胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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一章

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「すまなかった」
 応接間のソファーに座って頬を冷やしていたキャロラインに、ヘンリーは開口一番に謝った。
 だが彼女は、つんと澄ましてそっぽを向く。ヘンリーは、そんな彼女の態度を気に掛ける様子もなく、用事は済んだ、とばかりに踵を返す。
 キャロラインは、慌ててヘンリーを呼び止めた。

「アレンがエリオットを受験しているの」
「そう」
「ヘンリーが来てくれなくなって淋しいって」
「もうそんな子どもじゃないだろ? 僕にそんな暇はないよ」

 ヘンリーはポケットに手を突っ込んで、面倒くさそうに答えてい
る。

「さっきの、パ……。じゃなくて、女の子は何なの? どうしてここにいるの?」

 ヘンリーと同じセレスト・ブルーの双眼は、怒りに燃えあがって彼を見つめ、その口調にも詰るような響きがあった。

 自分よりもずっと幼いあんな子が、ヘンリーの傍に並んで座っているなんて!

 自分で見たものが、キャロラインには信じられなかったのだ。


「スミスさんの養女。出張の間ここで預かっているんだ。身体が弱い子だから療養も兼ねてね」

 表向きのサラの扱いは、そういう事にしてあるのだ。ヘンリーは妹の鼻持ちならない高慢な物言いに、ひたすら我慢しながら応じていた。

「ママに言うわ。関係ない子がこの屋敷にいるって」
「それは、お前の方だろ?」

 キャロラインは、目も、口も大きく開いたまま凍り付いた。

「それで何の用? どうでもいい話はいいから、さっさと要件を言えよ」

 暖炉の傍の壁にもたれて、ヘンリーは煙草に火をつけた。遠く米国から訊ねて来た妹に向き合おうともせず、薄っすらと流れる紫煙を目を細めて追い掛けている。

 キャロラインはぐっと奥歯を噛み締めて、そんな兄を睨み付けていたが、脱力して、「ヘンリー、ここに座って」と、掠れた小声で、悲しそうに自分の隣を掌で示した。

「僕は、人種差別主義者レイシストとは同席しない主義でね」

 ヘンリーは、あくまでも妹の方を見ようともしない。今は、窓から覗く灰色の空に、ぼんやりとした視線を向けたままだ。薄く曇った窓ガラスの向こう側は、さらさらとした粉雪が、細かく、絶え間なく、降りしきっている。

「動画を見たの。お祖父さまが、ストラディバリウスを貸してやるから、遊びに来いって」
 キャロラインは泣きそうになるのを堪えながら、俯いたままやっと小さな声でそれだけ伝えた。
「僕に広告塔になれって?」
 ヘンリーは吸い殻を暖炉に投げ入れ、すぐ傍に置いてある電話台に置かれたメモ用紙に走り書きをした。


「母に渡して」
 メモをローテーブルに置くと、ヘンリーはくるりと背中を向けて内線ボタンを押した。

 そして、ノックの音と共に現れたマーカスに「御客様のお帰りだ」と、一言告げるとそのまま部屋を後にした。
 涙の溜まった睫毛を瞬かせて、上目使いでそっと自分を見つめていた妹に、最後まで一瞥をくれることすらないままに。





 ロンドンに向かうハイヤーの中で、キャロラインは茫然自失して、力なくシートにもたれかかっていた。
 何も考えたくない。それなのに、意思に反して虚ろな心は、記憶の中の兄を探している。

 年に一度、クリスマスにだけ英国からやって来る二つ年上の兄は、本物の貴族の称号を持っていた。映画や御伽噺に出てくるどんな王子さまよりも綺麗で、優雅で、彼女の頼みを何でも聞いてくれる優しい騎士ナイトだった。
 その兄が、パブリックスクールに入学した年を最後に、自分の許に来ることがなくなった。母に聞いても、勉強が大変だから仕方ないというだけで、取り合ってくれなかった。

 久しぶりにその姿を目にしたのは動画サイトの中で、兄はヴァイオリンを弾いていた。変わらず優雅で、気品高い、キャロラインの自慢の王子さまぶりだった。



 やっと叔母の英国旅行のおまけで、兄に逢いに行くことを許してもらえたのに。
 演奏会で失敗した。叔母にも、それはあなたがいけないわ。と、叱られた。
 何が悪かったのか未だに判らない。兄の屋敷でも、何故、手をあげられるほど兄を怒らせたのか、何故、あんなに冷たくされたのか、まるで判らない……。


 大粒の涙が頬を伝い、こぼれ落ちる。
 涙に邪魔されて曇った視線を、キャロラインは兄から受け取ったメモに落とした。


 ――約束をお忘れですか?

 そこに書かれているのはそれだけ。

 母に聞けば、彼がなぜ怒っているのか教えて貰えるだろうか?

 久しぶりに会った兄は、やはり誰よりも美しくて、傍にいるだけで緊張して震えがくるほど威厳があって、今まで出会ったどんなセレブよりも素敵だったのに。

 クラスメイトの誰もが羨ましがる自慢の兄。
 どうして昔みたいに、笑いかけてくれないの?


 キャロラインは、我慢できずに、遂には嗚咽せずにはいられなくなっていた。だが、かつて自分が泣いていた時に優しく慰めてくれた兄は、もう思い出の中にしかいないのだ、という事実を認めることは、彼女には到底出来そうもないのだった。






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