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一章
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「もう、いい加減にしなよ」
崩れかけた城跡の石塀の陰で、通り抜けて行く風が伸びすぎた芝生をさわさわと揺らすのを眺めながら、デヴィッドはぽつりと呟いた。
「何がそんなに不安なのさ?」
不機嫌そうに煙草を銜えているヘンリーの正面に手を伸ばし、デヴィッドは、その唇から煙草を取り上げて揉み消した。
「吸わないんなら、ちゃんと消しなよ」
「何を怒っているんだ、デイヴ?」
ヘンリーは不愉快そうに目を逸らす。
「きみの様子がずっとおかしいからだよ。いつもピリピリして、見ていて疲れる」
「じゃ、見なきゃいい」
ぷいっと顔を背けたヘンリーに苛立って、デヴィッドは、彼のブレザーの襟を掴んで激しく揺さぶる。だがヘンリーは視線を合わせようともせず、されるがままに任せている。彼は感情の起伏の激しいデヴィッドに合わせて怒ったりしない。いつものことだ、とやり過ごされているようで、デヴィッドはますます声を荒げた。
「みんなバラバラになるのが、そんなに不安? エドが士官学校に行くから? アスカが、帰っちゃうから? 彼はすぐ戻ってくるんだろう? ケンブリッジで会えるじゃないか。アーニーだっている。僕らを放り出してここに来たくせに。なんだって今更そんな不安そうな顔するんだよ? きみがそんなんじゃ、僕は安心して日本に行けないじゃないか……。きみが応援してくれたから、きみとアーニーが父を説得してくれたから、やっと僕だって夢を追うことができるっていうのに」
半分涙声で歯を食いしばる。ここで泣いたらまた言われてしまうのに。デヴィッドは、顔を隠すようにヘンリーの肩に額を当てる。
「きみはいつも泣いて僕を動かそうとする」
ほら、言われてしまった。
「クリケットで負けた、と言っては泣きつき、エリオットに受かりそうにない、と言っては泣き、一番最近は何だったかな?」
ヘンリーは笑いながら、宥めるように彼の震える背中をそっと抱きしめる。
「留学」
デヴィッドは顔を伏せたまま呟いた。
「そう、それだ。ゲームデザインの専門学校だったね。僕にどうして欲しいの?」
しかめっ面のまま、デヴィッドは顔を上げ、真っすぐにヘンリーを見つめた。
「笑って。笑って僕を見送って」
ヘンリーは優しく頷いた。
「すまなかったな、心配かけて。いつまでも子どもじゃいられない、ってことくらい、ちゃんと判っているよ。僕は、きみ達が思っているよりずっと、きみ達のこと信頼しているよ。エドにはいつも、振り回すな、って文句ばかり言われるけどね」
「きみのことを愛しているのは、きみの妹だけじゃないんだ」
「塩のように?」
「塩のように」
デヴィッドは、拗ねたように唇を尖らせ頷いた。
「おかげで腐らずにすむよ」
ヘンリーはクスクスと可笑しそうに笑った。
「違うんだ。きみが思っているような事じゃなくて……。僕自身、どうしていいか判らなかったんだ。こんなの、初めてで……。僕は今、」
「言わなくていい。知っているから」
デヴィッドは腹立たし気に、ヘンリーの言葉を遮る。
「あれだけ散々逃げ回っていたのに、ストーンと落ちるなんて笑っちゃうよ」
「上手い表現だな。まさしく落ちたんだよ」
ヘンリーは少し驚いたようだったが、すぐにすっきりした顔で微笑んでいる。デヴィッドはその彼の反応に意外そうに眼を丸め、さらに呆れたふうに顔をしかめる。
「それで、どうするのさ?」
「どうもしないよ」
「言わないの?」
「言わない」
「どうして?」
「僕の一番はサラだから」
理解できない、とデヴィッドは眉根を寄せる。
「塩だけで漬物にでもなるつもりなの?」
「それもいいね」
ヘンリーはクスクスと笑う。デヴィッドは顔をしかめたまま黙り込んだ。
石塀は黒々と濃い冷んやりとした影を伸ばし、対照的に日向の陽光は目が痛いほどに眩しい。
薄暗い倉庫の扉が大きく開けられた、あの日を思い出す。
やっと表に出られた時、外の光が眩し過ぎて目を眇めた。
「あの時、きみの構えた銃には、弾が装填されてなかったんだって?」
「何のこと?」
ヘンリーは怪訝そうに聞き返した。
「エドが持ち出してきた、お父さんの銃だよ」
「ああ……。弾、なかったね。でもそれ以前に、あのサイズの銃は子どもには扱えないよ。もし弾が装填されていて引き金を引いていたら、僕の方が衝撃で吹っ飛ばされていたはずだよ。犯人がその辺のことに素人で助かったね」
「きみは、あの頃から嘘つきだったね」
ヘンリーは、その言葉に思わず噴き出し声をたてて笑った。
「嘘をつき通すの? あの時みたいに」
デヴィッドの真剣な眼差しに、ヘンリーは笑うのを止めて静かに頷いた。
「らしくないよ。きみが片思いなんて。どんな時だって獰猛なまでに勝ちをもぎ取りに行くくせに」
「恋が全てじゃないだろう?」
ヘンリーの答えに、デヴィッドは辛そうに顔を背ける。
きみが、僕の想い出の全てだった。
きみは、僕のヒーローなんだ。
これまでも、これからも、きっと一生変わらない。
素知らぬ顔をしてうそぶいているヘンリーに、そう、告げたかった。けれど言葉に出来なかった。口に出してしまえば変わってしまう。そんな気がして。
「なら、無様なマネは許さないよ」
デヴィッドは、腹にぐっと力を入れ頭を高く上げる。
「周りに当たるのはやめてよ。アスカにも。彼が一番参っている。きみが寮に戻らなくて口もきかないから、自分を嫌って、避けていると思っているんだ。本末転倒だよ」
何か言おうと口を開きかけたが、ヘンリーはそのまま困ったように、唇の端で小さく微笑した。
瞳に映っているはずのヘンリーが、デヴィッドの視界の中でどんどんとぼやけてくる。自分でも何故だか判らないまま、デヴィッドはボロボロと泣きだしていた。
「デイヴ、」
「僕は……、僕は、君の替わりに泣いているんだ。きみは、決して、泣かないから……」
崩れかけた城跡の石塀の陰で、通り抜けて行く風が伸びすぎた芝生をさわさわと揺らすのを眺めながら、デヴィッドはぽつりと呟いた。
「何がそんなに不安なのさ?」
不機嫌そうに煙草を銜えているヘンリーの正面に手を伸ばし、デヴィッドは、その唇から煙草を取り上げて揉み消した。
「吸わないんなら、ちゃんと消しなよ」
「何を怒っているんだ、デイヴ?」
ヘンリーは不愉快そうに目を逸らす。
「きみの様子がずっとおかしいからだよ。いつもピリピリして、見ていて疲れる」
「じゃ、見なきゃいい」
ぷいっと顔を背けたヘンリーに苛立って、デヴィッドは、彼のブレザーの襟を掴んで激しく揺さぶる。だがヘンリーは視線を合わせようともせず、されるがままに任せている。彼は感情の起伏の激しいデヴィッドに合わせて怒ったりしない。いつものことだ、とやり過ごされているようで、デヴィッドはますます声を荒げた。
「みんなバラバラになるのが、そんなに不安? エドが士官学校に行くから? アスカが、帰っちゃうから? 彼はすぐ戻ってくるんだろう? ケンブリッジで会えるじゃないか。アーニーだっている。僕らを放り出してここに来たくせに。なんだって今更そんな不安そうな顔するんだよ? きみがそんなんじゃ、僕は安心して日本に行けないじゃないか……。きみが応援してくれたから、きみとアーニーが父を説得してくれたから、やっと僕だって夢を追うことができるっていうのに」
半分涙声で歯を食いしばる。ここで泣いたらまた言われてしまうのに。デヴィッドは、顔を隠すようにヘンリーの肩に額を当てる。
「きみはいつも泣いて僕を動かそうとする」
ほら、言われてしまった。
「クリケットで負けた、と言っては泣きつき、エリオットに受かりそうにない、と言っては泣き、一番最近は何だったかな?」
ヘンリーは笑いながら、宥めるように彼の震える背中をそっと抱きしめる。
「留学」
デヴィッドは顔を伏せたまま呟いた。
「そう、それだ。ゲームデザインの専門学校だったね。僕にどうして欲しいの?」
しかめっ面のまま、デヴィッドは顔を上げ、真っすぐにヘンリーを見つめた。
「笑って。笑って僕を見送って」
ヘンリーは優しく頷いた。
「すまなかったな、心配かけて。いつまでも子どもじゃいられない、ってことくらい、ちゃんと判っているよ。僕は、きみ達が思っているよりずっと、きみ達のこと信頼しているよ。エドにはいつも、振り回すな、って文句ばかり言われるけどね」
「きみのことを愛しているのは、きみの妹だけじゃないんだ」
「塩のように?」
「塩のように」
デヴィッドは、拗ねたように唇を尖らせ頷いた。
「おかげで腐らずにすむよ」
ヘンリーはクスクスと可笑しそうに笑った。
「違うんだ。きみが思っているような事じゃなくて……。僕自身、どうしていいか判らなかったんだ。こんなの、初めてで……。僕は今、」
「言わなくていい。知っているから」
デヴィッドは腹立たし気に、ヘンリーの言葉を遮る。
「あれだけ散々逃げ回っていたのに、ストーンと落ちるなんて笑っちゃうよ」
「上手い表現だな。まさしく落ちたんだよ」
ヘンリーは少し驚いたようだったが、すぐにすっきりした顔で微笑んでいる。デヴィッドはその彼の反応に意外そうに眼を丸め、さらに呆れたふうに顔をしかめる。
「それで、どうするのさ?」
「どうもしないよ」
「言わないの?」
「言わない」
「どうして?」
「僕の一番はサラだから」
理解できない、とデヴィッドは眉根を寄せる。
「塩だけで漬物にでもなるつもりなの?」
「それもいいね」
ヘンリーはクスクスと笑う。デヴィッドは顔をしかめたまま黙り込んだ。
石塀は黒々と濃い冷んやりとした影を伸ばし、対照的に日向の陽光は目が痛いほどに眩しい。
薄暗い倉庫の扉が大きく開けられた、あの日を思い出す。
やっと表に出られた時、外の光が眩し過ぎて目を眇めた。
「あの時、きみの構えた銃には、弾が装填されてなかったんだって?」
「何のこと?」
ヘンリーは怪訝そうに聞き返した。
「エドが持ち出してきた、お父さんの銃だよ」
「ああ……。弾、なかったね。でもそれ以前に、あのサイズの銃は子どもには扱えないよ。もし弾が装填されていて引き金を引いていたら、僕の方が衝撃で吹っ飛ばされていたはずだよ。犯人がその辺のことに素人で助かったね」
「きみは、あの頃から嘘つきだったね」
ヘンリーは、その言葉に思わず噴き出し声をたてて笑った。
「嘘をつき通すの? あの時みたいに」
デヴィッドの真剣な眼差しに、ヘンリーは笑うのを止めて静かに頷いた。
「らしくないよ。きみが片思いなんて。どんな時だって獰猛なまでに勝ちをもぎ取りに行くくせに」
「恋が全てじゃないだろう?」
ヘンリーの答えに、デヴィッドは辛そうに顔を背ける。
きみが、僕の想い出の全てだった。
きみは、僕のヒーローなんだ。
これまでも、これからも、きっと一生変わらない。
素知らぬ顔をしてうそぶいているヘンリーに、そう、告げたかった。けれど言葉に出来なかった。口に出してしまえば変わってしまう。そんな気がして。
「なら、無様なマネは許さないよ」
デヴィッドは、腹にぐっと力を入れ頭を高く上げる。
「周りに当たるのはやめてよ。アスカにも。彼が一番参っている。きみが寮に戻らなくて口もきかないから、自分を嫌って、避けていると思っているんだ。本末転倒だよ」
何か言おうと口を開きかけたが、ヘンリーはそのまま困ったように、唇の端で小さく微笑した。
瞳に映っているはずのヘンリーが、デヴィッドの視界の中でどんどんとぼやけてくる。自分でも何故だか判らないまま、デヴィッドはボロボロと泣きだしていた。
「デイヴ、」
「僕は……、僕は、君の替わりに泣いているんだ。きみは、決して、泣かないから……」
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