75 / 745
二章
6
しおりを挟む
「随分遅かったな」
0時を回ってやっと帰宅した飛鳥を、吉野はしかめっ面で出迎えた。
「父さんは?」
「まだ終わらないんだ。今日は工場に泊まるって」
「またトラブル?」
「まあね。でも心配いらないよ」
もう慣れた……、こんな事ばっかりだ、と吉野はうんざりした顔をしながら湯を沸かし、慣れた手つきでコーヒーを淹れる。
「また行くの?」
兄に背中を向けたまま、吉野は淡々と訊ねる。
「今日はもう行かないよ」
飛鳥はくたびれきった声で答えた。
「いい匂い」
コーヒーカップを受け取り、「むこうじゃ紅茶ばかり飲んでたからさ、お前のコーヒーが懐かしかったよ」と飛鳥は嬉しそうに微笑んでいる。吉野も自分のカップを手にその向かいに腰を下ろした。
「夕飯はちゃんと食べた? ウィルはもう寝ているの?」
「たぶん。飯はあいつにどっかのホテルのフレンチに連れていかれた。俺がまともなマナーで食えるかどうか見たいからって」
人心地がついた飛鳥が思いだしたように訊ねると、今度は吉野の方が、もう怒る気力もなさそうな疲れた声で応じた。
「エリオットのスカラーの飯は、三ツ星のシェフが作る正規のディナーなんだって。なんであいつ、こんないちいち煩いの?」
飛鳥は何と答えていいのか迷いながら苦笑し、「生き易くするためだよ。お前のためだ」と、優しいいたわるような瞳で吉野を見つめる。
「英国は階級社会だから、まず発音で、次に服装や所作で階級を判断されるんだ。だから僕も、初日にヘンリーに言われたよ。
Hold your head up high.
頭を高く上げろ。堂々と誇り高く振るまえ、ってね。学校の中でさえ、一部の上流階級は、僕たちみたいな労働者階級とは口を利こうとすらしないからね」
「ヘンリーてやつは貴族なんだろ? あいつは?」
「ウィル?」
吉野が頷くと、今度こそ飛鳥は困ったような顔をした。
「彼は、その、貴族ではないよ」
「じゃ、労働者階級?」
「ごめん。なんて答えていいのか判らない」視線を逸らして、コーヒーを口に運ぶ。
吉野は、そんな兄をじっと睨みつけるように見つめ、「なんで外国資本に特許を売ったの? あんなに嫌がっていたのに」と、ずっと心を占めていた疑念をようやく口にする。
「空中映像の特許、なんで売ったの? せっかく完成したのに。あの出来なら外資に売らなくたって済んだんじゃないの?」
「あの出来って、お前、動画を見たの?」
「何度も繰り返し見たよ。ダウンロードして保存してある」
「見せて! あの動画、すぐに削除されて僕は見ていないんだよ」
二階の吉野の部屋に行き、パソコンの電源を入れる。飛鳥は短い動画を何度も再生して食い入るように見つめ、しばらくしてやっと画面を停止させると、深くため息をついた。無意識に画面に向かって呟いていた。
「やっぱり、きみはすごいな。ヘンリー……」
それからきちんと姿勢を正し、吉野に向き合った。
「吉野、僕の特許だけじゃ商品にはならなかったんだよ。これをここまで完成させたのは、ヘンリーとコズモス社なんだ。今でも『杜月』のガラスだけでは、商品価値なんてないに等しい。コズモスのデジタル変換装置がないと、こんな鮮明な映像化はできないんだ」
飛鳥は眉を寄せ、自分をあざ嗤うかのように言葉を継ぐ。
「僕の特許なんて価値はないんだ。ヘンリーは、ただ、僕と『杜月』を助けてくれただけなんだよ」
「なんで?」
吉野は疑わしそうに顔をしかめる。
「友達だから」
「冗談だろ」
吐き捨てるように言い、顔を背ける。
「彼は本物のノーブルだから。仲間を命がけで守るのが貴族の義務だって。自分の言葉を守る人なんだよ」
騙されてる……、飛鳥は馬鹿だから。何億の金が動いていると思っているんだ? 中坊の俺にだって判る話だぞ。それとも道楽で会社ひとつ買えるほど、そいつは金持ちなのか?
と声に出すことなく悪態をつき、吉野はイライラと親指の爪を噛む。
「吉野、爪」
飛鳥は腕を伸ばして弟の手を掴み、その癖を止めた。
「お前が心配してくれるのも判るよ。でも、彼に会えば判る。ウィルは彼の部下なんだよ。僕を守るために来てくれてるんだ。グラスフィールド社からどんな逆恨みを受けるか判らないから」
「逆恨み? 恨んでいるのはこっちだろう?」
「裁判とか、うちのガラスの販売差し止め請求とか、いろいろあったからさ……」
それにおそらく、飛鳥にかかわったせいで退学になった生徒が何人もいることも、飛鳥の心にひっかかっていた。ヘンリーもウィリアムも何も言わない。だが、飛鳥が階段から突き落とされてから状況が一変したのだ。それが偶然とは思えなかった。グラスフィールド社の不正事件が発覚したことさえ、ヘンリーが何か仕掛けたのではないかと思えたほどだ。さすがにそこまでは無いだろうと、打ち消しはしても――。
どこまでを弟に話すべきかと、飛鳥の脳裏で目まぐるしく過去が交差する。
「特許は外資に売ったんじゃない。ヘンリーにあげたんだよ。彼が僕のために取ってくれたリスクに見合うリターンを、返したかったんだ」
飛鳥はなんとも言えない表情で、緩く微笑んだ。吉野は、そんな兄を訝し気に眺めながらも、もう、それ以上何も訊ねなかった。
0時を回ってやっと帰宅した飛鳥を、吉野はしかめっ面で出迎えた。
「父さんは?」
「まだ終わらないんだ。今日は工場に泊まるって」
「またトラブル?」
「まあね。でも心配いらないよ」
もう慣れた……、こんな事ばっかりだ、と吉野はうんざりした顔をしながら湯を沸かし、慣れた手つきでコーヒーを淹れる。
「また行くの?」
兄に背中を向けたまま、吉野は淡々と訊ねる。
「今日はもう行かないよ」
飛鳥はくたびれきった声で答えた。
「いい匂い」
コーヒーカップを受け取り、「むこうじゃ紅茶ばかり飲んでたからさ、お前のコーヒーが懐かしかったよ」と飛鳥は嬉しそうに微笑んでいる。吉野も自分のカップを手にその向かいに腰を下ろした。
「夕飯はちゃんと食べた? ウィルはもう寝ているの?」
「たぶん。飯はあいつにどっかのホテルのフレンチに連れていかれた。俺がまともなマナーで食えるかどうか見たいからって」
人心地がついた飛鳥が思いだしたように訊ねると、今度は吉野の方が、もう怒る気力もなさそうな疲れた声で応じた。
「エリオットのスカラーの飯は、三ツ星のシェフが作る正規のディナーなんだって。なんであいつ、こんないちいち煩いの?」
飛鳥は何と答えていいのか迷いながら苦笑し、「生き易くするためだよ。お前のためだ」と、優しいいたわるような瞳で吉野を見つめる。
「英国は階級社会だから、まず発音で、次に服装や所作で階級を判断されるんだ。だから僕も、初日にヘンリーに言われたよ。
Hold your head up high.
頭を高く上げろ。堂々と誇り高く振るまえ、ってね。学校の中でさえ、一部の上流階級は、僕たちみたいな労働者階級とは口を利こうとすらしないからね」
「ヘンリーてやつは貴族なんだろ? あいつは?」
「ウィル?」
吉野が頷くと、今度こそ飛鳥は困ったような顔をした。
「彼は、その、貴族ではないよ」
「じゃ、労働者階級?」
「ごめん。なんて答えていいのか判らない」視線を逸らして、コーヒーを口に運ぶ。
吉野は、そんな兄をじっと睨みつけるように見つめ、「なんで外国資本に特許を売ったの? あんなに嫌がっていたのに」と、ずっと心を占めていた疑念をようやく口にする。
「空中映像の特許、なんで売ったの? せっかく完成したのに。あの出来なら外資に売らなくたって済んだんじゃないの?」
「あの出来って、お前、動画を見たの?」
「何度も繰り返し見たよ。ダウンロードして保存してある」
「見せて! あの動画、すぐに削除されて僕は見ていないんだよ」
二階の吉野の部屋に行き、パソコンの電源を入れる。飛鳥は短い動画を何度も再生して食い入るように見つめ、しばらくしてやっと画面を停止させると、深くため息をついた。無意識に画面に向かって呟いていた。
「やっぱり、きみはすごいな。ヘンリー……」
それからきちんと姿勢を正し、吉野に向き合った。
「吉野、僕の特許だけじゃ商品にはならなかったんだよ。これをここまで完成させたのは、ヘンリーとコズモス社なんだ。今でも『杜月』のガラスだけでは、商品価値なんてないに等しい。コズモスのデジタル変換装置がないと、こんな鮮明な映像化はできないんだ」
飛鳥は眉を寄せ、自分をあざ嗤うかのように言葉を継ぐ。
「僕の特許なんて価値はないんだ。ヘンリーは、ただ、僕と『杜月』を助けてくれただけなんだよ」
「なんで?」
吉野は疑わしそうに顔をしかめる。
「友達だから」
「冗談だろ」
吐き捨てるように言い、顔を背ける。
「彼は本物のノーブルだから。仲間を命がけで守るのが貴族の義務だって。自分の言葉を守る人なんだよ」
騙されてる……、飛鳥は馬鹿だから。何億の金が動いていると思っているんだ? 中坊の俺にだって判る話だぞ。それとも道楽で会社ひとつ買えるほど、そいつは金持ちなのか?
と声に出すことなく悪態をつき、吉野はイライラと親指の爪を噛む。
「吉野、爪」
飛鳥は腕を伸ばして弟の手を掴み、その癖を止めた。
「お前が心配してくれるのも判るよ。でも、彼に会えば判る。ウィルは彼の部下なんだよ。僕を守るために来てくれてるんだ。グラスフィールド社からどんな逆恨みを受けるか判らないから」
「逆恨み? 恨んでいるのはこっちだろう?」
「裁判とか、うちのガラスの販売差し止め請求とか、いろいろあったからさ……」
それにおそらく、飛鳥にかかわったせいで退学になった生徒が何人もいることも、飛鳥の心にひっかかっていた。ヘンリーもウィリアムも何も言わない。だが、飛鳥が階段から突き落とされてから状況が一変したのだ。それが偶然とは思えなかった。グラスフィールド社の不正事件が発覚したことさえ、ヘンリーが何か仕掛けたのではないかと思えたほどだ。さすがにそこまでは無いだろうと、打ち消しはしても――。
どこまでを弟に話すべきかと、飛鳥の脳裏で目まぐるしく過去が交差する。
「特許は外資に売ったんじゃない。ヘンリーにあげたんだよ。彼が僕のために取ってくれたリスクに見合うリターンを、返したかったんだ」
飛鳥はなんとも言えない表情で、緩く微笑んだ。吉野は、そんな兄を訝し気に眺めながらも、もう、それ以上何も訊ねなかった。
0
お気に入りに追加
19
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
お嬢様、お仕置の時間です。
moa
恋愛
私は御門 凛(みかど りん)、御門財閥の長女として産まれた。
両親は跡継ぎの息子が欲しかったようで女として産まれた私のことをよく思っていなかった。
私の世話は執事とメイド達がしてくれていた。
私が2歳になったとき、弟の御門 新(みかど あらた)が産まれた。
両親は念願の息子が産まれたことで私を執事とメイド達に渡し、新を連れて家を出ていってしまった。
新しい屋敷を建ててそこで暮らしているそうだが、必要な費用を送ってくれている以外は何も教えてくれてくれなかった。
私が小さい頃から執事としてずっと一緒にいる氷川 海(ひかわ かい)が身の回りの世話や勉強など色々してくれていた。
海は普段は優しくなんでもこなしてしまう完璧な執事。
しかし厳しいときは厳しくて怒らせるとすごく怖い。
海は執事としてずっと一緒にいると思っていたのにある日、私の中で何か特別な感情がある事に気付く。
しかし、愛を知らずに育ってきた私が愛と知るのは、まだ先の話。
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる