に戻ってきた吉野は、居間に入り一番にクーラーをつけた。デヴィッドは、早速ジャケットを脱ぎ、ネクタイを外し、カッターシャツまで脱ぎ始めている。
「死ぬかと思った! 死因は銃弾じゃなくて熱中症!」
 防弾チョッキを叩きつけるように脱ぎ捨てて、クーラーの真下に立って大きく腕を広げる。

 邪魔!

 吉野はそう言いかけて、真っ白なデヴィッドの背中の一部が熱を持ったように赤く染まっているのに気がついた。台所へ行き、保冷材と固く絞った濡れタオルを取ってくる。

「ほら、これで冷やせよ」
「ヨシノ、優しいね~」
 振り返ったデヴィッドが、猫の目のように色の変わるヘーゼルの瞳を嬉しそうに深い緑色に変えて笑うので、吉野は何故か意地悪な気持ちになって、赤くなった背中に冷えた保冷材をべたっとくっつけてやった。
 びくっと飛び上がるその両肩に、吉野もやっと緊張がほぐれて、くくっと笑う。



 他の三人も着替え終わって次々と居間に下りて来た。
 アルバートが吉野にもわかるように事情を説明してくれた。やはり連日ニュースでやっていた金融危機が原因らしい。


 アメリカでは倒産の恐れのある銀行を政府が介入して救うという話が進んでいる。同じように英国でも、破綻しかかっている銀行を国がなんとかしろ、と金融政策に発言力のあるデヴィッドの父親に、脅しとかなりの圧力がかかっているとのことだった。

「つまり、デヴィの誘拐目的だったってこと?」
 吉野は大して驚きもせずに平然と訊き返した。
「それとも単に脅し?」

「脅しでしょうね。スナイパーも三流だったようですし」
 ウィリアムの言葉に、デヴィッドは、「マーレイも落ちぶれたね~、こんな所でケチっているようじゃ、いよいよ駄目だね~」と人ごとのようにけらけらと笑う。

「それで、いつまで厳戒態勢? 三流で失敗したから次は一流が来るとかにはならないの?」
 先ほどまで命を狙われていたのにどこか緊張感のない面々に、吉野はイラつきながら眉をひそめる。デヴィッドはあくまで平然とした面持ちで、緊張感など欠片もないのんびりした口調で答えた。
「どうだろうねぇ。もともと一週間か、十日か、それくらいでカタがつくって言われていたんだけどねぇ。もう、平気だと思うよ。スナイパー捕まえたし、これで秘密情報部SISも動けるだろうしね」

 なら、初めっからそっちに頼めよ。

 と、ばかりに苛立ちを募らせている吉野の表情を読んでいるかのように、デヴィッドは上目遣いに彼を見て機嫌を取る様に謝った。

「ごめんねぇ、ヨシノ。日本の警察に言っちゃうと生活し辛くなると思って~。SISも、介入してくれるかどうか、いまいち掴めなくてねぇ。なんせ、情報部だからさぁ……。でも、アメリカもかんでいるっぽいこともわかったしね。これからは警護を頼めるからね~」

 我儘なデヴィッドが、国の機関を頼ることを躊躇しているのに驚いて、

 こいつ、やっぱ、政治家の子どもなんだ――。

 と、吉野は今までとは違った目でデヴィッドをしげしげと眺めた。

 こいつだけは違うって思っていたのに、まさかの胡散臭さ一番の親玉クラスだなんてな。

 自分の人を見る目のなさにがっかりしながら、「まぁ、日本の警察は何か起こってからじゃないと何もしてくれないしな」と全く警察が頼りにならなかった飛鳥の時のことを思い出して、吉野は薄ら笑いを浮かべた。
「日本での警備って大変だよな。狙われているの判っていても、武器は携帯できないし……。相手は銃を持っているってのに不公平だよな」

 もっとも、銃がなくったって平気で反撃できるやつもいる――。

 吉野はチラリとウィリアムに目をやる。

「日本の法律ってよく判らないよなぁ。狩猟ハンティングにも、銃の保有にも免許や許可書がいるのに、西洋では狩猟に使われているクロスボウには、なんの規制もないなんてな」
「それだけ日本は平和ってことですよ」
 吉野の挑みかかるような瞳をウィリアムはにっこりと微笑んで受けとめる。もちろん自分にあてこすっての発言だということは重々承知の上だ。続きを促すように軽く頷いてみせる。

「俺、殺し屋より、あんたの使ってるクスリの方がよっぽど怖いよ。あの矢尻、何か塗ってあるんだろ? それとも麻酔弾? それ、日本じゃ麻薬指定だから。頼むから、うちから麻薬所持で捕まるようなマネしないでくれよ」
 ウィリアムは可笑しそうに声を立てて笑った。
「大丈夫ですよ。日本で使われているものとは成分が違いますから。法には触れませんよ。それにしてもよく気がつきましたね?」
「当然だろ。殺す気がないんなら、銃を持っている相手にクロスボウじゃ勝算が低すぎるだろ?…………。ゲームでよくあるんだよ。こういうパターン」
 吉野はウィリアムから視線を逸らせ、俯いて黙りこくる。誰もが吉野の次の言葉を待って、何もしゃべらない。

 しんと沈黙の支配する中、吉野は顔を上げ、ウィリアムを真っ直ぐに見つめ、やっと一番の気がかりを口に出した。

「飛鳥は、知っているの?」
「デヴィッドさまに嫌がらせがあるかも知れないことは、伝えています」
「今日のことは、話すの?」
「どうして欲しいですか?」
「言わないで欲しい。もう二度と、飛鳥に怯えて暮らすような毎日は過ごさせたくない」
「わかりました。私も同意見です」

 ウィリアムは同意を求めるようにデヴィッドに視線を向ける。やはりこの連中の中での親玉はこいつなのだ、と吉野は改めて納得し、不安を押し隠しながら視線を据える。彼が当然のように頷いたので、吉野はほっと息を吐く。


「くしゅんっ!」
 デヴィッドの大きなくしゃみに吉野は笑って、「いい加減に服着ろよ。それじゃ冷えすぎだろ?」と言うと、「ではお茶にしますか。熱いのを淹れてきますよ」ビルがいつもの不愛想な面を崩して、笑いながら立ち上がった。

「レディ・グレイ」
 シャツに袖を通しながら、デヴィッドはそのがっしり背中に言葉を投げかける。
「了解」
 ビルは振り返らずに腕だけ伸ばして、親指を立てた。






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