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二章
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綺麗だ――。
稽古開始前の、道場主でもある師範以外誰もいない的場に一人立つ吉野を眺め、ウィリアムは満足そうに目を細める。
家ではやたらと自分に突っかかってくる、子どもっぽい姿からは想像出来ない落ち着いた弓構えに、自分に見られている事さえ一切忘れている集中力を見て取り、思ったより筋も悪くない、と一人ほくそ笑む。
矢が放たれる。
残心までの一連の動作が流れる様に美しい。似ていない様でも、やはり飛鳥の弟だ。何があろうと、周囲に心を乱されることなく、目の前のなすべきことにきっちりと心を切り替えられる。
きちんと正坐して見学するウィリアムに、道場主は、「うちのも、彼くらい真面目にやってくれれば良かったんですがねぇ」、と愚痴とも取れる口ぶりで吉野が弓道を始めたいきさつを話してくれた。
取り立てて好きで始めた訳ではないらしい。
道場主が自分の息子に弓道を始めさせる際に、乗り気でない息子が楽しんで続けられるようにと、仲の良かった吉野を誘った。道具類は貸し出すし月謝も要らないから息子と一緒に稽古に出てくれ、と頼むと、あっと言う間に吉野は友達を大勢引き連れて来た。そこで小学生コースを始めることになった。
「肝心の息子は全然やる気が育たなくて駄目でしたがね、吉野君はめきめきと上達してくれて、八月の中学全国大会の団体戦に三年生に交じって出場するんですよ」
道場主は、自分の事の様に誇らしげに語りながら、「でも大会が終わったらイギリスへ留学するんだってね。淋しくなるよ」、と残念そうに締めくくった。
「みんな、あの子が大好きなんだ。お母さんが亡くなってから家の事も本当によくやっていたよ。うちの道場に誘ったのも、帰りの遅いお父さんたちを待つ時間を少しでも紛らわせたら……、っていうのもあったんだよ」
ここに来るまでの商店街の道筋でも、吉野は幾人もと軽口を叩き合い挨拶を交わしていた。彼は確かに、地域に愛され大切に守られてきたのだろう。
飛鳥にしろ、吉野にしろ、愛されて育った子どもらしい素直さと余裕がある。
ヘンリー様が魅かれるわけだ……。
ウィリアムは英国にいる主人に思いを馳せ、その期待に応えるためにも自分のなすべきことを慎重に考慮していた。そしてふと思いついたのか、すっと居住まいを正し、ウィリアムは道場主へとその向きを変えた。
「僕も国ではずっとアーチェリーをやっていたのですが、一度、和弓を引かせていただけませんか。勝手の違いは承知しています」
幾つかの質問の後、道場主は快諾し、百八十センチを超える長身のウィリアムに合わせた弓を用意し、簡単な説明をしてくれた。
吉野はその様子を見て、黙ったまま場所を開けた。入れ替わりウィリアムが的場に入る。
「弽は?」
指を保護するための弽を嵌めず、素手のままで弓をもつウィリアムに対しての憤然とした思いで一杯になりながら、吉野は道場主の傍に立つと小声で訊ねた。
「彼は何者なんだい? あんなものをしている人に初めて会ったよ」
道場主は苦笑して、同じ問いを彼にしたら右手の親指に嵌めた太い銀製の竜の文様の施してある『弓術用指輪』を見せられた、と説明する。
「何ですか、それ?」
「文字通り。親指を保護するための弓術用の指輪だよ」
ウィリアムは的に向かって両足を踏み開き、矢を番えて弦を引く。
タン!
こんなものは弓道じゃない!
思わず心の中でそう呟いていた。吉野は、自分に当てつけるようなそっくりなフォームで、自分以上に正確に、静謐に、美しく弓を引いたウィリアムを、そして矢の的中した的を見て、ますます不機嫌に眉を寄せていた。
自分が、腕の差なんて判らない初心者ならよかったのに……。まるで獲物を狙うハンターの目だ。猛々しく、獰猛な目。
飛鳥の話と全然違うじゃないか……。
吉野の中で、目前の男に対する疑惑と不信は募る一方だ。飛鳥の一つ下、たかだか高校生程度の年齢でこんな奴がいるはずがない。友だちとして、あの飛鳥には不釣り合い過ぎる――。そんな疑念が渦巻いていた。
「ありがとうございました」
ウィリアムは、優雅に微笑んで礼をする。
「もういいのですか?」
「はい。勉強になりました。稽古のお邪魔をしてすみません。ヨシノクンが終わるまでそちらで見学させて下さい」
吉野は、顔を伏せたまま飛鳥の言葉を思い出していた。
『有無を言わせず、叩き潰す。そんな感じの戦い方だよ』
『どうやって支配するかを、彼は誰よりも熟知している』
こいつのことを言っていたわけじゃないけれど、その通りじゃないか。少しずつ、でも確実に自尊心が打ち砕かれ、ボロボロにされていく……。そんなやりきれない想いが波が打ち寄せて来るように、吉野の胸を湿らせ続ける。
飛鳥は、どうやってこんなやつらの間で暮らしていたんだ? どうやって認めさせたんだ?
吉野が何よりも我慢できないのは、ウィリアムが見下しているのは、これまで出会ってきた白人連中とは違い、彼だけだということだった。
敵わない――。
今にも屈してしまいそうな自分の心に、吉野は歯を食いしばって抵抗していた。
稽古開始時間が近付き、パラパラと門下生が増えてくる。ウィリアムは、道場主の傍らで片言の日本語で談笑している。
何のために、こいつはここにいるんだ? と、吉野は、何度も、何度も繰り返し自問せずにはいられなかった。
稽古開始前の、道場主でもある師範以外誰もいない的場に一人立つ吉野を眺め、ウィリアムは満足そうに目を細める。
家ではやたらと自分に突っかかってくる、子どもっぽい姿からは想像出来ない落ち着いた弓構えに、自分に見られている事さえ一切忘れている集中力を見て取り、思ったより筋も悪くない、と一人ほくそ笑む。
矢が放たれる。
残心までの一連の動作が流れる様に美しい。似ていない様でも、やはり飛鳥の弟だ。何があろうと、周囲に心を乱されることなく、目の前のなすべきことにきっちりと心を切り替えられる。
きちんと正坐して見学するウィリアムに、道場主は、「うちのも、彼くらい真面目にやってくれれば良かったんですがねぇ」、と愚痴とも取れる口ぶりで吉野が弓道を始めたいきさつを話してくれた。
取り立てて好きで始めた訳ではないらしい。
道場主が自分の息子に弓道を始めさせる際に、乗り気でない息子が楽しんで続けられるようにと、仲の良かった吉野を誘った。道具類は貸し出すし月謝も要らないから息子と一緒に稽古に出てくれ、と頼むと、あっと言う間に吉野は友達を大勢引き連れて来た。そこで小学生コースを始めることになった。
「肝心の息子は全然やる気が育たなくて駄目でしたがね、吉野君はめきめきと上達してくれて、八月の中学全国大会の団体戦に三年生に交じって出場するんですよ」
道場主は、自分の事の様に誇らしげに語りながら、「でも大会が終わったらイギリスへ留学するんだってね。淋しくなるよ」、と残念そうに締めくくった。
「みんな、あの子が大好きなんだ。お母さんが亡くなってから家の事も本当によくやっていたよ。うちの道場に誘ったのも、帰りの遅いお父さんたちを待つ時間を少しでも紛らわせたら……、っていうのもあったんだよ」
ここに来るまでの商店街の道筋でも、吉野は幾人もと軽口を叩き合い挨拶を交わしていた。彼は確かに、地域に愛され大切に守られてきたのだろう。
飛鳥にしろ、吉野にしろ、愛されて育った子どもらしい素直さと余裕がある。
ヘンリー様が魅かれるわけだ……。
ウィリアムは英国にいる主人に思いを馳せ、その期待に応えるためにも自分のなすべきことを慎重に考慮していた。そしてふと思いついたのか、すっと居住まいを正し、ウィリアムは道場主へとその向きを変えた。
「僕も国ではずっとアーチェリーをやっていたのですが、一度、和弓を引かせていただけませんか。勝手の違いは承知しています」
幾つかの質問の後、道場主は快諾し、百八十センチを超える長身のウィリアムに合わせた弓を用意し、簡単な説明をしてくれた。
吉野はその様子を見て、黙ったまま場所を開けた。入れ替わりウィリアムが的場に入る。
「弽は?」
指を保護するための弽を嵌めず、素手のままで弓をもつウィリアムに対しての憤然とした思いで一杯になりながら、吉野は道場主の傍に立つと小声で訊ねた。
「彼は何者なんだい? あんなものをしている人に初めて会ったよ」
道場主は苦笑して、同じ問いを彼にしたら右手の親指に嵌めた太い銀製の竜の文様の施してある『弓術用指輪』を見せられた、と説明する。
「何ですか、それ?」
「文字通り。親指を保護するための弓術用の指輪だよ」
ウィリアムは的に向かって両足を踏み開き、矢を番えて弦を引く。
タン!
こんなものは弓道じゃない!
思わず心の中でそう呟いていた。吉野は、自分に当てつけるようなそっくりなフォームで、自分以上に正確に、静謐に、美しく弓を引いたウィリアムを、そして矢の的中した的を見て、ますます不機嫌に眉を寄せていた。
自分が、腕の差なんて判らない初心者ならよかったのに……。まるで獲物を狙うハンターの目だ。猛々しく、獰猛な目。
飛鳥の話と全然違うじゃないか……。
吉野の中で、目前の男に対する疑惑と不信は募る一方だ。飛鳥の一つ下、たかだか高校生程度の年齢でこんな奴がいるはずがない。友だちとして、あの飛鳥には不釣り合い過ぎる――。そんな疑念が渦巻いていた。
「ありがとうございました」
ウィリアムは、優雅に微笑んで礼をする。
「もういいのですか?」
「はい。勉強になりました。稽古のお邪魔をしてすみません。ヨシノクンが終わるまでそちらで見学させて下さい」
吉野は、顔を伏せたまま飛鳥の言葉を思い出していた。
『有無を言わせず、叩き潰す。そんな感じの戦い方だよ』
『どうやって支配するかを、彼は誰よりも熟知している』
こいつのことを言っていたわけじゃないけれど、その通りじゃないか。少しずつ、でも確実に自尊心が打ち砕かれ、ボロボロにされていく……。そんなやりきれない想いが波が打ち寄せて来るように、吉野の胸を湿らせ続ける。
飛鳥は、どうやってこんなやつらの間で暮らしていたんだ? どうやって認めさせたんだ?
吉野が何よりも我慢できないのは、ウィリアムが見下しているのは、これまで出会ってきた白人連中とは違い、彼だけだということだった。
敵わない――。
今にも屈してしまいそうな自分の心に、吉野は歯を食いしばって抵抗していた。
稽古開始時間が近付き、パラパラと門下生が増えてくる。ウィリアムは、道場主の傍らで片言の日本語で談笑している。
何のために、こいつはここにいるんだ? と、吉野は、何度も、何度も繰り返し自問せずにはいられなかった。
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