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一章
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「アスカ、起きている?」
この一週間、消灯直前にヘンリーが部屋に戻ってきた時は大抵、飛鳥はベッドに胡坐をかいて座ったまま空を見つめていた。余りにもじっと動かないままなので、目を開けたまま寝ているのかと、ヘンリーはつい心配になるのだ。
「おかえり、ヘンリー」
飛鳥は同じ姿勢のまま、顔だけヘンリーの方へ向けた。そして、ちょっと小首を傾げて考えた後、「きみ、絵は得意?」と、ベッドからもそもそと下りて、傍に置いてあったスケッチブックをヘンリーの前に広げた。
そこに描かれた絵を見て、ヘンリーは思わず長い指で口を覆い、肩を震わせて笑いを噛み殺した。そして一瞬の内に普段通りのポーカーフェイスを装うと、優し気な笑みを飛鳥に向ける。
「可愛い犬だね」
「これ、馬のつもりなんだけど」
ヘンリーの反応に、飛鳥は申し訳なさそうに苦笑する。
「馬ならこんな感じじゃないかな」
ヘンリーは胸ポケットから取り出したペンで、飛鳥の絵の横にサラサラと馬の絵を描いていく。
「きみは絵も上手いんだね」
飛鳥は、どすんとベッドに腰を下ろすと大きくため息をつく。
「コンクール用のアイデアは決まったんだけど、僕のこの絵の不味さがネックでさ、」
「どんなことをするの?」
だが、返事を聴く前にトントン、とドアがノックされた。
「点呼です。ヘンリー、アスカ」
「はい!」
飛鳥は急いでドアを開けた。
消灯後の月明りに照らされた部屋で、「ヘンリー、明日、試作品のデモテストを手伝ってくれる? そんなに時間は取らせないから」飛鳥はベッドに腰かけ、遠慮がちに訊ねてみた。逆光で相手の表情が見えないことが、わずかな勇気をくれたのだ。あからさまな拒絶を彼から受けても、傷付かないでいられるかもしれない、と。
「いいよ。明日は早めに戻って来る」
だが返ってきた言葉は飛鳥の想像とは違っていた。
ヘンリーは窓辺でバインダーの中身をぱらぱらと確認しながら、特に考える様子もなく返事をすると、ノートパソコンを片手に飛鳥の前を横切って行った。そしてドアを開け、廊下の常夜灯の照らす薄灯りの下、ふと振り返り微笑み、「おやすみ、アスカ」と部屋を後にした。
避けられているわけじゃない。
飛鳥はほっと吐息を吐き、ベッドに身を投げだし伸びをした。
ヘンリーがこの部屋にいることは、ほとんどない。いつも、どこに行っているのかもわからない。以前デヴィッドが言っていた様に、誰かと同室だと神経が休まらないんだろうか、と飛鳥はとめどなく自問自答を繰り返していた。
彼らが互いに話をすることすら、以前と比べて減ってしまった。
自分の何がいけなかったのだろうか、と、飛鳥はさんざんに思いを巡らせている。だが、これといって思い当たることは見つからない。校内や、食事の時には、彼は今までと何も変わらないような気がする。もっとも、一歩この部屋を出るなり、いつもヘンリーは大勢に囲まれる。彼を独占し、ゆっくり話するなんて、とても出来なかったけれど。
幾ら考えたって、判らないものは判らない。明日、聞いてみよう……。
と、飛鳥は再びベッドに胡坐をかいて座り直した。薄明りの中、部屋の空間をじっと仰視して。
「日本市場が開くまで少し寝ておきたい。始まったら起こしてくれ」
ヘンリーはロレンツォの部屋の一人掛けソファーに深くその身を沈めると目を瞑った。
「OK」
ロレンツォはちらりと時計に目をやる。
もう二時間もないじゃないか……。
ヘンリーはあっという間に微動だもせず、静かに寝息を立てていた。
せめて、ネクタイくらい外せばいいのに。この英国人め!
ロレンツォはパソコンのある傍らの机に頬杖をついた。物音を立てぬようにと身動ぎもせず、そっとヘンリーを眺める。
午後九時にNY市場が終わり、午前一時に日本市場が開くまでのわずかな間に仮眠を取る。こんな生活がここ暫く続いている。
予想以上に米国住宅市場の崩壊のスピードが速かった。
五月に入るなり前倒しで空売りを入れていく、とヘンリーに告げられて以降、二人はほとんど夜っぴいて株価を睨み続けている。ロンドン、NY,東京の主要市場の指数先物に分割して空売りを入れ、プットオプションを買う。だが未だに、英国内の株式市場には、崩壊の兆しは見えない。
ヘンリーのロレンツォに対する物言いは、相変わらず冷たく辛辣だ。
それでも、こうして自分の前で無防備な姿を晒してくれるほどには、信頼してもらえるようになったのだろうか? と、ロレンツォは、彼の寝顔を眺めながら、つらつらと思考を巡らせる。
そもそもこいつは自社のコンピューターシステムを用いて自動売買取引をしているのだから、夜中に起きて市場を監視する必要なんてないじゃないか。
これは、俺のテストだな……。
どこまで、従えるか。ついていけるか。
どれだけ金に翻弄されずにいられるか。
それから……。
それとも、これだけ稼いでもまだ足りないほどの巨額の資金がいるのだろうか?
ロレンツォには、未だにヘンリーの考えることが、まるで読めない。そして、そんな自分に歯ぎしりしているのだった。
この一週間、消灯直前にヘンリーが部屋に戻ってきた時は大抵、飛鳥はベッドに胡坐をかいて座ったまま空を見つめていた。余りにもじっと動かないままなので、目を開けたまま寝ているのかと、ヘンリーはつい心配になるのだ。
「おかえり、ヘンリー」
飛鳥は同じ姿勢のまま、顔だけヘンリーの方へ向けた。そして、ちょっと小首を傾げて考えた後、「きみ、絵は得意?」と、ベッドからもそもそと下りて、傍に置いてあったスケッチブックをヘンリーの前に広げた。
そこに描かれた絵を見て、ヘンリーは思わず長い指で口を覆い、肩を震わせて笑いを噛み殺した。そして一瞬の内に普段通りのポーカーフェイスを装うと、優し気な笑みを飛鳥に向ける。
「可愛い犬だね」
「これ、馬のつもりなんだけど」
ヘンリーの反応に、飛鳥は申し訳なさそうに苦笑する。
「馬ならこんな感じじゃないかな」
ヘンリーは胸ポケットから取り出したペンで、飛鳥の絵の横にサラサラと馬の絵を描いていく。
「きみは絵も上手いんだね」
飛鳥は、どすんとベッドに腰を下ろすと大きくため息をつく。
「コンクール用のアイデアは決まったんだけど、僕のこの絵の不味さがネックでさ、」
「どんなことをするの?」
だが、返事を聴く前にトントン、とドアがノックされた。
「点呼です。ヘンリー、アスカ」
「はい!」
飛鳥は急いでドアを開けた。
消灯後の月明りに照らされた部屋で、「ヘンリー、明日、試作品のデモテストを手伝ってくれる? そんなに時間は取らせないから」飛鳥はベッドに腰かけ、遠慮がちに訊ねてみた。逆光で相手の表情が見えないことが、わずかな勇気をくれたのだ。あからさまな拒絶を彼から受けても、傷付かないでいられるかもしれない、と。
「いいよ。明日は早めに戻って来る」
だが返ってきた言葉は飛鳥の想像とは違っていた。
ヘンリーは窓辺でバインダーの中身をぱらぱらと確認しながら、特に考える様子もなく返事をすると、ノートパソコンを片手に飛鳥の前を横切って行った。そしてドアを開け、廊下の常夜灯の照らす薄灯りの下、ふと振り返り微笑み、「おやすみ、アスカ」と部屋を後にした。
避けられているわけじゃない。
飛鳥はほっと吐息を吐き、ベッドに身を投げだし伸びをした。
ヘンリーがこの部屋にいることは、ほとんどない。いつも、どこに行っているのかもわからない。以前デヴィッドが言っていた様に、誰かと同室だと神経が休まらないんだろうか、と飛鳥はとめどなく自問自答を繰り返していた。
彼らが互いに話をすることすら、以前と比べて減ってしまった。
自分の何がいけなかったのだろうか、と、飛鳥はさんざんに思いを巡らせている。だが、これといって思い当たることは見つからない。校内や、食事の時には、彼は今までと何も変わらないような気がする。もっとも、一歩この部屋を出るなり、いつもヘンリーは大勢に囲まれる。彼を独占し、ゆっくり話するなんて、とても出来なかったけれど。
幾ら考えたって、判らないものは判らない。明日、聞いてみよう……。
と、飛鳥は再びベッドに胡坐をかいて座り直した。薄明りの中、部屋の空間をじっと仰視して。
「日本市場が開くまで少し寝ておきたい。始まったら起こしてくれ」
ヘンリーはロレンツォの部屋の一人掛けソファーに深くその身を沈めると目を瞑った。
「OK」
ロレンツォはちらりと時計に目をやる。
もう二時間もないじゃないか……。
ヘンリーはあっという間に微動だもせず、静かに寝息を立てていた。
せめて、ネクタイくらい外せばいいのに。この英国人め!
ロレンツォはパソコンのある傍らの机に頬杖をついた。物音を立てぬようにと身動ぎもせず、そっとヘンリーを眺める。
午後九時にNY市場が終わり、午前一時に日本市場が開くまでのわずかな間に仮眠を取る。こんな生活がここ暫く続いている。
予想以上に米国住宅市場の崩壊のスピードが速かった。
五月に入るなり前倒しで空売りを入れていく、とヘンリーに告げられて以降、二人はほとんど夜っぴいて株価を睨み続けている。ロンドン、NY,東京の主要市場の指数先物に分割して空売りを入れ、プットオプションを買う。だが未だに、英国内の株式市場には、崩壊の兆しは見えない。
ヘンリーのロレンツォに対する物言いは、相変わらず冷たく辛辣だ。
それでも、こうして自分の前で無防備な姿を晒してくれるほどには、信頼してもらえるようになったのだろうか? と、ロレンツォは、彼の寝顔を眺めながら、つらつらと思考を巡らせる。
そもそもこいつは自社のコンピューターシステムを用いて自動売買取引をしているのだから、夜中に起きて市場を監視する必要なんてないじゃないか。
これは、俺のテストだな……。
どこまで、従えるか。ついていけるか。
どれだけ金に翻弄されずにいられるか。
それから……。
それとも、これだけ稼いでもまだ足りないほどの巨額の資金がいるのだろうか?
ロレンツォには、未だにヘンリーの考えることが、まるで読めない。そして、そんな自分に歯ぎしりしているのだった。
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