胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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二章

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 「只今戻りました」
 飛鳥は一言呟くと、じっと目を瞑って仏壇に手を合わせた。

 そして振り返ると、「足、崩しなよ。正座、辛いだろ?」と、ウィリアムに笑いかける。
「この部屋をウィルに使ってもらうんだけれど、古くて狭くて驚いた? この仏壇は後で下の居間に下ろすから、もう少し広くはなると思うけれど」
 日に焼けた畳に足を伸ばして、飛鳥は久しぶりの我が家をぐるりと見廻した。開け放たれた障子に面した廻り廊下をぐるりと囲む、格子に組まれた木製の桟の古ぼけた窓外には、濃い緑が眩しく輝いている。幾重にも重なる蝉の声が、締め切った窓ガラス越しに響いてくる。

「あの方が好みそうな音色ですね」
 ウィリアムは微笑んで、姿勢を崩さないまま窓の向こうに茂る木立を見渡した。
「ヘンリー? 彼、虫の音を気に入っていたの?」
 蛍の映像のバックに流していた鈴虫やコオロギかな、と思い出しながら訊き返す。
「よくスマートフォンで聞いておられました」
 飛鳥は意外そうな顔をする。
「やっぱり、ヘンリーはわからないや。隣がお寺だからね。この辺りにしては緑が多いんだ。蝉の声、うるさいくらいだろ? ウィルは平気?」

「それに蚊も多い。なんで障子を開け放っているんだ? クーラーが効かないだろ」
 片手で麦茶の載ったお盆を持ち、反対の手で障子をぴしゃりと閉めて、吉野が部屋に入ってきた。


「何か武道をやってるの?」
 ごく自然に背筋を伸ばし、正座したまま麦茶を飲むウィリアムを真っ直ぐに眺めながら、「エリオットは、合気道のクラスがあるんだろ?」と、吉野が訊ねる。
「エリオットに入学するまでは、合気道を習っていました」
「今は?」
 ウィリアムは首を横に振って微笑んだ。
「時間が取れなくて。きみは? 何かスポーツをしているの?」
 吉野はその質問は無視して、「フェンシングは? 優勝したんだろ?」、と畳みかけるように訊いた。

「吉野、お前、ちょっと変だよ。生意気になった」

 飛鳥は声を低め、日本語で弟を叱った。
 いや、生意気な面もあったけれど、こんな不躾な奴ではなかったはずだ。物怖じはしないが人懐こくて、誰にでも好かれる優しい子なのだ、こいつは。自分の不在のこの一年が弟を変えたのではないか、とそんな不安が飛鳥の脳裏を過っていた。

「だって、向こうの飛鳥の周りの奴らって胡散臭い」
 吉野は唇を尖らせ、不満げに早口の日本語で応えた。その思いがけない返答に、飛鳥は拍子抜けたように口許をほころばす。
 やはり吉野は優しい子なのだ、と。自分がいない間も、ずっと自分の身を案じてくれていたのだ。そして今の状況の変化についていけず、警戒心を解くに至っていないだけなのだ。
「胡散臭いはないだろ?」
 飛鳥は笑って弟の肩を拳で小突いた。吉野はちっと舌打ちして肩を竦めている。


 そんな二人を、ウィリアムは黙ったまま、静かに見守っていた。

 ウサンクサイ……。スラングか? やはり付け焼刃の学習では、肝心の語句が判らない。と、その脳裏に単語を刻み付けながら、素知らぬ顔でグラスを口に運び、冷えた麦茶をごくりと飲み干す。


 兄弟の会話が途切れたところで、「ソールスベリー先輩から、ヨシノクンにプレゼントを預かっています」とウィリアムは傍らの旅行鞄から大きな包みを取り出し、座卓の上に置いた。
 吉野はさして嬉しそうな顔をするでもなく、びりびりと包みを破く。中から出て来た贈り物に、飛鳥はケタケタと声を立てて笑い、吉野は眉根を寄せて顔をしかめる。

「『 ラテン語文法 』!」
 吉野にも判るように、飛鳥は分厚い本の表紙に印刷された文字を訳して読み上げた。

「この夏の間に終わらせておくといいですよ」
「ナイス、ヘンリー! 僕も入学前に欲しかったよ」
 飛鳥は目に涙を滲ませて、止まらないといった感じで笑い転げている。吉野は訳が判らない様子でそんな兄を見つめた。


「それにヨシノクンの英語、軽くインド訛りがありますね。直しておいた方がいい。Rの音がきつ過ぎます。きみの英語の先生はインドの方ですか?」
 吉野はますます不愉快そうに目に険を走らせる。
「うちで働いているプログラマーの影響だよ。多分、学校での学習よりもずっと喋る機会が多いからだね。家族ぐるみの付き合いなんだ。年の近い子どももいるしね」
 むっとしている吉野に替わって、飛鳥が気遣うようにおろおろとしながら返答する。やはり吉野はどこか変わった。そんな気がしてならなかった。

「ラザフォード先輩が来るまでには、直しましょう」
「あんた、何しに日本に来たんだ? 日本語の勉強じゃないのかよ?」
 とうとう吉野がイラついた口調でがなり立てた。

「勿論、日本語学校には行きますよ。けれど僕がここにいるのは、きみがエリオットで平穏に過ごせるように、その準備をお手伝いするためです。エリオットは、ウイスタン以上に特殊な場所ですから」
 ウィリアムは、涼しい顔をして微笑んで言葉を継いだ。
「きみだって、それなりの覚悟を決めてエリオットを受けたのでしょう? 先輩の言うことは聞くものです。それが出来ないなら今ここで入学は諦めた方がいい。エリオットでは上下関係は絶対ですよ」

 吉野はウィリアムを睨め付けたけれど、言い返すことはしなかった。吉野にとって、兄からのメールで垣間見たパブリックスクールは想像を超えた未知の世界だったのだ。これから自分が足を踏み入れるその世界の情報は、少しでも多い方がいい。目の前にいる男に対する不信と内心に渦巻く打算とで、悔しくとも唇を噛むほかはなかったのだ。


「心配性の彼らしいね」
 飛鳥は小さく溜息をつき、ついウィリアムと顔を見合わせて苦笑し合った。






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