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二章
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「お帰りなさい」
ガラリと玄関を開けた時、居間から顔を覗かせ中学から戻ってきた吉野を出迎えたのは、ウィリアムだった。
「アスカはまだ会社で、帰りが少し遅くなるそうで、」
「知ってる」
最後まで聞こうともせずに吉野はずんずんと台所まで行くと、冷蔵庫から牛乳パックを取り出しそのままごくごくと飲み干した。そんな彼の様子を眺め、ウィリアムはクスクスと笑う。
「何が可笑しい?」
「きみは教育し甲斐がありそうなので。行儀は悪いし礼儀もなっていない。それでよくスカラーシップに通ったものだな、と思って」
ウィリアムは、微笑んだまま辛辣に吉野を批判する。
「落ちたし、ウイスタンは」
憮然と答える吉野に、「合格していたよ。ただ今年のスカラーシップは訳ありだったから。杜月家は、やはり理数系科目にずば抜けているね」とウィリアムは穏やかに告げる。だがその声には、見下しているような冷ややかな響きがあった。
「なんでそんなことまで、知っているんだ?」
「“胡散臭い”?」
その表情からは想像できないようなウィリアムの挑発的な声音に、吉野は一瞬カッとなって拳を握りしめた。
「胡散臭いだろ!」
そしていきなりツカツカと歩み寄り、吉野はウィリアムの右腕を掴んで袖を捲り上げる。
「なんで傷がないんだ? 全治二カ月の骨折したんだろ? 二月に腕を折って六月にはフェンシングで優勝だなんて、ありえないだろ、普通」
一瞬、目を見開いて驚いたウィリアムは、声を立てて笑い出す。
「なかなか目ざといね、きみは。頭も悪くなさそうだ。安心したよ」
そして、ゆっくりと吉野の手を振り払った。
「きみが愚かだと困るんだ。英国に来てアスカの足枷になるようなら、すぐに日本に叩き返すよ。今のきみのレベルでは、エリオットで問題なくやっていくのは難しいだろうから」
穏やかな口調で繰り出される辛辣な言葉の数々に、吉野は悔しそうに唇を噛んだ。だが、ウィリアムを睨み付けるだけで精一杯だった。悔しさを噛み殺しながらやっとの思いで口を開く。
「質問に答えろよ。なんで怪我したフリして飛鳥に近付いたんだ? 馬鹿な兄貴を騙して楽しんでんのか?」
「まさか! 守るためだよ。きみは何も知らされていないの?」
その言葉に、吉野は俯いて黙りこくってしまった。
何も知らない――。その通りだった。
会社の経営状態が危なくて祖父が自殺した。なぜそんなことになったのかも、そこから先のことも、訳の分からないままだ。
いきなり会社だけでなく家にまで、外国人が出入りするようになった。それも工場にいる技術職じゃなくて、いかにも高級そうなスーツを着たエリート風の白人ばかりだ。
父はしょっちゅう英語で電話を受けていて、がなり立てるような大声でNOを繰り返していた。そして電話を切った後は決まって、大きな手で顔を覆ったままうなだれていた。
この数年間、毎日が泥沼の中で暮らしているみたいだった。
早く大人になりたい――。
大人になって、父や、学校が終わったら工場に直行して仕事を手伝っている飛鳥を助けられるようになりたい。
自分には飛鳥のような才能はないから、せめて自分にできる事を、父や飛鳥の負担を少しでも減らせるように家事をし、必死に勉強してきたのに……。
飛鳥の留学さえ、ぎりぎりまで知らされていなくて急にばたばたと決まったと思ったら、今度は前とは別の白人エリート連中が出入りするようになった。
裁判だの、倒産だの、言葉だけは耳に入ってくるのに、皆、「何も心配いらない」と言うだけで、自分と家族の身に何が起こっているのか、誰も、何も、教えてはくれなかった。
吉野は眉をぎゅっと寄せ、泣きそうな声で呟いた。
「訳が判らない……」
けれど、キッと顔を上げると、「もう出ないと。道場へ行く時間だ」と、ウィリアムから顔を逸らしたまま台所を離れ玄関へと向かった。ウィリアムも、黙ったまま彼の後に続いた。
ガラリと玄関を開けた時、居間から顔を覗かせ中学から戻ってきた吉野を出迎えたのは、ウィリアムだった。
「アスカはまだ会社で、帰りが少し遅くなるそうで、」
「知ってる」
最後まで聞こうともせずに吉野はずんずんと台所まで行くと、冷蔵庫から牛乳パックを取り出しそのままごくごくと飲み干した。そんな彼の様子を眺め、ウィリアムはクスクスと笑う。
「何が可笑しい?」
「きみは教育し甲斐がありそうなので。行儀は悪いし礼儀もなっていない。それでよくスカラーシップに通ったものだな、と思って」
ウィリアムは、微笑んだまま辛辣に吉野を批判する。
「落ちたし、ウイスタンは」
憮然と答える吉野に、「合格していたよ。ただ今年のスカラーシップは訳ありだったから。杜月家は、やはり理数系科目にずば抜けているね」とウィリアムは穏やかに告げる。だがその声には、見下しているような冷ややかな響きがあった。
「なんでそんなことまで、知っているんだ?」
「“胡散臭い”?」
その表情からは想像できないようなウィリアムの挑発的な声音に、吉野は一瞬カッとなって拳を握りしめた。
「胡散臭いだろ!」
そしていきなりツカツカと歩み寄り、吉野はウィリアムの右腕を掴んで袖を捲り上げる。
「なんで傷がないんだ? 全治二カ月の骨折したんだろ? 二月に腕を折って六月にはフェンシングで優勝だなんて、ありえないだろ、普通」
一瞬、目を見開いて驚いたウィリアムは、声を立てて笑い出す。
「なかなか目ざといね、きみは。頭も悪くなさそうだ。安心したよ」
そして、ゆっくりと吉野の手を振り払った。
「きみが愚かだと困るんだ。英国に来てアスカの足枷になるようなら、すぐに日本に叩き返すよ。今のきみのレベルでは、エリオットで問題なくやっていくのは難しいだろうから」
穏やかな口調で繰り出される辛辣な言葉の数々に、吉野は悔しそうに唇を噛んだ。だが、ウィリアムを睨み付けるだけで精一杯だった。悔しさを噛み殺しながらやっとの思いで口を開く。
「質問に答えろよ。なんで怪我したフリして飛鳥に近付いたんだ? 馬鹿な兄貴を騙して楽しんでんのか?」
「まさか! 守るためだよ。きみは何も知らされていないの?」
その言葉に、吉野は俯いて黙りこくってしまった。
何も知らない――。その通りだった。
会社の経営状態が危なくて祖父が自殺した。なぜそんなことになったのかも、そこから先のことも、訳の分からないままだ。
いきなり会社だけでなく家にまで、外国人が出入りするようになった。それも工場にいる技術職じゃなくて、いかにも高級そうなスーツを着たエリート風の白人ばかりだ。
父はしょっちゅう英語で電話を受けていて、がなり立てるような大声でNOを繰り返していた。そして電話を切った後は決まって、大きな手で顔を覆ったままうなだれていた。
この数年間、毎日が泥沼の中で暮らしているみたいだった。
早く大人になりたい――。
大人になって、父や、学校が終わったら工場に直行して仕事を手伝っている飛鳥を助けられるようになりたい。
自分には飛鳥のような才能はないから、せめて自分にできる事を、父や飛鳥の負担を少しでも減らせるように家事をし、必死に勉強してきたのに……。
飛鳥の留学さえ、ぎりぎりまで知らされていなくて急にばたばたと決まったと思ったら、今度は前とは別の白人エリート連中が出入りするようになった。
裁判だの、倒産だの、言葉だけは耳に入ってくるのに、皆、「何も心配いらない」と言うだけで、自分と家族の身に何が起こっているのか、誰も、何も、教えてはくれなかった。
吉野は眉をぎゅっと寄せ、泣きそうな声で呟いた。
「訳が判らない……」
けれど、キッと顔を上げると、「もう出ないと。道場へ行く時間だ」と、ウィリアムから顔を逸らしたまま台所を離れ玄関へと向かった。ウィリアムも、黙ったまま彼の後に続いた。
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