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一章
インターリュード
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「ただいま戻りました」
ウィリアム・マーカスは、玄関で出迎えた父に嬉しそうな笑顔を向けた。
マーカスは、三角巾で右腕を吊り、顔中擦り傷だらけの息子の姿を見て顔をしかめる。
「坊ちゃんに、何かあったのかい?」
「いいえ。でも、大切にされている方が危険な目に」
「お役に立てたかい?」
頷く息子にマーカスは誇らしげな笑みを返し、怪我をしていない方の肩を叩くと中に入るよう促した。
「くたびれたろう、お茶にしよう」
「ウィリアム!」
使用人用ダイニング・ルームに駆け込んできたその少女に敬意を示すため、ウィリアムは椅子から立ち上がる。
「ウィリアム、怪我はひどいの? ヘンリーは大丈夫? アスカは?」
「ヘンリー様はお元気です。トヅキ先輩も、お怪我はありません。私も、勤めに支障はございません」
そつのないウィリアムの返答に、サラは、すっと考えるように目を細める。
「座って。構わないから。…………。アスカは、階段から突き落とされたの?」
ヘンリーはサラを心配させるようなことは一切言わない。今回も、飛鳥が階段から落ちて脳震盪を起こし絶対安静だから、看病のためにハーフタームは帰れない、とだけ連絡があった。
「いいえ。Aレベル試験が終わったばかりで、過労で足を踏み外されたのです。たまたま私が傍にいましたので、」
「一緒に落ちたの?」
「お守りしきれず、申し訳ありません」
サラは首を傾げて疑わしそうな瞳でウィリアムを見つめた。だが、それ以上は問わなかった。
「お茶の邪魔をしてごめんなさい」
踵を返して部屋を後にする。
サラは自室へと続く長い廊下を早足で戻りながら、一人悶々と思案に暮れる。
ヘンリーは、サラがこの家のことを知ろうとすることを嫌がる。ヘンリーの家族や、友人、父のことも。
サラは、好きなことをしていればいいんだよ。と、いつも優しく言ってはくれるけど、サラが誰かと親しくなるのは嫌がる。
ヘンリーは、エンジニアのトーマスが嫌いだ。彼がこの屋敷に来るたびに機嫌が悪くなる。
インターネットで誰かと親しくなることさえ、ヘンリーは嫌がった。
ヘンリーが嫌がるから、サラは自分で誰かとチャットするのはやめてしまった。それなのに、彼は今、サラがインターネットで話したことのある、ただ一人の人に夢中だ。
もうずっと、休暇中に帰ってこないなんてこと、なかったのに!
飛鳥に会ってみたい――。
そんな事を言ったら、やっぱり、ヘンリーは嫌がるのだろうか?
いくら考えを巡らせてみたところで、彼女には、遠く離れたヘンリーの心の内など、解り様がなかった。
ウィリアムはサラの後ろ姿を見送りながら、肩を撫で下ろしていた。緊張を解き父を一瞥すると、座り直して何事もなかったかのようにティーカップを持ち上げる。
彼は、ソールスベリー家に長年勤める執事のマーカスの息子で、ヘンリーよりも一つ年下だ。余りサラとは顔を合わせることはない。寧ろ人と接することの苦手なサラを慮って、努めて接することがないようにしていた。
サラお嬢様は苦手だ――。
自分とよく似た、いや、比べようもないキラキラとした宝石のような、あのライムグリーンの瞳でじっと見つめられると、魂まで見透かされてしまいそうで、緊張して上手く喋れなくなる。あの褐色の肌が、余計に魔術じみた彼女の不可思議さに拍車を掛けているのかもしれない。
ウィリアムは、ほっと息を継いでティーカップを傾けた。
サラお嬢様に比べたら、杜月飛鳥はまだ判り易い。事業のことを抜きにしても、ヘンリー様が彼を大切になさるのも解る気がする。
彼は、なんとも、可愛らしいもの。
飛鳥のくるくると頻繁に変わる表情や、夢中で何かに取り組んでいる時の真剣さ、それに、おそらく本来は人懐っこい性格だろうに、いつも躊躇して辛そうに一歩引いた姿勢で人に接している様子を、ウィリアムは思い返していた。
「父さん、ヘンリー様の新しいご友人のアスカ・トヅキさんは東洋人で、サラ様と同じくらい才能豊かな方なんです」
マーカスは嬉しそうに頷きながら、「それは喜ばしい。新しい名前は、プレップ以来じゃないか」と、息子の肩に手を置いた。
「とても優しい方です」
ウィリアムは、父を見上げて目を細める。
「お茶のおかわりは? ボイドさんのケーキもある。お前のために焼いてくれたんだ」
「いただきます。ヘンリー様も、彼女のケーキが懐かしいとおっしゃっていました」
「ボイドさんに頼んでおこう。お前が戻る時、お持ちすればいい」
「いえ、僕は、明日にはオックスフォードに行きます。用事を承っていますので」
残念そうに、マーカスは小さくため息を吐く。
「日曜日に一度こちらに寄ってから学校に戻ります。その時にお願いできますか」
だが、続けて加えられた息子の言葉に、満足そうに頬を緩ませた。
どうするのが、一番、満足していただけるかな……。
トヅキ先輩を階段から突き飛ばしたロバート・ウイリアムズも、この休暇中に始末をつけておきたいし……。
そんな胸の内は露とも表に出すこともなく、ウィリアムはにこやかな笑みを父親に向けている。
「ボイドさんのケーキ、本当に美味しいですね。ご友人も増えられたことですし、大きいサイズでお願いしますね」
笑顔を崩さずお茶を飲み、怪我をしていない方の手で器用にケーキを切り分け、口に運ぶ。
暖房で曇った窓越しに見える景色は、どんよりと重く、未だ寒々しく冬枯れている。ロンドンから以北にあるこの地には、春の訪れはまだ見えない。
ウィリアム・マーカスは、玄関で出迎えた父に嬉しそうな笑顔を向けた。
マーカスは、三角巾で右腕を吊り、顔中擦り傷だらけの息子の姿を見て顔をしかめる。
「坊ちゃんに、何かあったのかい?」
「いいえ。でも、大切にされている方が危険な目に」
「お役に立てたかい?」
頷く息子にマーカスは誇らしげな笑みを返し、怪我をしていない方の肩を叩くと中に入るよう促した。
「くたびれたろう、お茶にしよう」
「ウィリアム!」
使用人用ダイニング・ルームに駆け込んできたその少女に敬意を示すため、ウィリアムは椅子から立ち上がる。
「ウィリアム、怪我はひどいの? ヘンリーは大丈夫? アスカは?」
「ヘンリー様はお元気です。トヅキ先輩も、お怪我はありません。私も、勤めに支障はございません」
そつのないウィリアムの返答に、サラは、すっと考えるように目を細める。
「座って。構わないから。…………。アスカは、階段から突き落とされたの?」
ヘンリーはサラを心配させるようなことは一切言わない。今回も、飛鳥が階段から落ちて脳震盪を起こし絶対安静だから、看病のためにハーフタームは帰れない、とだけ連絡があった。
「いいえ。Aレベル試験が終わったばかりで、過労で足を踏み外されたのです。たまたま私が傍にいましたので、」
「一緒に落ちたの?」
「お守りしきれず、申し訳ありません」
サラは首を傾げて疑わしそうな瞳でウィリアムを見つめた。だが、それ以上は問わなかった。
「お茶の邪魔をしてごめんなさい」
踵を返して部屋を後にする。
サラは自室へと続く長い廊下を早足で戻りながら、一人悶々と思案に暮れる。
ヘンリーは、サラがこの家のことを知ろうとすることを嫌がる。ヘンリーの家族や、友人、父のことも。
サラは、好きなことをしていればいいんだよ。と、いつも優しく言ってはくれるけど、サラが誰かと親しくなるのは嫌がる。
ヘンリーは、エンジニアのトーマスが嫌いだ。彼がこの屋敷に来るたびに機嫌が悪くなる。
インターネットで誰かと親しくなることさえ、ヘンリーは嫌がった。
ヘンリーが嫌がるから、サラは自分で誰かとチャットするのはやめてしまった。それなのに、彼は今、サラがインターネットで話したことのある、ただ一人の人に夢中だ。
もうずっと、休暇中に帰ってこないなんてこと、なかったのに!
飛鳥に会ってみたい――。
そんな事を言ったら、やっぱり、ヘンリーは嫌がるのだろうか?
いくら考えを巡らせてみたところで、彼女には、遠く離れたヘンリーの心の内など、解り様がなかった。
ウィリアムはサラの後ろ姿を見送りながら、肩を撫で下ろしていた。緊張を解き父を一瞥すると、座り直して何事もなかったかのようにティーカップを持ち上げる。
彼は、ソールスベリー家に長年勤める執事のマーカスの息子で、ヘンリーよりも一つ年下だ。余りサラとは顔を合わせることはない。寧ろ人と接することの苦手なサラを慮って、努めて接することがないようにしていた。
サラお嬢様は苦手だ――。
自分とよく似た、いや、比べようもないキラキラとした宝石のような、あのライムグリーンの瞳でじっと見つめられると、魂まで見透かされてしまいそうで、緊張して上手く喋れなくなる。あの褐色の肌が、余計に魔術じみた彼女の不可思議さに拍車を掛けているのかもしれない。
ウィリアムは、ほっと息を継いでティーカップを傾けた。
サラお嬢様に比べたら、杜月飛鳥はまだ判り易い。事業のことを抜きにしても、ヘンリー様が彼を大切になさるのも解る気がする。
彼は、なんとも、可愛らしいもの。
飛鳥のくるくると頻繁に変わる表情や、夢中で何かに取り組んでいる時の真剣さ、それに、おそらく本来は人懐っこい性格だろうに、いつも躊躇して辛そうに一歩引いた姿勢で人に接している様子を、ウィリアムは思い返していた。
「父さん、ヘンリー様の新しいご友人のアスカ・トヅキさんは東洋人で、サラ様と同じくらい才能豊かな方なんです」
マーカスは嬉しそうに頷きながら、「それは喜ばしい。新しい名前は、プレップ以来じゃないか」と、息子の肩に手を置いた。
「とても優しい方です」
ウィリアムは、父を見上げて目を細める。
「お茶のおかわりは? ボイドさんのケーキもある。お前のために焼いてくれたんだ」
「いただきます。ヘンリー様も、彼女のケーキが懐かしいとおっしゃっていました」
「ボイドさんに頼んでおこう。お前が戻る時、お持ちすればいい」
「いえ、僕は、明日にはオックスフォードに行きます。用事を承っていますので」
残念そうに、マーカスは小さくため息を吐く。
「日曜日に一度こちらに寄ってから学校に戻ります。その時にお願いできますか」
だが、続けて加えられた息子の言葉に、満足そうに頬を緩ませた。
どうするのが、一番、満足していただけるかな……。
トヅキ先輩を階段から突き飛ばしたロバート・ウイリアムズも、この休暇中に始末をつけておきたいし……。
そんな胸の内は露とも表に出すこともなく、ウィリアムはにこやかな笑みを父親に向けている。
「ボイドさんのケーキ、本当に美味しいですね。ご友人も増えられたことですし、大きいサイズでお願いしますね」
笑顔を崩さずお茶を飲み、怪我をしていない方の手で器用にケーキを切り分け、口に運ぶ。
暖房で曇った窓越しに見える景色は、どんよりと重く、未だ寒々しく冬枯れている。ロンドンから以北にあるこの地には、春の訪れはまだ見えない。
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