52 / 745
一章
5
しおりを挟む
翌日、ヘンリーは約束通り、いつもより二時間早く部屋に戻ってきた。
飛鳥はやはりベッドの上に胡坐をかいて座っていたが、今日はその膝上にノートパソコンを載せている。
「ヘンリー、始めるよ。箱に付いているセンサーを見て、ペンを持って」
部屋の中央にはあの黒い箱が置かれている。箱の端中央に小型のカメラのようなものが付いていた。
「どのくらい見ればいい?」
「数秒でいいんだ。OK」
指示通りにペンを持ち上げると、丁度胸元辺りに、15インチサイズの半透明のスクリーンが斜めに立ち上がる。ヘンリーは感心してそれを凝視し、吐息を漏らす。
「へぇ、どういう仕組みになっているの?」
「センサーで視線を捉えて距離を測っているんだ。スクリーンに絵を描いてくれる? 兎は描ける?」
「なんとなくは判るけれど、見本がないかな?」
ちょっと困ったように頭を傾げた彼に、「こんな感じで」と飛鳥は机に置かれた自分のマグカップを指さした。そこに兎の絵が印刷されている。誰もが知る人気絵本のキャラクターだ。
「ああ、なるほど。それみたいに服を着せるかい? どうせなら、ウイスタンの制服がいいかな。カレッジ・スカラーだ」
ヘンリーは兎の絵に制服を着せ、さらにローブを描き加える。
「うわ! それ、すごく可愛い! ちょっと待って。保存するから」
飛鳥は嬉々として、手許のパソコン画面上の、仮想スクリーンと同じ兎の画像を眺めながらキーを叩いた。
「ほんとに可愛いけれど、今は駄目だよ。普通の動物らしい兎のサンプルしか入れてないんだ。服なしでお願い。でもこれ、本番までに動画を作るよ。ついでにグッズも作って六月祭のバザーで売ろうよ!」
「こんなものがウケるのかな?」
「ウケるよ絶対! だって僕は、サマースクールで、エリオットの制服を着たテディ・ベアを弟のお土産に買って帰ったもの!」
飛鳥はそんなものが好きなのか――。
ヘンリーは唖然としながらも、首を振って笑った。
「それより、どうすればいい? 描き直せばいいの?」
「画面の上の方に画像編集欄があるだろう? それを使って」
再びヘンリーは仮想スクリーンに向き直り、飛鳥も気を引き締め直してパソコン画面を見つめ、指示を出す。
「黒で塗ってくれる?」
あっという間に描き上った黒兎を眺めながら、「やっぱり、きみ、上手いね」と、ため息を漏らす。
「これくらい自然だと、」
飛鳥はキーボードを叩きながら、ヘンリーに視線を向けた。
「こんな風にしても違和感がないんだ」
ヘンリーの描いた兎が、本物の兎になって画面から飛び出し辺りを跳ねまわる。
「ほら、ヘンリー、捕まえて! 可動範囲は、六フィート四方だよ!」
驚いて、立ち尽くしたまま兎を目で追っていたヘンリーは、慌てて兎に手を伸ばす。だが、兎は手の間をすり抜けて逃げてしまう。そして少し離れたベッドの上で、首を傾げてつぶらな瞳でヘンリーを見つめている。
ひとしきり追い回してみたものの、上手く捕まえられない。
「僕の勝ちだね」
兎に、いや飛鳥に勝利宣言され、ヘンリーはクスクス笑った。
「ああ、まったく敵わない」
「いつも冷静で物事に動じないきみを驚かせるのが、病みつきになりそうだよ」
飛鳥は誇らしげに笑っている。少し腹立たしいほどに。だが直ぐに、そんな彼を初めて目にすることが出来たことに、嬉しく微笑ましい温かな思いがヘンリーの内側を満たしていた。
「楽しいよ。すごく。これ、どういう仕組みなの? 可動範囲が随分と広がっているし、この兎、僕の動きにちゃんと反応していた」
「兎を動かしているのは、僕なんだ」
飛鳥はノートパソコンの画面をヘンリーに向けた。ベッドに腰を下ろし、その画面をのぞき込む。飛鳥はキーを叩いて室内を映した画面上の兎を動かしてみせた。
「それから、あれ」と、飛鳥は天井に取り付けたプロジェクターを指さす。
「ここで操作して、あれで投影しているんだ」
それからふと飛鳥は言おうか言うまいか、ともどかし気な迷いをみせ、ヘンリーにちらと視線を向けた。だが、ふっと目を伏せると、「第一号も見るかい?」と、キーを叩く。
黒い箱の上に、手足の生えた丸い塊がちょこんといる。長い耳らしきものがついている。その丸いのが、辺りをぴょんぴょん跳ね始める。
「わかった! これはトロールだね!」
その不可思議な何かに釘付けにされ、必死にその実態を掴もうと目で追っていたヘンリーは、明るい楽しそうな声音で、飛鳥を振り返る。
「兎だよ」
ヘンリーの笑みは一瞬で固まり、次いで、本格的に笑い出した。
「ある意味、才能だね。製図はあんなに細かく正確に描くのに、生き物はこんなに独創的だなんて!」
飛鳥は所在なさげにため息をついた。
「本番も手伝おうか?」
ヘンリーはいつもの柔らかい微笑みで、飛鳥を見つめている。
「そのために、今日呼んだんだろう?」
「構わない?」
飛鳥は、おずおずと遠慮がちに口を開いた。
「勿論」
ドン、ドン!
荒っぽいノックの音に、ヘンリーは立ち上がって扉を開けた。
顔を上気させたロレンツォが、ヘンリーの耳許に早口で囁いた。
「アスカ、続きはまた後で」
ヘンリーは振り向きざまそれだけ言うと、そのまま後ろ手に扉を閉め、部屋を後にした。何か言いたげな飛鳥の様子に、気づいてはいたのだけれど……。
飛鳥はやはりベッドの上に胡坐をかいて座っていたが、今日はその膝上にノートパソコンを載せている。
「ヘンリー、始めるよ。箱に付いているセンサーを見て、ペンを持って」
部屋の中央にはあの黒い箱が置かれている。箱の端中央に小型のカメラのようなものが付いていた。
「どのくらい見ればいい?」
「数秒でいいんだ。OK」
指示通りにペンを持ち上げると、丁度胸元辺りに、15インチサイズの半透明のスクリーンが斜めに立ち上がる。ヘンリーは感心してそれを凝視し、吐息を漏らす。
「へぇ、どういう仕組みになっているの?」
「センサーで視線を捉えて距離を測っているんだ。スクリーンに絵を描いてくれる? 兎は描ける?」
「なんとなくは判るけれど、見本がないかな?」
ちょっと困ったように頭を傾げた彼に、「こんな感じで」と飛鳥は机に置かれた自分のマグカップを指さした。そこに兎の絵が印刷されている。誰もが知る人気絵本のキャラクターだ。
「ああ、なるほど。それみたいに服を着せるかい? どうせなら、ウイスタンの制服がいいかな。カレッジ・スカラーだ」
ヘンリーは兎の絵に制服を着せ、さらにローブを描き加える。
「うわ! それ、すごく可愛い! ちょっと待って。保存するから」
飛鳥は嬉々として、手許のパソコン画面上の、仮想スクリーンと同じ兎の画像を眺めながらキーを叩いた。
「ほんとに可愛いけれど、今は駄目だよ。普通の動物らしい兎のサンプルしか入れてないんだ。服なしでお願い。でもこれ、本番までに動画を作るよ。ついでにグッズも作って六月祭のバザーで売ろうよ!」
「こんなものがウケるのかな?」
「ウケるよ絶対! だって僕は、サマースクールで、エリオットの制服を着たテディ・ベアを弟のお土産に買って帰ったもの!」
飛鳥はそんなものが好きなのか――。
ヘンリーは唖然としながらも、首を振って笑った。
「それより、どうすればいい? 描き直せばいいの?」
「画面の上の方に画像編集欄があるだろう? それを使って」
再びヘンリーは仮想スクリーンに向き直り、飛鳥も気を引き締め直してパソコン画面を見つめ、指示を出す。
「黒で塗ってくれる?」
あっという間に描き上った黒兎を眺めながら、「やっぱり、きみ、上手いね」と、ため息を漏らす。
「これくらい自然だと、」
飛鳥はキーボードを叩きながら、ヘンリーに視線を向けた。
「こんな風にしても違和感がないんだ」
ヘンリーの描いた兎が、本物の兎になって画面から飛び出し辺りを跳ねまわる。
「ほら、ヘンリー、捕まえて! 可動範囲は、六フィート四方だよ!」
驚いて、立ち尽くしたまま兎を目で追っていたヘンリーは、慌てて兎に手を伸ばす。だが、兎は手の間をすり抜けて逃げてしまう。そして少し離れたベッドの上で、首を傾げてつぶらな瞳でヘンリーを見つめている。
ひとしきり追い回してみたものの、上手く捕まえられない。
「僕の勝ちだね」
兎に、いや飛鳥に勝利宣言され、ヘンリーはクスクス笑った。
「ああ、まったく敵わない」
「いつも冷静で物事に動じないきみを驚かせるのが、病みつきになりそうだよ」
飛鳥は誇らしげに笑っている。少し腹立たしいほどに。だが直ぐに、そんな彼を初めて目にすることが出来たことに、嬉しく微笑ましい温かな思いがヘンリーの内側を満たしていた。
「楽しいよ。すごく。これ、どういう仕組みなの? 可動範囲が随分と広がっているし、この兎、僕の動きにちゃんと反応していた」
「兎を動かしているのは、僕なんだ」
飛鳥はノートパソコンの画面をヘンリーに向けた。ベッドに腰を下ろし、その画面をのぞき込む。飛鳥はキーを叩いて室内を映した画面上の兎を動かしてみせた。
「それから、あれ」と、飛鳥は天井に取り付けたプロジェクターを指さす。
「ここで操作して、あれで投影しているんだ」
それからふと飛鳥は言おうか言うまいか、ともどかし気な迷いをみせ、ヘンリーにちらと視線を向けた。だが、ふっと目を伏せると、「第一号も見るかい?」と、キーを叩く。
黒い箱の上に、手足の生えた丸い塊がちょこんといる。長い耳らしきものがついている。その丸いのが、辺りをぴょんぴょん跳ね始める。
「わかった! これはトロールだね!」
その不可思議な何かに釘付けにされ、必死にその実態を掴もうと目で追っていたヘンリーは、明るい楽しそうな声音で、飛鳥を振り返る。
「兎だよ」
ヘンリーの笑みは一瞬で固まり、次いで、本格的に笑い出した。
「ある意味、才能だね。製図はあんなに細かく正確に描くのに、生き物はこんなに独創的だなんて!」
飛鳥は所在なさげにため息をついた。
「本番も手伝おうか?」
ヘンリーはいつもの柔らかい微笑みで、飛鳥を見つめている。
「そのために、今日呼んだんだろう?」
「構わない?」
飛鳥は、おずおずと遠慮がちに口を開いた。
「勿論」
ドン、ドン!
荒っぽいノックの音に、ヘンリーは立ち上がって扉を開けた。
顔を上気させたロレンツォが、ヘンリーの耳許に早口で囁いた。
「アスカ、続きはまた後で」
ヘンリーは振り向きざまそれだけ言うと、そのまま後ろ手に扉を閉め、部屋を後にした。何か言いたげな飛鳥の様子に、気づいてはいたのだけれど……。
0
お気に入りに追加
19
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
お嬢様、お仕置の時間です。
moa
恋愛
私は御門 凛(みかど りん)、御門財閥の長女として産まれた。
両親は跡継ぎの息子が欲しかったようで女として産まれた私のことをよく思っていなかった。
私の世話は執事とメイド達がしてくれていた。
私が2歳になったとき、弟の御門 新(みかど あらた)が産まれた。
両親は念願の息子が産まれたことで私を執事とメイド達に渡し、新を連れて家を出ていってしまった。
新しい屋敷を建ててそこで暮らしているそうだが、必要な費用を送ってくれている以外は何も教えてくれてくれなかった。
私が小さい頃から執事としてずっと一緒にいる氷川 海(ひかわ かい)が身の回りの世話や勉強など色々してくれていた。
海は普段は優しくなんでもこなしてしまう完璧な執事。
しかし厳しいときは厳しくて怒らせるとすごく怖い。
海は執事としてずっと一緒にいると思っていたのにある日、私の中で何か特別な感情がある事に気付く。
しかし、愛を知らずに育ってきた私が愛と知るのは、まだ先の話。
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる