胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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二章

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「随分遅かったな」
 0時を回ってやっと帰宅した飛鳥を、吉野はしかめっ面で出迎えた。
「父さんは?」
「まだ終わらないんだ。今日は工場に泊まるって」
「またトラブル?」
「まあね。でも心配いらないよ」

 もう慣れた……、こんな事ばっかりだ、と吉野はうんざりした顔をしながら湯を沸かし、慣れた手つきでコーヒーを淹れる。

「また行くの?」
 兄に背中を向けたまま、吉野は淡々と訊ねる。
「今日はもう行かないよ」
 飛鳥はくたびれきった声で答えた。

「いい匂い」
 コーヒーカップを受け取り、「むこうじゃ紅茶ばかり飲んでたからさ、お前のコーヒーが懐かしかったよ」と飛鳥は嬉しそうに微笑んでいる。吉野も自分のカップを手にその向かいに腰を下ろした。

「夕飯はちゃんと食べた? ウィルはもう寝ているの?」
「たぶん。飯はあいつにどっかのホテルのフレンチに連れていかれた。俺がまともなマナーで食えるかどうか見たいからって」
 人心地がついた飛鳥が思いだしたように訊ねると、今度は吉野の方が、もう怒る気力もなさそうな疲れた声で応じた。
「エリオットのスカラーの飯は、三ツ星のシェフが作る正規のディナーなんだって。なんであいつ、こんないちいち煩いの?」

 飛鳥は何と答えていいのか迷いながら苦笑し、「生き易くするためだよ。お前のためだ」と、優しいいたわるような瞳で吉野を見つめる。
「英国は階級社会だから、まず発音で、次に服装や所作で階級を判断されるんだ。だから僕も、初日にヘンリーに言われたよ。
 Hold your head up high.
 頭を高く上げろ。堂々と誇り高く振るまえ、ってね。学校の中でさえ、一部の上流階級アッパークラスは、僕たちみたいな労働者階級ワーキングクラスとは口を利こうとすらしないからね」
「ヘンリーてやつは貴族なんだろ? あいつは?」
「ウィル?」
 吉野が頷くと、今度こそ飛鳥は困ったような顔をした。
「彼は、その、貴族ではないよ」
「じゃ、労働者階級?」
「ごめん。なんて答えていいのか判らない」視線を逸らして、コーヒーを口に運ぶ。

 吉野は、そんな兄をじっと睨みつけるように見つめ、「なんで外国資本に特許を売ったの? あんなに嫌がっていたのに」と、ずっと心を占めていた疑念をようやく口にする。
「空中映像の特許、なんで売ったの? せっかく完成したのに。あの出来なら外資に売らなくたって済んだんじゃないの?」
「あの出来って、お前、動画を見たの?」
「何度も繰り返し見たよ。ダウンロードして保存してある」
「見せて! あの動画、すぐに削除されて僕は見ていないんだよ」




 二階の吉野の部屋に行き、パソコンの電源を入れる。飛鳥は短い動画を何度も再生して食い入るように見つめ、しばらくしてやっと画面を停止させると、深くため息をついた。無意識に画面に向かって呟いていた。

「やっぱり、きみはすごいな。ヘンリー……」

 それからきちんと姿勢を正し、吉野に向き合った。

「吉野、僕の特許だけじゃ商品にはならなかったんだよ。これをここまで完成させたのは、ヘンリーとコズモス社なんだ。今でも『杜月』のガラスだけでは、商品価値なんてないに等しい。コズモスのデジタル変換装置がないと、こんな鮮明な映像化はできないんだ」
 飛鳥は眉を寄せ、自分をあざ嗤うかのように言葉を継ぐ。
「僕の特許なんて価値はないんだ。ヘンリーは、ただ、僕と『杜月』を助けてくれただけなんだよ」
「なんで?」
 吉野は疑わしそうに顔をしかめる。
「友達だから」
「冗談だろ」
 吐き捨てるように言い、顔を背ける。
「彼は本物のノーブルだから。仲間を命がけで守るのが貴族の義務だって。自分の言葉を守る人なんだよ」


 騙されてる……、飛鳥は馬鹿だから。何億の金が動いていると思っているんだ? 中坊の俺にだって判る話だぞ。それとも道楽で会社ひとつ買えるほど、そいつは金持ちなのか?

 と声に出すことなく悪態をつき、吉野はイライラと親指の爪を噛む。

「吉野、爪」
 飛鳥は腕を伸ばして弟の手を掴み、その癖を止めた。

「お前が心配してくれるのも判るよ。でも、彼に会えば判る。ウィルは彼の部下なんだよ。僕を守るために来てくれてるんだ。グラスフィールド社からどんな逆恨みを受けるか判らないから」
「逆恨み? 恨んでいるのはこっちだろう?」
「裁判とか、うちのガラスの販売差し止め請求とか、いろいろあったからさ……」


 それにおそらく、飛鳥にかかわったせいで退学になった生徒が何人もいることも、飛鳥の心にひっかかっていた。ヘンリーもウィリアムも何も言わない。だが、飛鳥が階段から突き落とされてから状況が一変したのだ。それが偶然とは思えなかった。グラスフィールド社の不正事件が発覚したことさえ、ヘンリーが何か仕掛けたのではないかと思えたほどだ。さすがにそこまでは無いだろうと、打ち消しはしても――。

 どこまでを弟に話すべきかと、飛鳥の脳裏で目まぐるしく過去が交差する。

「特許は外資に売ったんじゃない。ヘンリーにあげたんだよ。彼が僕のために取ってくれたリスクに見合うリターンを、返したかったんだ」

 飛鳥はなんとも言えない表情で、緩く微笑んだ。吉野は、そんな兄を訝し気に眺めながらも、もう、それ以上何も訊ねなかった。




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