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一章
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「僕はまた、フラッシュを焚いてしまったのかな……」
ヘンリーは、辛そうに目を伏せて唇を歪めた。
飛鳥の異常な反応を目の当たりにして、すぐに控室にスミスを呼んだ。ヘンリーの演奏は終えたが、コンサートはまだ二曲ばかり残っている。
――四大ヴァイオリン協奏曲のうちの三つはよく弾いているのに、チャイコフスキーは弾かないんだね。
寮の防音室で練習していた時に、飛鳥にそう言われた。そして、いつか、きみのヴァイオリンで聞けたらいいな、と。
あの時飛鳥は、どうしてそんな事を言ったのだろう?
僕は、なんと答えたのだろう?
僕のヴァイオリンではこの曲は弾けない。高音が伸びずに掠れてしまうから。
そう、ちゃんと答えただろうか?
何も言わなかったような気がする。飛鳥も、それ以上何も聞かなかった。
ストラディバリウスは、嫌いだ。高慢で、我儘で、人を選ぶ。まるで、母みたいだ。その美しさで魅了して、自分勝手に振り廻すだけ振り廻したあげく、のめり込ませて破滅させる。
だけど、こいつでなければ出せない音がある。
ほかのものでは無理だったから、祖父に頼んだ。
通常は短縮されたものが演奏されるこの曲の全曲を、聞かせたかった。
喜んでくれると思ったんだ。
『杜月倖造氏は、孫の飛鳥を連れて行きつけの食堂で食事し、映画館で「Le Concert」を鑑賞、自宅まで飛鳥を送った後、自社工場の裏地で自殺』
「僕は、呪われているのかな。サラの時と同じじゃないか……。喜んでもらおうとすることが、いつだって裏目に出る。いつだって無神経に傷に触れて、血を噴き出させてしまうんだ」
ジョン・スミスに渡された『杜月』の調査書の一枚をぐしゃぐしゃに握りしめて、ヘンリーは目を瞑ったまま眉を寄せる。
「それが悪いこととは限りませんよ、坊ちゃん」
自分の前では決して弱みを見せないヘンリーのそんな姿に、スミスは何年か前のクリスマスの夜を思い出していた。
「彼だって、いつかは乗り越えていかなければならないのですから。誰にでも、私にだって、そういう傷のひとつくらいありますよ。何かのきっかけで傷が開く度に、強くなれるんですよ。その痛みを思い出す度に、強い想いに再生されていくんです。人間は、そんなふうにできているんです」
ジョン・スミスは、ヘンリーに、というよりも自分に言い聞かせるように言葉を紡いだ。
ヘンリーは驚いたように顔を上げた。
「あなたから、そんな言葉を貰えるとは思いませんでした」
スミスは、皮肉気に口先を跳ね上げる。
「長年あのお嬢さんと一緒にいると、そう思わずにはいられなくなる。そうでしょう?」
ヘンリーの顔からも笑みがこぼれた。どこか哀し気な、そんな笑みだったが。
「そうですね。その通りだ」
「それより、あっちに借りを作って大丈夫なんですか? むこうじゃ、あなたとストラドの経済効果をせっせと勘定しているでしょうに」
「そうでしょうね。でもフェイラーには借りを作ったのではなくて、貸しを返して頂いただけですよ」
つい今しがたの彼とは違う、いつものスミスの物憂げな、冷徹さを感じさせる口調に、ヘンリーは邪気のない顔で、屈託なく微笑みを返した。
「例の件、よろしくお願いします。冬までには決着を付けますから」
「やはり、本気ですか……」
静かに頷くヘンリーの眼差しにサラと同じ色彩を感じ、スミスは小さく嘆息した。
フェイラーだって、そうそう好き勝手はさせてくれないだろうに……。
そんな不安が胸を過る。つい、小さく吐息が漏れた。
「坊ちゃんは、やはりサラお嬢さんと似ていらっしゃる」
「最高の賛辞だ。僕の目標はサラだから」
ヘンリーは、すっきりした顔で立ち上がる。
「落ち込んでいても仕方がない。アスカに謝ってきますよ」
「今は行かない方がいい。もみくちゃにされますよ。フェイラーの護衛を呼んできます。坊ちゃんは先に寮へ戻って下さい。彼には伝えておきますから」
ヘンリーは苦笑いして、またストンと座り直した。
「またエリオットの時みたいになるのかな……。クリスマスは平気だったのに」
ウイスタンのクリスマス・コンサートは、バックのオーケストラが酷すぎた。
だが今回は、同じ学生オケとは思えない出来だった。
何よりも、ヘンリーが凄まじかった。
どだい、ほっておいてくれと言うこと自体が無理な話だろう……。
エリオットの時にしろ、今回にしろ、彼が本気で誰かのために奏でる時、その演奏は聴衆を熱狂させる。その時だけ、彼のいつも纏っている人を寄せ付けない冷たい空気が一変して、感情がほとばしる。耳元で、情熱的に愛を囁やいているように。
この坊ちゃんは、自分ってものを本当に解っているのだろうか?
ヘンリーのことは、幼い頃からよく知っているつもりだ。父親の代わりにその成長を見守ってきた。だがここにきて、大きく変貌を遂げようとしている彼に、彼自身戸惑い解らなくなっているのではないか、とそんな疑問がスミスの脳裏を過っていた。
「勝手に動かずに、ちゃんと待っていてくださいよ」
スミスは、もう一度念を押してから、控室を後にした。
ヘンリーは、辛そうに目を伏せて唇を歪めた。
飛鳥の異常な反応を目の当たりにして、すぐに控室にスミスを呼んだ。ヘンリーの演奏は終えたが、コンサートはまだ二曲ばかり残っている。
――四大ヴァイオリン協奏曲のうちの三つはよく弾いているのに、チャイコフスキーは弾かないんだね。
寮の防音室で練習していた時に、飛鳥にそう言われた。そして、いつか、きみのヴァイオリンで聞けたらいいな、と。
あの時飛鳥は、どうしてそんな事を言ったのだろう?
僕は、なんと答えたのだろう?
僕のヴァイオリンではこの曲は弾けない。高音が伸びずに掠れてしまうから。
そう、ちゃんと答えただろうか?
何も言わなかったような気がする。飛鳥も、それ以上何も聞かなかった。
ストラディバリウスは、嫌いだ。高慢で、我儘で、人を選ぶ。まるで、母みたいだ。その美しさで魅了して、自分勝手に振り廻すだけ振り廻したあげく、のめり込ませて破滅させる。
だけど、こいつでなければ出せない音がある。
ほかのものでは無理だったから、祖父に頼んだ。
通常は短縮されたものが演奏されるこの曲の全曲を、聞かせたかった。
喜んでくれると思ったんだ。
『杜月倖造氏は、孫の飛鳥を連れて行きつけの食堂で食事し、映画館で「Le Concert」を鑑賞、自宅まで飛鳥を送った後、自社工場の裏地で自殺』
「僕は、呪われているのかな。サラの時と同じじゃないか……。喜んでもらおうとすることが、いつだって裏目に出る。いつだって無神経に傷に触れて、血を噴き出させてしまうんだ」
ジョン・スミスに渡された『杜月』の調査書の一枚をぐしゃぐしゃに握りしめて、ヘンリーは目を瞑ったまま眉を寄せる。
「それが悪いこととは限りませんよ、坊ちゃん」
自分の前では決して弱みを見せないヘンリーのそんな姿に、スミスは何年か前のクリスマスの夜を思い出していた。
「彼だって、いつかは乗り越えていかなければならないのですから。誰にでも、私にだって、そういう傷のひとつくらいありますよ。何かのきっかけで傷が開く度に、強くなれるんですよ。その痛みを思い出す度に、強い想いに再生されていくんです。人間は、そんなふうにできているんです」
ジョン・スミスは、ヘンリーに、というよりも自分に言い聞かせるように言葉を紡いだ。
ヘンリーは驚いたように顔を上げた。
「あなたから、そんな言葉を貰えるとは思いませんでした」
スミスは、皮肉気に口先を跳ね上げる。
「長年あのお嬢さんと一緒にいると、そう思わずにはいられなくなる。そうでしょう?」
ヘンリーの顔からも笑みがこぼれた。どこか哀し気な、そんな笑みだったが。
「そうですね。その通りだ」
「それより、あっちに借りを作って大丈夫なんですか? むこうじゃ、あなたとストラドの経済効果をせっせと勘定しているでしょうに」
「そうでしょうね。でもフェイラーには借りを作ったのではなくて、貸しを返して頂いただけですよ」
つい今しがたの彼とは違う、いつものスミスの物憂げな、冷徹さを感じさせる口調に、ヘンリーは邪気のない顔で、屈託なく微笑みを返した。
「例の件、よろしくお願いします。冬までには決着を付けますから」
「やはり、本気ですか……」
静かに頷くヘンリーの眼差しにサラと同じ色彩を感じ、スミスは小さく嘆息した。
フェイラーだって、そうそう好き勝手はさせてくれないだろうに……。
そんな不安が胸を過る。つい、小さく吐息が漏れた。
「坊ちゃんは、やはりサラお嬢さんと似ていらっしゃる」
「最高の賛辞だ。僕の目標はサラだから」
ヘンリーは、すっきりした顔で立ち上がる。
「落ち込んでいても仕方がない。アスカに謝ってきますよ」
「今は行かない方がいい。もみくちゃにされますよ。フェイラーの護衛を呼んできます。坊ちゃんは先に寮へ戻って下さい。彼には伝えておきますから」
ヘンリーは苦笑いして、またストンと座り直した。
「またエリオットの時みたいになるのかな……。クリスマスは平気だったのに」
ウイスタンのクリスマス・コンサートは、バックのオーケストラが酷すぎた。
だが今回は、同じ学生オケとは思えない出来だった。
何よりも、ヘンリーが凄まじかった。
どだい、ほっておいてくれと言うこと自体が無理な話だろう……。
エリオットの時にしろ、今回にしろ、彼が本気で誰かのために奏でる時、その演奏は聴衆を熱狂させる。その時だけ、彼のいつも纏っている人を寄せ付けない冷たい空気が一変して、感情がほとばしる。耳元で、情熱的に愛を囁やいているように。
この坊ちゃんは、自分ってものを本当に解っているのだろうか?
ヘンリーのことは、幼い頃からよく知っているつもりだ。父親の代わりにその成長を見守ってきた。だがここにきて、大きく変貌を遂げようとしている彼に、彼自身戸惑い解らなくなっているのではないか、とそんな疑問がスミスの脳裏を過っていた。
「勝手に動かずに、ちゃんと待っていてくださいよ」
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