胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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二章

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「吉野?」
 父のデスクについて書き物をしている背中に、ベッドで寝ていた飛鳥は、ぼんやりとしたまま声を掛けた。
 振り向いた吉野は立ち上がり、飛鳥に向かって手を差し伸べる。
「ほら」
「うん」

 その手を掴んで身体を起こし、飛鳥はベッドに腰かけぶんぶんと首を振る。
「しゃっきっとしないと……」
「じきに墓参りに行くから。先に風呂入って軽く何か食って」
「うん」
「それから、今日は居間で寝ろ。大体、飛鳥がクーラーのない俺の部屋で眠るのは無理なんだって。意地張るなよ。却ってみんな心配するだろ」

 毎夜寝苦しそうな様子の飛鳥に居間で眠るように言っても、皆が出入りする場所だから、と言うことを聞かなかった。だから昨夜は、どうせ眠れないのなら、と吉野は就寝直前までしていた仕事の続きをしよう、と兄を誘い、クーラーの効いた居間で飛鳥が疲れて眠りこけるまで付き合っていたのだ。体力もない癖に意地っ張りな兄には、もっと現実を自覚してもらわなければ困るのだ。

「うん」
 飛鳥も今度は素直に頷いた。
「全く、そんなんでよくイギリスで寮暮らしできたな」
「向こうは涼しいんだよ……」

 飛鳥は吉野に摑まり、重い身体を引き上げるようにして立ち上がった。だが眉をしかめたまま、また、吉野の肩に額をこつんともたせ掛ける。

「計算式は?」
「ちゃんとやったから。しゃきっと目が覚めたら教えてやる」
「ありがとう、吉野」

 顔を起こすだけの元気もなかったが、微笑んでいた。縋るように弟の頭に回した手で、くしゃくしゃとそのまま撫でてやった。「よせよ」と、吉野はわざと膨れっ面をして頭を振る。




 風呂上がりの濡れた黒髪を掻き上げて、飛鳥は自分の前に置かれた素麺の鉢を眺め、向いに座る吉野を不思議そうに見つめていた。

「なんでこんなに沢山、胡瓜の切りカスみたいなのがのっているの?」
「ん? まあいいから、さっさと食えよ」
「みんなは?」
「出かけた」

 吉野が黙ると、しんと静寂に包まれる。決して重くはない沈黙。安心できる、何も強制することのない、懐かしく、優しい静けさだ。飛鳥は、素麺を食べながら久しぶりにのんびりした気分に浸っていた。

「吉野は、結構平気なんだね。僕だけがおたおたしているみたいだよ」
「慣れているもの、他人の中で暮らすの」

 平然と答える吉野に、飛鳥はすっ、と顔を曇らせる。


 母が入院してから、吉野はしょっちゅうご近所さんや友達の家に世話になっていた。ただ世話になるだけではなく、その家を手伝い家事を覚え、小学生の低学年の頃には、家の中のかなりの部分をこなしてくれていたのだ。


「ごめん、吉野」
「飛鳥は気を使いすぎだよ。俺、別に辛い思いとかしてないから。みんなに可愛がってもらってたし、好きな事もやらせてもらってた」

 吉野を一人で留守番させなくてもいいように、夜七時まである週三回のスイミングスクールに入れていた。それでも迎えに行くのが間に合わなくて、一緒に通っていた友達の家で待たせて貰うことが、頻繁にあった。飛鳥の脳裏には、文句の一つも言わずに我慢強く自分を待ってくれている幼い弟の姿が焼きついている。


「ごめん。今もお前にばかり負担をかけている。何も言わずに勝手に決めてごめんな」
「別に飛鳥と父さんがそれでいいなら構わないよ。それに、アルは結構使えるよ。日本語も上手いし。今日も大分手伝ってもらった」
「アルって?」
「アルバート・マクレガー。いくら飛鳥でも、さすがに名前くらい覚えとけよ」
「吉野、『使える』はないだろ? マクレガーさんはエリオットからケンブリッジ大卒の超エリートだよ。その後、一年間ロンドンの執事養成コースを受けているんだ」
「なんでそんなエリートが執事なんて兼ねるの?」
「秘書の知識だけじゃ務まらないらしいんだよ。公私の部分が曖昧なんだって」
「でもそれじゃあ、二十四時間休む間なしだな。まぁ、判らないでもないよ。飛鳥みたいなのの秘書になったら、三食食べさせることと、睡眠を取らせることに一番気を遣うだろうしな」

 食べ終わった飛鳥に吉野はコーヒーを淹れ、回復している兄の顔色に安堵の微笑を浮かべた。

「それを飲んだら行こうか。父さん、呼んで来るよ」




 迎え火の火種をいただきに、親子三人で日が傾き影が伸びきった夕方、菩提寺の墓地に向かった。
 供花をし、墓前で父が火を焚いた。その火を持参した蝋燭と線香の束に点ける。父から順番に墓前に手を合わせ、お参りする。蝋燭の火を消さないように気をつけながら提灯に移し、帰路に着く。三人とも言葉少なだった。茜色に染まりかけた頭上から、ひぐらしの声が流れる水のように降り注いでいた。


 帰宅して居間に入り、提灯の火を精霊棚の前に置かれた仏具の蝋燭に移す。お迎えの儀式を無事終えて、飛鳥はほっと息をつく。何気なく精霊棚を眺めると、ハスの葉を下に敷いた水の子や、果物、迎え団子と一緒に供えられた中に、見事に細工された胡瓜の精霊馬と茄子の精霊牛があった。
 飛鳥の口から思わず笑みがこぼれる。


「今年の馬と牛は、また、いつも以上に凝っているね、吉野」
 ぐいっと反り返るように曲がった胡瓜は、トウモロコシのひげで出来たたてがみやしっぽまでが付けられ、割り箸で作られた長い脚で立っていた。顔や耳が彫刻され、馬具まで付け加えられている。

「デヴィッドだよ。あいつ、器用だな」
 提灯の火を消し、棚の上部に掛けながら吉野も笑っている。
「この茄子の牛も可愛い。どっちも手綱と鞍が付いているんだね」
 飛鳥はクスクス笑いながら、そっと精霊牛の紫の背を撫でてみる。

「それで素麺にあんなに胡瓜が入っていたんだ?」
「当たり。失敗作のお片付けだよ」
「茄子は出なかったの?」
「煮物に入れた」

 飛鳥は声を立てて笑った。こんな立派な胡瓜の馬でお迎えに来られたら、祖父も、母もきっと驚くに違いない、と。

「今年のお盆は賑やかだなぁ。お祖父ちゃんも、母さんも、きっと喜んでいるよ」

 畳に胡坐をかいて座っていた杜月氏も、同じことを考えていたらしい。二人を見上げて緩やかに微笑んでいる。



 携帯の着信音が鳴り響く。

 カーゴパンツのポケットから携帯を取り出しメールを確認した吉野は、「あいつら、そろそろ帰って来るって。夕飯の準備をするよ」と、台所に行きかけて、急にくるりと振り返ると手招きして飛鳥を呼んだ。

「手伝えよ」
 当前のようなその口調に、飛鳥は嬉しそうに立ち上がった。


 そんな二人を見送ってから、杜月氏は静かな笑みを浮かべて視線を仏壇へと移し、黒く縁取られた妻の遺影をじっと眺めていた。






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