胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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二章

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『グラスフィールド社CEO辞職』
 船長が沈む船から逃げ出した……。

 深緑の壁に囲まれた重苦しく薄暗い書斎の中で、テレビ画面だけが目まぐるしい光彩を放っている。
 ヘンリーは、じっと考え込むように腕組みをしたまま、その喧しく流れるニュースを睨め付けていた。

「逃がすものか」

 画面の中のCEOの姿に憎悪を叩き付けるように呟くと、おもむろに傍に置いてあった電話を掴んだ。

「新聞社にリークしろ」


 全く、あの強欲爺のせいでとんだ時間を食ってしまった。ストラド程度では割に合わない。
 おまけに、ルベリーニときたら! せっかく明るみに出る前に教えてやったのに、ヘッジの空売りを入れただけだった。ニュースになってから、大慌てで待ってくれ、だ!
 この連中が売り抜けるのを待っていたら、文字通り獲物に逃げられる――。


 ヘンリーは渋面でチェスターフィールドソファーに深く身を沈め、胸中に渦巻く憤怒を沈めるために、指でトントンとひじ掛けを叩いていた。



 そんな彼の苛立ちが天に通じたのか、ここからの展開は早かった。

 翌朝のタイムズ紙には、『会計操作』『大規模な企業詐欺』の見出しが躍り、会社からは大幅な業績予想の下方修正が発表された。
 今まで利益だと思っていたものが全て損失だったと知らされ、何とか値を保っていたこの会社の株価を支えるものは、もう何もなくなった。

 グラスフィールド社は一直線に奈落の底へ落ちていく。
 とうとう証券取引委員会SECの調査が入ると発表された。

『何の問題もない。業績は好調だ』
 いたるところでコメントするグラスフィールド社会長の言をあざ笑うかのように、株価の下落は止まらない。




「『新興IT企業コズモス、グラスフィールド社を買収か?』、これ関連の記事ばかりだね。ウィルは、ヘンリーから何か聞いている?」
 朝食の席で、飛鳥は新聞から顔を上げてウィリアムに問いかけた。

「いいえ。会社のことは何も」
「父さんは?」
 杜月氏も首を横に振る。
「企業秘密だろう。ただ、ここの欧州工場を買いたい、って話は彼から聞いているよ」
「ふうん……。この会社には随分恨みもあるけど、こんな風になってみると、普通に働いている社員が可哀想だね……。いつだって本当にひどい目にあうのは、真面目に働いている従業員なんだ。結局この事件って、本業の問題じゃなくて、ITバブルの時の投資の損失隠しが発端なんだろ? 製造業が金儲けに走ったあげくの顛末がこれじゃあ、社員は泣くに泣けないよ」

 もしグラスフィールド社が倒産したら、六千人を超す失業者が出ることになる。関連会社も含めたら、もっと多くの人たちに影響が出るだろう。
 つい最近まで自分のいた位置に、今は自分たちを追い込んでいた会社がいる。この現実に、飛鳥は運命の皮肉を感じずにはいられない。


 やるせない思いで顔を曇らせ、飛鳥は不安げにウィリアムに視線を合わせる。
「ヘンリーは、どうするんだろうね? 彼は容赦がないから……」
「容赦がないって?」
 今まで素知らぬ顔をして朝食を食べていた吉野が口を挟んだ。

「彼は……。何て言うか、上手く言えないよ」
 口ごもる飛鳥にウィリアムが助け舟を出す。
「味方だと、とても心強いですが、敵に回すと恐い方なんです」
「スポーツでも、ゲームでも、有無を言わせず叩き潰す。そんな感じの戦い方だよ。序盤で相手の戦意を消失させ、尚且つ、最後まできっちりと追い落とす。二度と戦いたいと思えなくなるほど徹底的にね」

 そんな彼が嫌いだった――。
 飛鳥はなんとも言えない表情で苦笑する。これもまた、運命の皮肉という奴か、と――。

「野蛮で優美な獣。そんな感じだよ」



 吉野は無表情のまま黙々と食事を続け、食べ終わると自分の食器を片付けて、「終わったら流しに置いておいて。帰ったらするから」と背中越しに言った。
「学校? 夏休みだろ? まだ行っているの?」
「朝練。八月に大会があるからさ。末までは通いたいんだ」
 飛鳥を一瞥し、吉野はさっさと暖簾をくぐりダイニングを後にする。

「彼は何のスポーツをされているのですか?」
 ウィリアムはその背中を見送りながら、飛鳥に訊ねた。
「ずっと水泳、七年くらい。あと、弓道が三年かな? 近所の道場に通ってるんだ。それに今は中学の弓道部にも入っているって」
「どのくらいのレベルなんでしょう? エリオットでは、スポーツの占めるウェートが大きいのです」
「今日は稽古日だし、夕方にでも道場見学に行ってみる?」
「はい」
 ウィリアムが笑って頷くと、飛鳥は微笑んで立ち上がり、片付けを始めた。



「父さん、先に行っていて。僕は、家のことを済ませてから行くから。佐藤さんに、十時には行きますって伝えておいて」
「すまんなぁ。ありがとう」

 杜月氏は穏やかに微笑んでいる。息子二人が久しぶりに揃ったとは言え、こうして同じ食卓につける日はそうそうなかった。こんな当たり前の幸せを彼が噛み締めて味わっていることは、想像に難くない。そんな優し気な、そして、いつもくたびれた様子の杜月氏を眺めながら、ウィリアムは思考を巡らせていた。

 この家の家事全般は、吉野が全て仕切っている。母親が亡くなってから、初めのうちこそ家族内で分担されていた家事を、今は、器用で要領の良い吉野が全て引き受け切り盛りしているそうだ。

 その吉野が留学してしまったら、杜月氏はどうなるのだろう?

 祖父に育てられたと言っても過言ではないほど、祖父にべったりだった兄と、中小企業の経営者として奔走する父。

 この家の精神的な支柱は、実は母親の役割を担う吉野ではないのか?

 その吉野は、父親を残して兄の元へ来るほどに、自分たちを信用していないのだ。この問題はおろそかにできない。彼に満足して貰えるように、きちんと対処しなければ――。



「アスカ、洗い物は僕がしますよ」
 捻られ溢れ出す水音に、ウィリアムは飛鳥の傍に立ち、カッターシャツの袖を捲り上げた。






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