50 / 745
一章
3
しおりを挟む
シナリオ通りなのに、ちっとも嬉しくない……。
ヘンリーはつまらなそうに、通りに面したカフェのテーブルに新聞を置いた。
「ロレンツォ、月曜日にグラスフィールド社以外の空売りをいったん全部買い戻せ」
「なんだ、もう終わりか? 潰れたのはマーレイじゃないぞ」
卓上に置かれたフィナンシャル・タイムズの一面トップには、『米投資銀行ポーラーズ社破綻』の文字がでかでかと印刷されている。
新聞の内容はよく知っていたので、ロレンツォは納得いかない面持ちで眉根をしかめた。
「終わりの始まりだよ」
ヘンリーはテーブルを指先で小刻みに叩きながら、淡々と説明を始めた。
「だけど、まずは米政府が救済処置を出してくる。これでいったん、市場は落ち着くよ。株価は反発する。七、八月にもう一度全力で戻りを叩く」
ロレンツォはますます訳が判らないといったふうに、畳みかけて訊ねた。
「根拠は?」
「7月の銀行の第二・四半期決算前には売り直したい。間違いなく巨額損失を出してくる。住宅市場の崩壊が実体経済に波及するまでには時差があるんだ。今はまだ前奏曲、本編は夏以降だ。うちのコズモスがはじき出した数字は八月だ。コズモスは決して間違わないよ」
説明は理に適っている。ロレンツォはそれ以上何も問わず、黙ったままヘンリーをじっと眺めた。
彼は、いつもと変わらずロレンツォには目もくれない。優雅にティーカップを口に運び、退屈そうに通りを行き交う人の流れを眺めている。
傍からみたら、こんな生々しい話をしているとはとても思えない静寂が、二人のテーブルを覆っていた。
ロレンツォが知っているだけでヘンリーの行った株取引には、すでに一億ポンド以上の利益が乗っているはずだ。
これだけの成功を収めているのに、何だってこんなにつまらなそうな顔をしているのだ? と、ロレンツォは我慢しきれず、納得のいかない奇異な疑問をヘンリーにぶつけた。
「英国貴族は金儲けが嫌いなのか?」
「そんなことはないよ。うちはもともと商家だしね。ただね、米国だけじゃなく欧州という木箱の中の林檎が、ポーラーズ社という腐った林檎一つ取り除いて、自分たちは違うとばかりに装っているのが滑稽でね。どいつもこいつも、いくら表面を磨いてみせても芯は腐りきっているくせにってね」
ヘンリーは、テーブルに飾られたラッパ水仙の花びらを、指先でそっと撫でている。
「ゲームが楽しいのも始めた時だけだな。どの林檎も、もう取り除かれるのを待つだけ。腐っていくさまを眺めて楽しむほど、僕は酔狂じゃないんだ」
おもむろに顔をあげ、彼はロレンツォを一瞥する。そして、「ああ、失礼。きみも同じ金融屋だったね」、と口の端を上げて皮肉に嗤った。
「アスカ!」
だがロレンツォは、そんなヘンリーをとおり超え、道一つ向こうを行く飛鳥を大声で呼び止めた。振り返った飛鳥とウィリアム・マーカスに、こちらへ来るように合図を送る。
道を渡ってきた二人に休んで行けと促した時、ウィリアムが、ヘンリーにちらりと視線を送ったのをロレンツォは見逃さない。
「どうぞ」
ヘンリーは傍らの椅子を引いて、二人に座るように勧めている。
ヘンリーのフットマン……。
こいつのせいで、随分と出遅れてしまった。アデル・マーレイの件にしろ、飛鳥の扱いにしろ、余りにも鮮やかにこなしてくる。
ロレンツォは冷ややかにウィリアムを睨め付け、尊大な口調で聞いた。
「お前、ヘンリーの親戚かなにか?」
「いいえ」
ウィリアムは、柔らかく微笑んだまま首を振る。
「その瞳、ソールスベリーの家系のものだ」
「偶然ですよ」
「僕も、最初驚いたよ」
ヘンリーも素知らぬ顔をして否定してくる。
きょとんとしている飛鳥に気づき、ヘンリーは軽く肩をすくめて説明する。
「ソールスベリー家の当主は、代々ウィリアムみたいな明るい黄緑の瞳なんだよ。僕は久々の異端なんだ。残念なことに母親似でね」
「へぇ、どこの家が何色の瞳とか、そんなことまで知られているの?」
飛鳥は驚いたようにヘンリーと、ウィリアムを見比べる。
「うちは特徴的だからね」
「ヘンリーの瞳の色もかなり珍しいと思うけどなぁ」
「米国の親族は、皆、この瞳だ」
ヘンリーは自嘲的に唇を歪めていた。
「そういえば、コンサートに来ていた妹さんもそうだったね」
「妹? 妹が来ていたのか?」
怪訝そうな顔をするロレンツォに、飛鳥は「ほら、きみの前にヘンリーに花束を渡していた子。ヘンリーにそっくりな」、と説明する。
「あー、なんとなく覚えている。似ていたか? 全然違ったぞ。いくら兄妹でも、こいつみたいなのがそうそういる訳ないじゃないか」
ロレンツォが大真面目な顔で言うので、みんなして笑い出した。
確かに、ヘンリーみたいな人が二人といるとは思えない。存在感が違う。纏う空気が違う。モノクロの世界の中で、彼だけが色が付いているみたいに人を惹きつける。
飛鳥は、テーブルに置かれた新聞にふと目を止めた。
ポーラーズ社破綻……。世界は今混乱の最中なのに、ここは時間が止まっているみたいだ……。
日本は、お父さんたちは大丈夫なんだろうか? 裁判は、進んでいるのかな……。
信頼できる友人たちとテーブルを囲みながらも、飛鳥は、カフェテラスを吹き抜けていく未だ冷たさの残る春の風に、心を揺さぶられ不安を巻き戻されていくような気がしていた。
ヘンリーはつまらなそうに、通りに面したカフェのテーブルに新聞を置いた。
「ロレンツォ、月曜日にグラスフィールド社以外の空売りをいったん全部買い戻せ」
「なんだ、もう終わりか? 潰れたのはマーレイじゃないぞ」
卓上に置かれたフィナンシャル・タイムズの一面トップには、『米投資銀行ポーラーズ社破綻』の文字がでかでかと印刷されている。
新聞の内容はよく知っていたので、ロレンツォは納得いかない面持ちで眉根をしかめた。
「終わりの始まりだよ」
ヘンリーはテーブルを指先で小刻みに叩きながら、淡々と説明を始めた。
「だけど、まずは米政府が救済処置を出してくる。これでいったん、市場は落ち着くよ。株価は反発する。七、八月にもう一度全力で戻りを叩く」
ロレンツォはますます訳が判らないといったふうに、畳みかけて訊ねた。
「根拠は?」
「7月の銀行の第二・四半期決算前には売り直したい。間違いなく巨額損失を出してくる。住宅市場の崩壊が実体経済に波及するまでには時差があるんだ。今はまだ前奏曲、本編は夏以降だ。うちのコズモスがはじき出した数字は八月だ。コズモスは決して間違わないよ」
説明は理に適っている。ロレンツォはそれ以上何も問わず、黙ったままヘンリーをじっと眺めた。
彼は、いつもと変わらずロレンツォには目もくれない。優雅にティーカップを口に運び、退屈そうに通りを行き交う人の流れを眺めている。
傍からみたら、こんな生々しい話をしているとはとても思えない静寂が、二人のテーブルを覆っていた。
ロレンツォが知っているだけでヘンリーの行った株取引には、すでに一億ポンド以上の利益が乗っているはずだ。
これだけの成功を収めているのに、何だってこんなにつまらなそうな顔をしているのだ? と、ロレンツォは我慢しきれず、納得のいかない奇異な疑問をヘンリーにぶつけた。
「英国貴族は金儲けが嫌いなのか?」
「そんなことはないよ。うちはもともと商家だしね。ただね、米国だけじゃなく欧州という木箱の中の林檎が、ポーラーズ社という腐った林檎一つ取り除いて、自分たちは違うとばかりに装っているのが滑稽でね。どいつもこいつも、いくら表面を磨いてみせても芯は腐りきっているくせにってね」
ヘンリーは、テーブルに飾られたラッパ水仙の花びらを、指先でそっと撫でている。
「ゲームが楽しいのも始めた時だけだな。どの林檎も、もう取り除かれるのを待つだけ。腐っていくさまを眺めて楽しむほど、僕は酔狂じゃないんだ」
おもむろに顔をあげ、彼はロレンツォを一瞥する。そして、「ああ、失礼。きみも同じ金融屋だったね」、と口の端を上げて皮肉に嗤った。
「アスカ!」
だがロレンツォは、そんなヘンリーをとおり超え、道一つ向こうを行く飛鳥を大声で呼び止めた。振り返った飛鳥とウィリアム・マーカスに、こちらへ来るように合図を送る。
道を渡ってきた二人に休んで行けと促した時、ウィリアムが、ヘンリーにちらりと視線を送ったのをロレンツォは見逃さない。
「どうぞ」
ヘンリーは傍らの椅子を引いて、二人に座るように勧めている。
ヘンリーのフットマン……。
こいつのせいで、随分と出遅れてしまった。アデル・マーレイの件にしろ、飛鳥の扱いにしろ、余りにも鮮やかにこなしてくる。
ロレンツォは冷ややかにウィリアムを睨め付け、尊大な口調で聞いた。
「お前、ヘンリーの親戚かなにか?」
「いいえ」
ウィリアムは、柔らかく微笑んだまま首を振る。
「その瞳、ソールスベリーの家系のものだ」
「偶然ですよ」
「僕も、最初驚いたよ」
ヘンリーも素知らぬ顔をして否定してくる。
きょとんとしている飛鳥に気づき、ヘンリーは軽く肩をすくめて説明する。
「ソールスベリー家の当主は、代々ウィリアムみたいな明るい黄緑の瞳なんだよ。僕は久々の異端なんだ。残念なことに母親似でね」
「へぇ、どこの家が何色の瞳とか、そんなことまで知られているの?」
飛鳥は驚いたようにヘンリーと、ウィリアムを見比べる。
「うちは特徴的だからね」
「ヘンリーの瞳の色もかなり珍しいと思うけどなぁ」
「米国の親族は、皆、この瞳だ」
ヘンリーは自嘲的に唇を歪めていた。
「そういえば、コンサートに来ていた妹さんもそうだったね」
「妹? 妹が来ていたのか?」
怪訝そうな顔をするロレンツォに、飛鳥は「ほら、きみの前にヘンリーに花束を渡していた子。ヘンリーにそっくりな」、と説明する。
「あー、なんとなく覚えている。似ていたか? 全然違ったぞ。いくら兄妹でも、こいつみたいなのがそうそういる訳ないじゃないか」
ロレンツォが大真面目な顔で言うので、みんなして笑い出した。
確かに、ヘンリーみたいな人が二人といるとは思えない。存在感が違う。纏う空気が違う。モノクロの世界の中で、彼だけが色が付いているみたいに人を惹きつける。
飛鳥は、テーブルに置かれた新聞にふと目を止めた。
ポーラーズ社破綻……。世界は今混乱の最中なのに、ここは時間が止まっているみたいだ……。
日本は、お父さんたちは大丈夫なんだろうか? 裁判は、進んでいるのかな……。
信頼できる友人たちとテーブルを囲みながらも、飛鳥は、カフェテラスを吹き抜けていく未だ冷たさの残る春の風に、心を揺さぶられ不安を巻き戻されていくような気がしていた。
0
お気に入りに追加
19
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
お嬢様、お仕置の時間です。
moa
恋愛
私は御門 凛(みかど りん)、御門財閥の長女として産まれた。
両親は跡継ぎの息子が欲しかったようで女として産まれた私のことをよく思っていなかった。
私の世話は執事とメイド達がしてくれていた。
私が2歳になったとき、弟の御門 新(みかど あらた)が産まれた。
両親は念願の息子が産まれたことで私を執事とメイド達に渡し、新を連れて家を出ていってしまった。
新しい屋敷を建ててそこで暮らしているそうだが、必要な費用を送ってくれている以外は何も教えてくれてくれなかった。
私が小さい頃から執事としてずっと一緒にいる氷川 海(ひかわ かい)が身の回りの世話や勉強など色々してくれていた。
海は普段は優しくなんでもこなしてしまう完璧な執事。
しかし厳しいときは厳しくて怒らせるとすごく怖い。
海は執事としてずっと一緒にいると思っていたのにある日、私の中で何か特別な感情がある事に気付く。
しかし、愛を知らずに育ってきた私が愛と知るのは、まだ先の話。
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる