胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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一章

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 六月祭当日の朝だった。ネットニュースの中にその文字を見つけた瞬間、足元が突如崩れ落ちてしまったように、飛鳥はがくがくと震え、立っていられなくなっていた。床に膝をつき、必死に身体を支えようと力を入れていた。途端に、胃の中身が逆流する。

「アスカ!」
 飛鳥の変調に、ヘンリーは駆け寄ってその背を支える。
 必死で口を押えて我慢する飛鳥に、「苦しいのか? 我慢しなくていい。吐くんだ」と、椅子にかけてあった自分の上着を掴むとすぐさま広げた。間髪入れずに、飛鳥は一気に嘔吐していた。涙を滲ませて、吐いて、吐いて、胃の中が空になって、もう何も出てこなくなってやっと、「ごめん。また、きみの制服を駄目にした」、と肩で息をしながら、背中を優しく擦ってくれているヘンリーに顔を向けることもなく、掠れた声で呟いた。

「それに、ごめん。せっかく弁護士を紹介してくれたのに……」
「どういう意味だ?」
「『杜月』が倒産した」
 口を拭いながら、飛鳥はやっとの思いで、空ろな瞳をヘンリーに向ける。

「馬鹿な……」
 ヘンリーは立ち上がり、飛鳥の見ていたパソコンの画面に、急ぎ目を走らせる。

 日本語……。

 急いで全文を翻訳に掛ける。

 英訳された記事の全文を追っていたヘンリーの口から、ほっと吐息が漏れる。

「誤解だよ、アスカ。民事再生法申請と倒産は違う」
「無理だよ、もう……」
「今日は、お父さまもいらっしゃるのだろう? ちゃんと説明して下さるよ。もし本当に会社が大変な現状にあるなら、わざわざこんなところまで、みえられるはずがないじゃないか?」

 ヘンリーはいたわる様に優しい視線を向け、膝を落として青褪めたその面を温めるように、彼の頬に手を添える。だが、飛鳥はおもむろに首を横に振る。

「僕のサインが必要なのかもしれないじゃないか。僕名義の特許を売れば、この程度の負債くらいなんとかなる」
 飛鳥は力なく呟いた。

「きみは売らないんだろう?」
「売らない。会社が潰れても、それだけはできない」
「立てるかい? 口を濯いで、顔を洗って」


 ヘンリーは飛鳥を支え起こし、覚束ない足取りの彼を洗面台まで支えて誘った。蛇口を捻る。勢いよく水が流れ出す。
 飛鳥は力なく笑った。

「また、きみに水をかけられるのか……」
「目が覚めるように、頭からかけてあげようか?」
「うん」
 自分から、飛鳥は蛇口の下に頭を突っ込んだ。そして、ずぶ濡れの髪を掻き上げ、滴を滴らせてヘンリーを振り返る。

「ありがとう。目が覚めた」

 ヘンリーは、彼の頭をタオルでわさわさと拭いてやった。



「頭を高く上げろ」

 タオルから顔を覗かせた飛鳥は、ヘンリーの目をしっかりと見つめて震える声で言った。

「ここへ来た初日に、きみが僕にくれた言葉だよ。あの頃の僕には出来なかった。今なら、どんな時もこの言葉を忘れない」

 ヘンリーは飛鳥の頭を掻き抱いて、ぎゅっと目を瞑って小声で囁いた。

「きみは僕の知っている誰よりも、誇り高く、堂々と、この言葉の通りに生きているよ」

 身体を離すと、ヘンリーは「きっと何かの間違いだ。僕は何も聞いていない」と、真剣な眼差しを彼に返した。

「昼までには詳細を調べさせる。今ならまだ手の打ちようがあるはずだよ」

 飛鳥は諦めたような、静かな瞳で薄く笑み刷き、ヘンリーを見上げる。

「きみは、いつだって諦めないんだね」
「それが僕の存在意義だからね。ノブレス・オブリージュって言葉を知っているだろう? きっと、きみは誤解しているよ。この言葉の指す本当の意味は、道理に従って、礼節を重んじ、規範になるような紳士的な生き方をすることじゃない。高貴な義務とは、仲間を最前線で命がけで守ることなんだ」

 ヘンリーは、いつもするように飛鳥の頭に手を置き、しなやかな指先で彼の額に貼り付く、濡れた長い前髪を梳き上げた。

「きみは僕の大事な友人で、大切な仲間だろう?」
 じっと目を見開いて見つめる飛鳥に、ヘンリーは、「だからきみは何も心配しなくていい。今日の化学発明コンクールを成功させることだけを考えていればいいんだ」と、優雅な、自信に満ちた笑みを向けた。

「昼食会で、きみのお父さまを紹介してくれる?」
 飛鳥は顔をくしゃくしゃにして、奥歯を噛み締めたまま頷いた。




 ヘンリーは飛鳥をベッドに座らせて、ちらりと時計に目をやった。
「少し休んでから行くといい。僕はもう出なきゃいけないから、ウィリアムを呼んで来るよ」
「ごめん。クリケット、後で応援に行くよ」
「ありがとう、待っているよ」

 ヘンリーは、全身白に紺のライン入ったクリケットのユニフォームと揃いの帽子を手に取った。だが、ドアに手をかけたところで思い出した様に声を上げた。

「ああ、そうだ、忘れるところだった。これを預かっていたんだ」
 壁に掛けてあるローブのポケットから、三インチほどのカレッジ・スカラーの制服を着た茶色の兎のぬいぐるみのキーホルダーを二つ、取り出し飛鳥に差し出した。

「最終学年生には記念にくれるって」
「ウイスティアン・ラビット……。きみのは、ちゃんと銀ボタンだね」
「監督生のはネクタイが赤だったよ」
「嬉しいな。イメージ通りだ」

 飛鳥が自分のキーホルダーを受け取ろうとすると、「きみのは、こっち」と、ヘンリーに銀ボタンの兎を手の中に押し付けられる。怪訝な面持ちで見上げると、ヘンリーはドアの手前で「交換しよう、記念に。じゃあ、ゆっくり休んでから来るんだよ」とにっこりと微笑み、そそくさと行ってしまった。






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