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二章
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「何をしているのですか?」
ウィリアムは吉野の手元を背後から覗き込んで訊ねた。もちろん何をしているかは見れば判る。吉野はもの凄い速さで図面に数字を書き込んでいる。それだけだ。だが、彼にはその数字の意味が判らなかったのだ。厳密に言えば、その数字が導き出される根拠が判断つかなかった。
「見るなよ。企業秘密だ」
吉野は顔も上げず、シャープペンシルを走らせながら答えた。
「それなら、きみも見るな。その図面はコズモスから送られてきたものだ」
その冷ややかな言い草に吉野はイラッと頭を上げ、ウィリアムを睨め付ける。
「これはうちのガラスの図面だろ?」
「もうコズモスのものだ」
手の中のシャープペンシルをぐっと握りしめ、吉野は眉根を寄せた。ウィリアムの明るい緑の瞳は、どんな感情ものせない。そんな相手に文句を言ったところで何になる、とそんな疑念は常にあるのに、言葉は意志に反して突いて出ていた。
「あんた、俺に喧嘩売ってんの? なら、こんなことくらい自分たちでやれよ。飛鳥を使うな」
「こんなことって? 先ほどからその事を訊いているんだよ?」
吉野はむすっとした態度で黙り込み、そっと膝の上の飛鳥の頭を床に下ろした。替わりに座布団を折り曲げてその下に差し入れ、「起こすなよ。ずっと寝不足で疲れているんだ」と言い捨てて立ち上がる。そして、ウィリアムを一瞥することもなく居間を出ていった。
デヴィッド様が来てから四日目か……。ますます彼との間はこじれて難しくなっている……。
ウィリアムは苦笑して小さくため息を吐いた。
あんな子どもにムキになって、振り回されているなんて……。
全く我ながら情けない、と思う反面、面白くもあった。今まで深く係った日本人が飛鳥だけだったので、日本人とは、皆、飛鳥のように大人しくて優しい、静かな国民性なのだという先入観があった。そしてその思い込みはあながち外れていないように思える。彼を除いては。
飛鳥の弟が、こんなにも鼻っ柱が強く、平然とものを言う恐いもの知らずとは、思いもよらなかったが。問題は、吉野ではなく飛鳥の方だ。飛鳥の、弟に対する依存度の高さを見るにつけ、ウィリアムは人知れず顔をしかめている。
ヘンリー様は、飛鳥の不規則な食事や睡眠に、とても気を使っていらしたのに……。と、ウィリアムは今更ながらに、深くため息を吐かずにはいられなかった。
何のことはない、飛鳥は母親の残したレシピ通りに作る、吉野の料理にしか興味を示さないのだ。それ以外に彼に沿う好みというものなどない、と思えるほどに。毎日の食事が栄養剤であっても、彼はおそらく文句を言うことなく受け入れるだろう。なぜこんな歪な生活習慣が出来てしまったのか。その原因は吉野にある、とウィリアムは推察している。このところ打ち込んでいる『杜月』の仕事中でも、飛鳥は食事も睡眠も、吉野の言う事なら素直に聞くのだ。吉野が完璧に管理してきたから、彼はあそこまで自身の生活に無頓着になった、と言えるのではないか、と。
「朝食は、どうされますか?」
台所からマクレガーが顔を覗かせている。
ウィリアムは立ち上がると、畳に寝転がってすやすやと眠る飛鳥の傍を、足音を忍ばせてそっと通り抜けた。
「ええ、いただきます」
「なかなか、ヨシノくんのようにはいきませんが」
「彼の料理の腕前には驚かされますね」
「全くです」
二人は顔を見合わせて笑い合うと、何日かぶりのイギリス式の食卓に着いた。
飛鳥が目を覚ました時には、横で父が図面に目を通していた。
「おはよう」
「おはよう、て時間でもないのかな?」と、飛鳥は寝ぼけた顔で起き上がり、まず父を見、それから図面に視線を落とす。
「吉野は?」
「買い物に行っているよ」
「何時?」
「そろそろ十一時だな」
顔を押さえて、飛鳥はしまった、とため息を漏らす。
「寝すぎた……。今日からお盆なのに」
「もう準備してくれているよ。ほら」
父の視線を追って仏壇に目をやると、すでに精霊棚が組まれていた。畳の上敷きが掛けられ、四隅に笹が立てられている。
姿勢を正し、安置されている祖父と母の位牌に手を合わせると、飛鳥は優しい笑みを湛えて父を振り返る。
「吉野は、いい子に育ってくれたね」
「ただいま」
声と同時に、玄関先からどっと笑い声が聞こえてきた。
「おかえり!」
「飛鳥、起きた?」
買い物袋を抱えた吉野たちが、ガヤガヤと楽し気に居間に入ってきた。
吉野は袋から茄子と胡瓜を出して座卓に置くと、台所から爪楊枝を取って来た。マクレガーは残りの食材を抱えて入れ替わり、道々吉野に教わったお昼の準備に取り掛かる。
「あいつらに精霊馬の話をしていたんだ。馬と牛、デヴィに教えてやって。デヴィが作ってみたいって」
「その前にシャワーを浴びて来ていいかな? 本当に今、起きたところなんだ」
飛鳥が見上げると、デヴィッドは軽く頷いて承諾する。
「じゃ、ちょっと待っていて。急いで済ますから」
飛鳥が立ち上ると同時に、吉野は慌ててその腕を掴んだ。
「ほら、立ち眩み。気をつけろよ」
「ありがとう、吉野」
飛鳥は吉野の肩に額を凭せ掛け、大きく肩で息をしている。
「やっぱりもう少し寝ていろ」
「大丈夫」
「いいから寝ていろ。父さんの部屋、使うよ」
吉野は、返事も聞かずに飛鳥の腕を掴み、部屋から引っ張っていった。
「アスカちゃんは働きすぎだよ」
ぽつんと呟いたデヴィッドに、「ああ」と杜月氏も困ったように頷き、おもむろに無造作に置かれた胡瓜のひとつに手を伸ばした。
「じゃあ、私と精霊馬を作ろうか。いつも飛鳥と吉野にまかせていたからな、上手くできるかな? 吉野が作ると毎回変な細工を入れるんだ。今年はオーソドックスなやつにしよう」
「変な細工って?」
「写真を見るかい?」
目を輝かせているデヴィッドの意を汲んで、杜月氏は笑いながら立ち上がった。
ウィリアムは吉野の手元を背後から覗き込んで訊ねた。もちろん何をしているかは見れば判る。吉野はもの凄い速さで図面に数字を書き込んでいる。それだけだ。だが、彼にはその数字の意味が判らなかったのだ。厳密に言えば、その数字が導き出される根拠が判断つかなかった。
「見るなよ。企業秘密だ」
吉野は顔も上げず、シャープペンシルを走らせながら答えた。
「それなら、きみも見るな。その図面はコズモスから送られてきたものだ」
その冷ややかな言い草に吉野はイラッと頭を上げ、ウィリアムを睨め付ける。
「これはうちのガラスの図面だろ?」
「もうコズモスのものだ」
手の中のシャープペンシルをぐっと握りしめ、吉野は眉根を寄せた。ウィリアムの明るい緑の瞳は、どんな感情ものせない。そんな相手に文句を言ったところで何になる、とそんな疑念は常にあるのに、言葉は意志に反して突いて出ていた。
「あんた、俺に喧嘩売ってんの? なら、こんなことくらい自分たちでやれよ。飛鳥を使うな」
「こんなことって? 先ほどからその事を訊いているんだよ?」
吉野はむすっとした態度で黙り込み、そっと膝の上の飛鳥の頭を床に下ろした。替わりに座布団を折り曲げてその下に差し入れ、「起こすなよ。ずっと寝不足で疲れているんだ」と言い捨てて立ち上がる。そして、ウィリアムを一瞥することもなく居間を出ていった。
デヴィッド様が来てから四日目か……。ますます彼との間はこじれて難しくなっている……。
ウィリアムは苦笑して小さくため息を吐いた。
あんな子どもにムキになって、振り回されているなんて……。
全く我ながら情けない、と思う反面、面白くもあった。今まで深く係った日本人が飛鳥だけだったので、日本人とは、皆、飛鳥のように大人しくて優しい、静かな国民性なのだという先入観があった。そしてその思い込みはあながち外れていないように思える。彼を除いては。
飛鳥の弟が、こんなにも鼻っ柱が強く、平然とものを言う恐いもの知らずとは、思いもよらなかったが。問題は、吉野ではなく飛鳥の方だ。飛鳥の、弟に対する依存度の高さを見るにつけ、ウィリアムは人知れず顔をしかめている。
ヘンリー様は、飛鳥の不規則な食事や睡眠に、とても気を使っていらしたのに……。と、ウィリアムは今更ながらに、深くため息を吐かずにはいられなかった。
何のことはない、飛鳥は母親の残したレシピ通りに作る、吉野の料理にしか興味を示さないのだ。それ以外に彼に沿う好みというものなどない、と思えるほどに。毎日の食事が栄養剤であっても、彼はおそらく文句を言うことなく受け入れるだろう。なぜこんな歪な生活習慣が出来てしまったのか。その原因は吉野にある、とウィリアムは推察している。このところ打ち込んでいる『杜月』の仕事中でも、飛鳥は食事も睡眠も、吉野の言う事なら素直に聞くのだ。吉野が完璧に管理してきたから、彼はあそこまで自身の生活に無頓着になった、と言えるのではないか、と。
「朝食は、どうされますか?」
台所からマクレガーが顔を覗かせている。
ウィリアムは立ち上がると、畳に寝転がってすやすやと眠る飛鳥の傍を、足音を忍ばせてそっと通り抜けた。
「ええ、いただきます」
「なかなか、ヨシノくんのようにはいきませんが」
「彼の料理の腕前には驚かされますね」
「全くです」
二人は顔を見合わせて笑い合うと、何日かぶりのイギリス式の食卓に着いた。
飛鳥が目を覚ました時には、横で父が図面に目を通していた。
「おはよう」
「おはよう、て時間でもないのかな?」と、飛鳥は寝ぼけた顔で起き上がり、まず父を見、それから図面に視線を落とす。
「吉野は?」
「買い物に行っているよ」
「何時?」
「そろそろ十一時だな」
顔を押さえて、飛鳥はしまった、とため息を漏らす。
「寝すぎた……。今日からお盆なのに」
「もう準備してくれているよ。ほら」
父の視線を追って仏壇に目をやると、すでに精霊棚が組まれていた。畳の上敷きが掛けられ、四隅に笹が立てられている。
姿勢を正し、安置されている祖父と母の位牌に手を合わせると、飛鳥は優しい笑みを湛えて父を振り返る。
「吉野は、いい子に育ってくれたね」
「ただいま」
声と同時に、玄関先からどっと笑い声が聞こえてきた。
「おかえり!」
「飛鳥、起きた?」
買い物袋を抱えた吉野たちが、ガヤガヤと楽し気に居間に入ってきた。
吉野は袋から茄子と胡瓜を出して座卓に置くと、台所から爪楊枝を取って来た。マクレガーは残りの食材を抱えて入れ替わり、道々吉野に教わったお昼の準備に取り掛かる。
「あいつらに精霊馬の話をしていたんだ。馬と牛、デヴィに教えてやって。デヴィが作ってみたいって」
「その前にシャワーを浴びて来ていいかな? 本当に今、起きたところなんだ」
飛鳥が見上げると、デヴィッドは軽く頷いて承諾する。
「じゃ、ちょっと待っていて。急いで済ますから」
飛鳥が立ち上ると同時に、吉野は慌ててその腕を掴んだ。
「ほら、立ち眩み。気をつけろよ」
「ありがとう、吉野」
飛鳥は吉野の肩に額を凭せ掛け、大きく肩で息をしている。
「やっぱりもう少し寝ていろ」
「大丈夫」
「いいから寝ていろ。父さんの部屋、使うよ」
吉野は、返事も聞かずに飛鳥の腕を掴み、部屋から引っ張っていった。
「アスカちゃんは働きすぎだよ」
ぽつんと呟いたデヴィッドに、「ああ」と杜月氏も困ったように頷き、おもむろに無造作に置かれた胡瓜のひとつに手を伸ばした。
「じゃあ、私と精霊馬を作ろうか。いつも飛鳥と吉野にまかせていたからな、上手くできるかな? 吉野が作ると毎回変な細工を入れるんだ。今年はオーソドックスなやつにしよう」
「変な細工って?」
「写真を見るかい?」
目を輝かせているデヴィッドの意を汲んで、杜月氏は笑いながら立ち上がった。
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