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一章
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シナリオ通りなのに、ちっとも嬉しくない……。
ヘンリーはつまらなそうに、通りに面したカフェのテーブルに新聞を置いた。
「ロレンツォ、月曜日にグラスフィールド社以外の空売りをいったん全部買い戻せ」
「なんだ、もう終わりか? 潰れたのはマーレイじゃないぞ」
卓上に置かれたフィナンシャル・タイムズの一面トップには、『米投資銀行ポーラーズ社破綻』の文字がでかでかと印刷されている。
新聞の内容はよく知っていたので、ロレンツォは納得いかない面持ちで眉根をしかめた。
「終わりの始まりだよ」
ヘンリーはテーブルを指先で小刻みに叩きながら、淡々と説明を始めた。
「だけど、まずは米政府が救済処置を出してくる。これでいったん、市場は落ち着くよ。株価は反発する。七、八月にもう一度全力で戻りを叩く」
ロレンツォはますます訳が判らないといったふうに、畳みかけて訊ねた。
「根拠は?」
「7月の銀行の第二・四半期決算前には売り直したい。間違いなく巨額損失を出してくる。住宅市場の崩壊が実体経済に波及するまでには時差があるんだ。今はまだ前奏曲、本編は夏以降だ。うちのコズモスがはじき出した数字は八月だ。コズモスは決して間違わないよ」
説明は理に適っている。ロレンツォはそれ以上何も問わず、黙ったままヘンリーをじっと眺めた。
彼は、いつもと変わらずロレンツォには目もくれない。優雅にティーカップを口に運び、退屈そうに通りを行き交う人の流れを眺めている。
傍からみたら、こんな生々しい話をしているとはとても思えない静寂が、二人のテーブルを覆っていた。
ロレンツォが知っているだけでヘンリーの行った株取引には、すでに一億ポンド以上の利益が乗っているはずだ。
これだけの成功を収めているのに、何だってこんなにつまらなそうな顔をしているのだ? と、ロレンツォは我慢しきれず、納得のいかない奇異な疑問をヘンリーにぶつけた。
「英国貴族は金儲けが嫌いなのか?」
「そんなことはないよ。うちはもともと商家だしね。ただね、米国だけじゃなく欧州という木箱の中の林檎が、ポーラーズ社という腐った林檎一つ取り除いて、自分たちは違うとばかりに装っているのが滑稽でね。どいつもこいつも、いくら表面を磨いてみせても芯は腐りきっているくせにってね」
ヘンリーは、テーブルに飾られたラッパ水仙の花びらを、指先でそっと撫でている。
「ゲームが楽しいのも始めた時だけだな。どの林檎も、もう取り除かれるのを待つだけ。腐っていくさまを眺めて楽しむほど、僕は酔狂じゃないんだ」
おもむろに顔をあげ、彼はロレンツォを一瞥する。そして、「ああ、失礼。きみも同じ金融屋だったね」、と口の端を上げて皮肉に嗤った。
「アスカ!」
だがロレンツォは、そんなヘンリーをとおり超え、道一つ向こうを行く飛鳥を大声で呼び止めた。振り返った飛鳥とウィリアム・マーカスに、こちらへ来るように合図を送る。
道を渡ってきた二人に休んで行けと促した時、ウィリアムが、ヘンリーにちらりと視線を送ったのをロレンツォは見逃さない。
「どうぞ」
ヘンリーは傍らの椅子を引いて、二人に座るように勧めている。
ヘンリーのフットマン……。
こいつのせいで、随分と出遅れてしまった。アデル・マーレイの件にしろ、飛鳥の扱いにしろ、余りにも鮮やかにこなしてくる。
ロレンツォは冷ややかにウィリアムを睨め付け、尊大な口調で聞いた。
「お前、ヘンリーの親戚かなにか?」
「いいえ」
ウィリアムは、柔らかく微笑んだまま首を振る。
「その瞳、ソールスベリーの家系のものだ」
「偶然ですよ」
「僕も、最初驚いたよ」
ヘンリーも素知らぬ顔をして否定してくる。
きょとんとしている飛鳥に気づき、ヘンリーは軽く肩をすくめて説明する。
「ソールスベリー家の当主は、代々ウィリアムみたいな明るい黄緑の瞳なんだよ。僕は久々の異端なんだ。残念なことに母親似でね」
「へぇ、どこの家が何色の瞳とか、そんなことまで知られているの?」
飛鳥は驚いたようにヘンリーと、ウィリアムを見比べる。
「うちは特徴的だからね」
「ヘンリーの瞳の色もかなり珍しいと思うけどなぁ」
「米国の親族は、皆、この瞳だ」
ヘンリーは自嘲的に唇を歪めていた。
「そういえば、コンサートに来ていた妹さんもそうだったね」
「妹? 妹が来ていたのか?」
怪訝そうな顔をするロレンツォに、飛鳥は「ほら、きみの前にヘンリーに花束を渡していた子。ヘンリーにそっくりな」、と説明する。
「あー、なんとなく覚えている。似ていたか? 全然違ったぞ。いくら兄妹でも、こいつみたいなのがそうそういる訳ないじゃないか」
ロレンツォが大真面目な顔で言うので、みんなして笑い出した。
確かに、ヘンリーみたいな人が二人といるとは思えない。存在感が違う。纏う空気が違う。モノクロの世界の中で、彼だけが色が付いているみたいに人を惹きつける。
飛鳥は、テーブルに置かれた新聞にふと目を止めた。
ポーラーズ社破綻……。世界は今混乱の最中なのに、ここは時間が止まっているみたいだ……。
日本は、お父さんたちは大丈夫なんだろうか? 裁判は、進んでいるのかな……。
信頼できる友人たちとテーブルを囲みながらも、飛鳥は、カフェテラスを吹き抜けていく未だ冷たさの残る春の風に、心を揺さぶられ不安を巻き戻されていくような気がしていた。
ヘンリーはつまらなそうに、通りに面したカフェのテーブルに新聞を置いた。
「ロレンツォ、月曜日にグラスフィールド社以外の空売りをいったん全部買い戻せ」
「なんだ、もう終わりか? 潰れたのはマーレイじゃないぞ」
卓上に置かれたフィナンシャル・タイムズの一面トップには、『米投資銀行ポーラーズ社破綻』の文字がでかでかと印刷されている。
新聞の内容はよく知っていたので、ロレンツォは納得いかない面持ちで眉根をしかめた。
「終わりの始まりだよ」
ヘンリーはテーブルを指先で小刻みに叩きながら、淡々と説明を始めた。
「だけど、まずは米政府が救済処置を出してくる。これでいったん、市場は落ち着くよ。株価は反発する。七、八月にもう一度全力で戻りを叩く」
ロレンツォはますます訳が判らないといったふうに、畳みかけて訊ねた。
「根拠は?」
「7月の銀行の第二・四半期決算前には売り直したい。間違いなく巨額損失を出してくる。住宅市場の崩壊が実体経済に波及するまでには時差があるんだ。今はまだ前奏曲、本編は夏以降だ。うちのコズモスがはじき出した数字は八月だ。コズモスは決して間違わないよ」
説明は理に適っている。ロレンツォはそれ以上何も問わず、黙ったままヘンリーをじっと眺めた。
彼は、いつもと変わらずロレンツォには目もくれない。優雅にティーカップを口に運び、退屈そうに通りを行き交う人の流れを眺めている。
傍からみたら、こんな生々しい話をしているとはとても思えない静寂が、二人のテーブルを覆っていた。
ロレンツォが知っているだけでヘンリーの行った株取引には、すでに一億ポンド以上の利益が乗っているはずだ。
これだけの成功を収めているのに、何だってこんなにつまらなそうな顔をしているのだ? と、ロレンツォは我慢しきれず、納得のいかない奇異な疑問をヘンリーにぶつけた。
「英国貴族は金儲けが嫌いなのか?」
「そんなことはないよ。うちはもともと商家だしね。ただね、米国だけじゃなく欧州という木箱の中の林檎が、ポーラーズ社という腐った林檎一つ取り除いて、自分たちは違うとばかりに装っているのが滑稽でね。どいつもこいつも、いくら表面を磨いてみせても芯は腐りきっているくせにってね」
ヘンリーは、テーブルに飾られたラッパ水仙の花びらを、指先でそっと撫でている。
「ゲームが楽しいのも始めた時だけだな。どの林檎も、もう取り除かれるのを待つだけ。腐っていくさまを眺めて楽しむほど、僕は酔狂じゃないんだ」
おもむろに顔をあげ、彼はロレンツォを一瞥する。そして、「ああ、失礼。きみも同じ金融屋だったね」、と口の端を上げて皮肉に嗤った。
「アスカ!」
だがロレンツォは、そんなヘンリーをとおり超え、道一つ向こうを行く飛鳥を大声で呼び止めた。振り返った飛鳥とウィリアム・マーカスに、こちらへ来るように合図を送る。
道を渡ってきた二人に休んで行けと促した時、ウィリアムが、ヘンリーにちらりと視線を送ったのをロレンツォは見逃さない。
「どうぞ」
ヘンリーは傍らの椅子を引いて、二人に座るように勧めている。
ヘンリーのフットマン……。
こいつのせいで、随分と出遅れてしまった。アデル・マーレイの件にしろ、飛鳥の扱いにしろ、余りにも鮮やかにこなしてくる。
ロレンツォは冷ややかにウィリアムを睨め付け、尊大な口調で聞いた。
「お前、ヘンリーの親戚かなにか?」
「いいえ」
ウィリアムは、柔らかく微笑んだまま首を振る。
「その瞳、ソールスベリーの家系のものだ」
「偶然ですよ」
「僕も、最初驚いたよ」
ヘンリーも素知らぬ顔をして否定してくる。
きょとんとしている飛鳥に気づき、ヘンリーは軽く肩をすくめて説明する。
「ソールスベリー家の当主は、代々ウィリアムみたいな明るい黄緑の瞳なんだよ。僕は久々の異端なんだ。残念なことに母親似でね」
「へぇ、どこの家が何色の瞳とか、そんなことまで知られているの?」
飛鳥は驚いたようにヘンリーと、ウィリアムを見比べる。
「うちは特徴的だからね」
「ヘンリーの瞳の色もかなり珍しいと思うけどなぁ」
「米国の親族は、皆、この瞳だ」
ヘンリーは自嘲的に唇を歪めていた。
「そういえば、コンサートに来ていた妹さんもそうだったね」
「妹? 妹が来ていたのか?」
怪訝そうな顔をするロレンツォに、飛鳥は「ほら、きみの前にヘンリーに花束を渡していた子。ヘンリーにそっくりな」、と説明する。
「あー、なんとなく覚えている。似ていたか? 全然違ったぞ。いくら兄妹でも、こいつみたいなのがそうそういる訳ないじゃないか」
ロレンツォが大真面目な顔で言うので、みんなして笑い出した。
確かに、ヘンリーみたいな人が二人といるとは思えない。存在感が違う。纏う空気が違う。モノクロの世界の中で、彼だけが色が付いているみたいに人を惹きつける。
飛鳥は、テーブルに置かれた新聞にふと目を止めた。
ポーラーズ社破綻……。世界は今混乱の最中なのに、ここは時間が止まっているみたいだ……。
日本は、お父さんたちは大丈夫なんだろうか? 裁判は、進んでいるのかな……。
信頼できる友人たちとテーブルを囲みながらも、飛鳥は、カフェテラスを吹き抜けていく未だ冷たさの残る春の風に、心を揺さぶられ不安を巻き戻されていくような気がしていた。
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