53 / 745
一章
6
しおりを挟む
「グラスフィールド社の粉飾会計の速報が流れたぞ!」
ロレンツォは、ドアを開けたヘンリーの耳許に早口で囁いた。
やっとだ!
ロレンツォの部屋で、二人は付けっ放しのパソコンを食い入るように見つめる。
「時間外取引で17%ダウンだ」
ロレンツォが振り返ると、ヘンリーは唇を歪めて酷薄な笑いを浮かべていた。ソファーに身を沈め、頭を反らせて、くっくと笑い声を立てていた。そして、「こんなものじゃ、済まないよ」と、さも可笑しそうに呟いた。
「どうやって、このネタを掴んだんだ?」
二カ月前、ヘンリーに、自分で調べろ、と言われたものの、ロレンツォがどうひっくり返してみても何も出てはこなかったのだ。
グラスフィールド社は、業績面では市場の信頼の厚い優良企業だった。
影で汚いマネをしている噂はあったが、確証はなかった。『杜月』の提訴でやっと一石投じることができた程度だった。
「普通に決算書だよ」
ヘンリーは皮肉な笑みを浮かべたまま、勝ち誇ったように告げた。
「数字にゆがみがあったんだ。ゆがみは必ず是正される」
「俺は、アスカの件以外は判らなかったぞ」
「そりゃそうだろう。会計事務所もグルだからな。表向きは完璧だよ」
ヘンリーは凄みのある笑みを浮かべて答える。ロレンツォは、参りましたとばかりに両手を広げた。
冷蔵庫から冷えたシャンパンを取り出し、ロレンツォは勢いよく栓を抜いた。
グラスを二つ手にして、ヘンリーに差し出す。
「祝杯をあげよう」
「僕はいいよ。外では飲まないことにしているんだ」
「外って……。ああ、噂は聞いている」
ロレンツォは、自分のグラスになみなみとシャンパンを注ぎ入れる。
「グラスは一つ。これならいいだろう?」
グラスを高く捧げ持ち、「乾杯。俺たちの勝利に!」と、ごくごくと飲んで見せた。
ヘンリーは、他人から差し出される飲食物は決して口にすることはない。そんな噂を小耳に挟んでいたことを思い出したからだ。薬物を盛られることを常に警戒しなければならない、エリオットは、そんな環境だったのだろうか、と不快な想像が脳裏を過る。
そんな思いを振り払い、同じグラスにもう一度シャンパンを注ぎ入れる。きらきらと弾ける気泡は、そんな重い懸念を忘れさせてくれる軽やかさに輝いている。
「きみの忍耐に」
ヘンリーも今度はグラスを受け取ると、一気に飲み干した。
「いつ買い戻す?」
「今あがっているのは不正会計だけだ。これから証券取引委員会の調査が入る。特別目的事業体を使った巨額損失隠しがでてくるのはまだこれからだ。倒産寸前まで待つんだ」
「巨額損失?」
「さすがに、学校の内部まで政治家の子息まで使って圧力を掛けてくる様な会社だよ。経営自体がまともじゃない」
「アスカのことか」
「他にもいろいろね。私怨があるんだ」
グラスフィールド社は、ガン・エデン社の主力商品のパソコンやスマートフォンのディスプレイシェア六割を担っている。このシェアを保つためにかなりの汚い仕事も請け負っている、とそんな噂だけは以前から囁かれていた。だが、ロレンツォの情報網をもってしても、その実態を掴むことはできなかったのだ。
「昔、ガン・エデン社が中途半端な業務用パソコンを出したことがある。うちのコズモスのひな型を盗んだんだ。当時はどういうルートでやられたのか全く判らなかった。今となっては単純なからくりさ。うちもグラスフィールド社のディスプレイを使っていたんだ。こんな会社とは知らずにね」
ヘンリーは憎々し気に、セレスト・ブルーの瞳を冷たく燃え立たせた。
「その時、優秀なエンジニアを一人殺された。やっと弔いができる」
ロレンツォは、背筋の凍る思いでヘンリーから目を逸らせた。その憎悪が自分に向けられたものではないと解っているのに、目を逸らさずにはいられなかった。
グラスフィールド社は、悪魔を怒らせたのか……。
そう思わずにはいられなかった。
「じき点呼だ。いったん戻るよ」
ヘンリーは立ち上がり、部屋を出て行った。
ロレンツォは軽く頷き目を瞑る。
身体から一気に力が抜けた。じっとりと冷や汗をかいていた。
辛辣で、皮肉屋で、冷ややかな男。だが、誰よりも責任感が強く、情が厚く、優雅で、気高く、美しい男。
ロレンツォはヘンリーをそう評価していた。はずだった。今日までは。
今、ここにいたのは誰なんだ?
荒涼としたヘンリーの内側を初めて目にした気がした。自らの焔で全てを焼き尽くす、地獄の業火のようだった。
ヘンリーに初めて会った日のことが、脳裏に蘇る。
あの瞳に魅了された。あの燃え立つような瞳に。今まで自分が味わったことのない激情を湛えたセレストブルーに、一瞬のうちに制圧された。
あの瞳の焔が意味していたものが、これほどの憎悪だとは思いもせずに。
今度こそ本当に、悪魔に魂をわしづかみにされた。ずぶりと、その爪が心臓にくいこむのがわかった。
胸の前で十字を切り、ロレンツォは頭を垂れ、神に許しを請う。
神よ、悪魔にかしずく私を、どうかお許しください……。
ロレンツォは、ドアを開けたヘンリーの耳許に早口で囁いた。
やっとだ!
ロレンツォの部屋で、二人は付けっ放しのパソコンを食い入るように見つめる。
「時間外取引で17%ダウンだ」
ロレンツォが振り返ると、ヘンリーは唇を歪めて酷薄な笑いを浮かべていた。ソファーに身を沈め、頭を反らせて、くっくと笑い声を立てていた。そして、「こんなものじゃ、済まないよ」と、さも可笑しそうに呟いた。
「どうやって、このネタを掴んだんだ?」
二カ月前、ヘンリーに、自分で調べろ、と言われたものの、ロレンツォがどうひっくり返してみても何も出てはこなかったのだ。
グラスフィールド社は、業績面では市場の信頼の厚い優良企業だった。
影で汚いマネをしている噂はあったが、確証はなかった。『杜月』の提訴でやっと一石投じることができた程度だった。
「普通に決算書だよ」
ヘンリーは皮肉な笑みを浮かべたまま、勝ち誇ったように告げた。
「数字にゆがみがあったんだ。ゆがみは必ず是正される」
「俺は、アスカの件以外は判らなかったぞ」
「そりゃそうだろう。会計事務所もグルだからな。表向きは完璧だよ」
ヘンリーは凄みのある笑みを浮かべて答える。ロレンツォは、参りましたとばかりに両手を広げた。
冷蔵庫から冷えたシャンパンを取り出し、ロレンツォは勢いよく栓を抜いた。
グラスを二つ手にして、ヘンリーに差し出す。
「祝杯をあげよう」
「僕はいいよ。外では飲まないことにしているんだ」
「外って……。ああ、噂は聞いている」
ロレンツォは、自分のグラスになみなみとシャンパンを注ぎ入れる。
「グラスは一つ。これならいいだろう?」
グラスを高く捧げ持ち、「乾杯。俺たちの勝利に!」と、ごくごくと飲んで見せた。
ヘンリーは、他人から差し出される飲食物は決して口にすることはない。そんな噂を小耳に挟んでいたことを思い出したからだ。薬物を盛られることを常に警戒しなければならない、エリオットは、そんな環境だったのだろうか、と不快な想像が脳裏を過る。
そんな思いを振り払い、同じグラスにもう一度シャンパンを注ぎ入れる。きらきらと弾ける気泡は、そんな重い懸念を忘れさせてくれる軽やかさに輝いている。
「きみの忍耐に」
ヘンリーも今度はグラスを受け取ると、一気に飲み干した。
「いつ買い戻す?」
「今あがっているのは不正会計だけだ。これから証券取引委員会の調査が入る。特別目的事業体を使った巨額損失隠しがでてくるのはまだこれからだ。倒産寸前まで待つんだ」
「巨額損失?」
「さすがに、学校の内部まで政治家の子息まで使って圧力を掛けてくる様な会社だよ。経営自体がまともじゃない」
「アスカのことか」
「他にもいろいろね。私怨があるんだ」
グラスフィールド社は、ガン・エデン社の主力商品のパソコンやスマートフォンのディスプレイシェア六割を担っている。このシェアを保つためにかなりの汚い仕事も請け負っている、とそんな噂だけは以前から囁かれていた。だが、ロレンツォの情報網をもってしても、その実態を掴むことはできなかったのだ。
「昔、ガン・エデン社が中途半端な業務用パソコンを出したことがある。うちのコズモスのひな型を盗んだんだ。当時はどういうルートでやられたのか全く判らなかった。今となっては単純なからくりさ。うちもグラスフィールド社のディスプレイを使っていたんだ。こんな会社とは知らずにね」
ヘンリーは憎々し気に、セレスト・ブルーの瞳を冷たく燃え立たせた。
「その時、優秀なエンジニアを一人殺された。やっと弔いができる」
ロレンツォは、背筋の凍る思いでヘンリーから目を逸らせた。その憎悪が自分に向けられたものではないと解っているのに、目を逸らさずにはいられなかった。
グラスフィールド社は、悪魔を怒らせたのか……。
そう思わずにはいられなかった。
「じき点呼だ。いったん戻るよ」
ヘンリーは立ち上がり、部屋を出て行った。
ロレンツォは軽く頷き目を瞑る。
身体から一気に力が抜けた。じっとりと冷や汗をかいていた。
辛辣で、皮肉屋で、冷ややかな男。だが、誰よりも責任感が強く、情が厚く、優雅で、気高く、美しい男。
ロレンツォはヘンリーをそう評価していた。はずだった。今日までは。
今、ここにいたのは誰なんだ?
荒涼としたヘンリーの内側を初めて目にした気がした。自らの焔で全てを焼き尽くす、地獄の業火のようだった。
ヘンリーに初めて会った日のことが、脳裏に蘇る。
あの瞳に魅了された。あの燃え立つような瞳に。今まで自分が味わったことのない激情を湛えたセレストブルーに、一瞬のうちに制圧された。
あの瞳の焔が意味していたものが、これほどの憎悪だとは思いもせずに。
今度こそ本当に、悪魔に魂をわしづかみにされた。ずぶりと、その爪が心臓にくいこむのがわかった。
胸の前で十字を切り、ロレンツォは頭を垂れ、神に許しを請う。
神よ、悪魔にかしずく私を、どうかお許しください……。
0
お気に入りに追加
19
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
校長先生の話が長い、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
学校によっては、毎週聞かされることになる校長先生の挨拶。
学校で一番多忙なはずのトップの話はなぜこんなにも長いのか。
とあるテレビ番組で関連書籍が取り上げられたが、実はそれが理由ではなかった。
寒々とした体育館で長時間体育座りをさせられるのはなぜ?
なぜ女子だけが前列に集められるのか?
そこには生徒が知りえることのない深い闇があった。
新年を迎え各地で始業式が始まるこの季節。
あなたの学校でも、実際に起きていることかもしれない。
お嬢様、お仕置の時間です。
moa
恋愛
私は御門 凛(みかど りん)、御門財閥の長女として産まれた。
両親は跡継ぎの息子が欲しかったようで女として産まれた私のことをよく思っていなかった。
私の世話は執事とメイド達がしてくれていた。
私が2歳になったとき、弟の御門 新(みかど あらた)が産まれた。
両親は念願の息子が産まれたことで私を執事とメイド達に渡し、新を連れて家を出ていってしまった。
新しい屋敷を建ててそこで暮らしているそうだが、必要な費用を送ってくれている以外は何も教えてくれてくれなかった。
私が小さい頃から執事としてずっと一緒にいる氷川 海(ひかわ かい)が身の回りの世話や勉強など色々してくれていた。
海は普段は優しくなんでもこなしてしまう完璧な執事。
しかし厳しいときは厳しくて怒らせるとすごく怖い。
海は執事としてずっと一緒にいると思っていたのにある日、私の中で何か特別な感情がある事に気付く。
しかし、愛を知らずに育ってきた私が愛と知るのは、まだ先の話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる