胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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一章

13

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「一七一五年製のストラディバリウスです」
 聞くでもなく耳に入ってきたアレンの声に、飛鳥は手にしていたメモ用紙から目を離して顔を上げた。少し離れた窓際で、アレンはエドガーとベンチに並んで話している。

「やっぱり黄金期の作品なんですね。すごいなぁ。先輩が、フェイラー財団のストラドは保存状態も管理も良くて、ストラドの中でも別格だって。リハーサルで聞いた時には全身が粟立つっていうか……。震えが止まりませんでした。先輩のヴァイオリンは、なんていうか、いつも感動に恐怖感が伴うんです。人の手による演奏には思えなくて。思わず十字を切りたくなる」


 顔を上気させて話し込むエドガーたちの会話から意識を戻し、飛鳥はまた、手元のメモに描かれたラフスケッチに目を落とす。

「つまり、角度が問題ってこと?」

 考え込むように首を傾げ、飛鳥は再び父にメモを差し出す。杜月氏はペンを持って図解しながら真剣な目つきで飛鳥を見つめたり、自身の思考をまとめているのか、急にじっと黙り込んだり、を繰り返している。

「こことここから、強いライトが当たっていただろう? それで、この方向から見た時には映像がぼやけていたんだ」
「ああ、そうか……。平均的な数値で明るさを測っているから……。やっぱり難しいなぁ。自動調節できない駄目なんだね。次の課題だね、ありがとう、父さん」
「せっかくグランプリを貰ったのに、ケチをつけるような事を言ってすまんなぁ」
 飛鳥は首を振って微笑んだ。
「褒められるより、マズいところを教えてもらえる方が嬉しいよ。次に進んでいけるもの。それに吉野なら、きっと、もっと手厳しいよ」

 傍らの父も「たしかに、あいつはなぁ、」と、やはり目を細めてくつくつと含み笑っている。
「あいつ、元気?」
「ああ、変わらないよ」
 つい懐かしくて、飛鳥は目許を緩ませた。日本にいる弟に、今日の快挙を一番に知らせたいのに、とそんな想いで胸が塞いだ。




「そろそろ、行きましょう。開場時間になったら混雑しますから」
 エドガーの言葉に、それぞれ立ち上がって移動し始める。飛鳥はみんなから少し遅れて、小声でウィリアムに声をかけた。

「ウィリアム、今日のヴァイオリンはいつものと違うの?」
「ヘンリーさまは、フェイラー財団所有のストラディバリウスを使われます」
「彼、ストラドは好きじゃないって、言っていたのに」
「そのようですね」
「どうして?」
「存じ上げません。ご本人にお聞きになられて下さい」
 ウィリアムは、やんわりと笑って答えた。



 今日の会場はクリスマスコンサートのホールとは違う、学校所属の小さなミュージックホールでの演奏なのに、やたらと警備員が配置されている。

 飛鳥が訝し気にウィリアムを見ると、「ストラディバリウスの警備です。時価推定五百万ドルですから」と彼は事も無げに教えてくれた。
「はぁ? それ、ヴァイオリンの値段なの?」
「値段というか……。売買するとなったらこの価格では無理でしょうけれど。かけられた保険金の値段です」

 世界が違いすぎる……。

「ヘンリーがいつも使っているのは?」
「イギリス製のモダンです。あの方は楽器にこだわりを持たれないので」

 飛鳥は、小首を傾げて目を細める。

「ヘンリーて、ほんと、謎だよ」

 ウィリアムはクスリと笑った。

 あの方も、同じことをおっしゃっていました。あなたが解らない、って。

 そう言おうかと咽喉まで出かかったが、言葉を呑み込んだ。




 開場になると同時にどっと人が流れ込んで来た。予めロープの張られている来賓席以外はすぐに埋まった。通路にも人が溢れて陣取りが始まっている。

「これもストラド効果?」
「知らされていないはずですが……」
「ヘンリー効果かな」
 飛鳥は深く息を吸ってゆっくりと吐き出すと、「彼は本当にすごいな。今日の演目が、どうしてチャイコフスキーなんだろうって思うよ……。それもヴァイオリン協奏曲……」心を落ち着けるように、ぎゅっと目を瞑る。

「どうしよう……。我慢できないかもしれない」
 ウィリアムは、心配そうにかがみこんで顔色悪い飛鳥に顔を寄せる。
「気分が優れないのですか?」
 飛鳥は首を振って、辛そうに笑う。
「大丈夫」
 反対側に座る杜月氏が、そっと飛鳥の拳に手を重ねる。
「大丈夫だよ」
 父の言葉に飛鳥は頷いた。



 ブザーが鳴り、明かりが消え、緞帳が上がる。
 拍手と歓声の中、ヘンリーが舞台に現れた。曲が始まる。

 飛鳥は両手を祈るように組み合わせて、じっと舞台を食い入るように見つめていた。
 ヘンリーの奏でる、細く、鋭い、冴え渡る高音は、ダイレクトに飛鳥の記憶に揺さぶりを掛けてくる。曲が進むに連れて、飛鳥は苦しそうな息遣いで眉根をしかめて顔を覆った。


 飛鳥の祖父は外国映画が好きだった。ヴェネチアやボヘミアのガラスが好きで、若い頃ヨーロッパを旅したらしい。懐かしがって、よく家のTVやDVDで映画を観ていた。いつも飛鳥と一緒に。

 でもこの映画は、祖父に映画館に連れて行かれて観たものだった。チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲がテーマになった映画。「Le Concert」。映画を見終わった後、主人公の指揮者の狂気が自分とだぶるのだ、と祖父は言った。そして、飛鳥に謝った。「お前を巻き込むんじゃなかった」と。

 祖父は自分が何を作っているのか判っていた。知っていた。でも、止めなかった。作りたいと思ったら、その想いに取りつかれる。それが正しいとか、間違っているとか、そんな問題じゃないんだ。形になるのを望んでいるものが目の前にある。それが悪魔の産物であっても、現実に形を与えずにはいられない。混沌の中から、ここから出してくれ、身体をくれと、声なき声の叫びが聞こえる。

 いつだって、誰だって、形を与えてから後悔するんだ。

 夢中になることを、のめり込むことを狂気というのなら、その恍惚は、その中にいる者にしかわからない。

 僕に謝らないで、お祖父ちゃん。
 僕はあなたに感謝しているんだ。
 あなたが僕に道を示してくれた。技術を与えてくれた。全てを教えてくれた。
 僕は必ず、あなたの意思を継いで、世界を生かすものを作り出します。

 世界を焼き尽くすものではなく、生かすものを……。


 むせび泣く息子の頭を、杜月氏はしっかりと抱きしめていた。

「お前はよくやっているよ。自分を責めるんじゃない」




 曲が終わり、大喝采の中、ヘンリーは舞台の上から、子どものように父親に縋りついて泣く飛鳥を、茫然と見下ろしていた。


 周囲の観客が総立ちで、アンコールを求めている。

 飛鳥はゆっくりと息を調えて、顔を上げた。

「今日、やっと、グラスフィールド社との長い悪夢が終わったんだね。ヘンリーが終わらせてくれた。この曲は、お祖父ちゃんへの鎮魂歌だ。映画のようなグランドフィナーレだね」

 杜月氏は無言で頷いて、飛鳥の背中をとんとんと叩いてやった。






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