胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

文字の大きさ
上 下
51 / 758
一章

しおりを挟む
「アスカ、起きている?」
 この一週間、消灯直前にヘンリーが部屋に戻ってきた時は大抵、飛鳥はベッドに胡坐をかいて座ったまま空を見つめていた。余りにもじっと動かないままなので、目を開けたまま寝ているのかと、ヘンリーはつい心配になるのだ。
「おかえり、ヘンリー」
 飛鳥は同じ姿勢のまま、顔だけヘンリーの方へ向けた。そして、ちょっと小首を傾げて考えた後、「きみ、絵は得意?」と、ベッドからもそもそと下りて、傍に置いてあったスケッチブックをヘンリーの前に広げた。


 そこに描かれた絵を見て、ヘンリーは思わず長い指で口を覆い、肩を震わせて笑いを噛み殺した。そして一瞬の内に普段通りのポーカーフェイスを装うと、優し気な笑みを飛鳥に向ける。

「可愛い犬だね」
「これ、馬のつもりなんだけど」
 ヘンリーの反応に、飛鳥は申し訳なさそうに苦笑する。
「馬ならこんな感じじゃないかな」
 ヘンリーは胸ポケットから取り出したペンで、飛鳥の絵の横にサラサラと馬の絵を描いていく。

「きみは絵も上手いんだね」
 飛鳥は、どすんとベッドに腰を下ろすと大きくため息をつく。
「コンクール用のアイデアは決まったんだけど、僕のこの絵の不味さがネックでさ、」
「どんなことをするの?」

 だが、返事を聴く前にトントン、とドアがノックされた。


「点呼です。ヘンリー、アスカ」
「はい!」
 飛鳥は急いでドアを開けた。




 消灯後の月明りに照らされた部屋で、「ヘンリー、明日、試作品のデモテストを手伝ってくれる? そんなに時間は取らせないから」飛鳥はベッドに腰かけ、遠慮がちに訊ねてみた。逆光で相手の表情が見えないことが、わずかな勇気をくれたのだ。あからさまな拒絶を彼から受けても、傷付かないでいられるかもしれない、と。

「いいよ。明日は早めに戻って来る」

 だが返ってきた言葉は飛鳥の想像とは違っていた。

 ヘンリーは窓辺でバインダーの中身をぱらぱらと確認しながら、特に考える様子もなく返事をすると、ノートパソコンを片手に飛鳥の前を横切って行った。そしてドアを開け、廊下の常夜灯の照らす薄灯りの下、ふと振り返り微笑み、「おやすみ、アスカ」と部屋を後にした。




 避けられているわけじゃない。

 飛鳥はほっと吐息を吐き、ベッドに身を投げだし伸びをした。

 ヘンリーがこの部屋にいることは、ほとんどない。いつも、どこに行っているのかもわからない。以前デヴィッドが言っていた様に、誰かと同室だと神経が休まらないんだろうか、と飛鳥はとめどなく自問自答を繰り返していた。

 彼らが互いに話をすることすら、以前と比べて減ってしまった。

 自分の何がいけなかったのだろうか、と、飛鳥はさんざんに思いを巡らせている。だが、これといって思い当たることは見つからない。校内や、食事の時には、彼は今までと何も変わらないような気がする。もっとも、一歩この部屋を出るなり、いつもヘンリーは大勢に囲まれる。彼を独占し、ゆっくり話するなんて、とても出来なかったけれど。

 幾ら考えたって、判らないものは判らない。明日、聞いてみよう……。

 と、飛鳥は再びベッドに胡坐をかいて座り直した。薄明りの中、部屋の空間をじっと仰視して。





「日本市場が開くまで少し寝ておきたい。始まったら起こしてくれ」
 ヘンリーはロレンツォの部屋の一人掛けソファーに深くその身を沈めると目を瞑った。

「OK」
 ロレンツォはちらりと時計に目をやる。

 もう二時間もないじゃないか……。

 ヘンリーはあっという間に微動だもせず、静かに寝息を立てていた。

 せめて、ネクタイくらい外せばいいのに。この英国人め!

 ロレンツォはパソコンのある傍らの机に頬杖をついた。物音を立てぬようにと身動ぎもせず、そっとヘンリーを眺める。


 午後九時にNY市場が終わり、午前一時に日本市場が開くまでのわずかな間に仮眠を取る。こんな生活がここ暫く続いている。
 予想以上に米国住宅市場の崩壊のスピードが速かった。
 五月に入るなり前倒しで空売りを入れていく、とヘンリーに告げられて以降、二人はほとんど夜っぴいて株価を睨み続けている。ロンドン、NY,東京の主要市場の指数先物に分割して空売りを入れ、プットオプションを買う。だが未だに、英国内の株式市場には、崩壊の兆しは見えない。


 ヘンリーのロレンツォに対する物言いは、相変わらず冷たく辛辣だ。

 それでも、こうして自分の前で無防備な姿を晒してくれるほどには、信頼してもらえるようになったのだろうか? と、ロレンツォは、彼の寝顔を眺めながら、つらつらと思考を巡らせる。

 そもそもこいつは自社のコンピューターシステムを用いて自動売買アルゴリズム取引をしているのだから、夜中に起きて市場を監視する必要なんてないじゃないか。

 これは、俺のテストだな……。
 どこまで、従えるか。ついていけるか。
 どれだけ金に翻弄されずにいられるか。
 それから……。
 それとも、これだけ稼いでもまだ足りないほどの巨額の資金がいるのだろうか?


 ロレンツォには、未だにヘンリーの考えることが、まるで読めない。そして、そんな自分に歯ぎしりしているのだった。
 




しおりを挟む
感想 8

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

クラスメイトの美少女と無人島に流された件

桜井正宗
青春
 修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。  高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。  どうやら、漂流して流されていたようだった。  帰ろうにも島は『無人島』。  しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。  男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

霧のはし 虹のたもとで

萩尾雅縁
BL
大学受験に失敗した比良坂晃(ひらさかあきら)は、心機一転イギリスの大学へと留学する。 古ぼけた学生寮に嫌気のさした晃は、掲示板のメモからシェアハウスのルームメイトに応募するが……。 ひょんなことから始まった、晃・アルビー・マリーの共同生活。 美貌のアルビーに憧れる晃は、生活に無頓着な彼らに振り回されながらも奮闘する。 一つ屋根の下、徐々に明らかになる彼らの事情。 そして晃の真の目的は? 英国の四季を通じて織り成される、日常系心の旅路。

偏食の吸血鬼は人狼の血を好む

琥狗ハヤテ
BL
人類が未曽有の大災害により絶滅に瀕したとき救済の手を差し伸べたのは、不老不死として人間の文明の影で生きていた吸血鬼の一族だった。その現筆頭である吸血鬼の真祖・レオニス。彼は生き残った人類と協力し、長い時間をかけて文明の再建を果たした。 そして新たな世界を築き上げた頃、レオニスにはひとつ大きな悩みが生まれていた。 【吸血鬼であるのに、人の血にアレルギー反応を引き起こすということ】 そんな彼の前に、とても「美味しそうな」男が現れて―――…?! 【孤独でニヒルな(絶滅一歩手前)の人狼×紳士でちょっと天然(?)な吸血鬼】 ◆閲覧ありがとうございます。小説投稿は初めてですがのんびりと完結まで書いてゆけたらと思います。「pixiv」にも同時連載中。 ◆ダブル主人公・人狼と吸血鬼の一人称視点で交互に物語が進んでゆきます。 ◆現在・毎日17時頃更新。 ◆年齢制限の話数には(R)がつきます。ご注意ください。 ◆未来、部分的に挿絵や漫画で描けたらなと考えています☺

N -Revolution

フロイライン
ライト文芸
プロレスラーを目指す桐生珀は、何度も入門試験をクリアできず、ひょんな事からニューハーフプロレスの団体への参加を持ちかけられるが…

夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁
BL
「霧のはし 虹のたもとで 2nd season」  アルビーの留学を控えた二か月間の夏物語。  僕の心はきみには見えない――。  やっと通じ合えたと思ったのに――。 思いがけない闖入者に平穏を乱され、冷静ではいられないアルビー。 不可思議で傍若無人、何やら訳アリなコウの友人たちに振り回され、断ち切れない過去のしがらみが浮かび上がる。 夢と現を両手に掬い、境界線を綱渡りする。 アルビーの心に映る万華鏡のように脆く、危うい世界が広がる――。  *****  コウからアルビーへ一人称視点が切り替わっていますが、続編として内容は続いています。独立した作品としては読めませんので、「霧のはし 虹のたもとで」からお読み下さい。  注・精神疾患に関する記述があります。ご不快に感じられる面があるかもしれません。 (番外編「憂鬱な朝」をプロローグとして挿入しています)  

処理中です...