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一章
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十二月に入ると、ウイスタン市街地の大通りはイルミネーションに彩られ、通りの中央に大きなツリーが飾られる。月半ばまで大聖堂前でクリスマス・マーケットが開かれるので、普段なら人通りの絶える日没後も多くの人々が行き交い、華やかで浮き立つような喧噪に包まれたクリスマスムード一色となるのだ。
「コンサートを終えたら、マーケットへ行こう。ウイスタンのクリスマス・マーケットは規模や催し物の多彩さで、国内でも有数の人気観光スポットなんだよ」
夕方からのコンサート本番を控えて、詰めのリハーサル準備をしながら、ヘンリー・ソールスベリーは杜月飛鳥に声をかけた。
ベッドに腰かけたまま難しい顔で考え込んでいた飛鳥は、それには答えず逆に質問を返した。
「コンサート、花でも持っていった方がいいのかな?」
「僕に?」
ヘンリーは嬉しそうに、晴れやかな笑みを見せる。
「それは、どうもありがとう」
機嫌の良さそうなヘンリーに勇気づけられ、飛鳥は言いにくそうに、頼まれ事も口にしてみた。
「もしも……。もしもだよ、カーテンコールで、ロレンツォがきみに花束を渡したら、きみは受け取る?」
ヘンリーはクスッと笑って、「受け取るよ。もしかして、前に言ったことを気にしていたの? 僕も昔のことを根に持ちすぎだった、て反省していたんだ。今はもう同じ寮の仲間なんだし、気持ちを改めたよ」
思いがけないヘンリーの返答だ。飛鳥はほっとしたように顔をほころばす。
「そうか、良かったよ。えっと、マーケットはどうしたらいい、? コンサートの後――」
「楽屋口で待っていて」
飛鳥が頷くと、ヘンリーは、じゃ、また後で、と軽く弾むように言い、部屋を後にした。
――彼が、きみを介して僕に近付こうとするなら、容赦はしないよ。
と言うほど、ヘンリーはロレンツォを毛嫌いしていたのに、意外なほどまともな返事をもらえた。飛鳥は心底安堵していた。ヘンリーが彼を嫌う理由も、なぜそこまで? と思うような些細な事だったし、ロレンツォは明るく気さくで社交的ないい奴だ。それなのに、彼と飛鳥に向けるヘンリーの視線はあまり違い過ぎる。だから飛鳥は、ロレンツォにある種の後ろめたさを感じていた。
迷惑ならやめるから、花を渡してもかまわないか訊いて欲しい。そうロレンツォに頼まれた時、これは「僕を介して近づこうとする」の範疇に入るのかどうか、と飛鳥はずいぶん迷ってしまった。けれど、思い切って訊いてみて良かった。
飛鳥は、さっぱりした顔で授業に向かっている。
ヘンリーたち音楽クラスは、朝から授業をぬけてリハーサルがある。だが一般の生徒は普段通り。課外授業がカットになるだけだ。
数学の授業で会えるかな、と、飛鳥はロレンツォの喜ぶ顔を想像しながら、階段を飛ぶようにかけていた。
「舞台と役者が揃ったよ」
音楽クラスの面々がそれぞれの楽器を抱えて市街地にある劇場に移動する道中の門前ゲート内ですれ違いざま、ヘンリーはエドワードに早口で告げた。
「今日?」
小声で呟かれた声にヘンリーは無言で頷く。だが、なお問いたそうなエドワードを尻目に、皆の後を追って足早に通り過ぎて行った。
いよいよコンサートの開始時間が迫っている。開場とともに流れ込んだ人混みが落ち着いた頃合いを見計らって、ロレンツォは悠然と座席に腰をおろした。すでに隣に陣取っている飛鳥の耳許に顔をよせ、小声だが、いささか興奮気味に礼を言う。
「アスカ、本当にありがとう」
「あれ? 花は?」
手ぶらで座る彼に、飛鳥はきょとんと首を傾げる。
「ここは暑いだろ。傷むと嫌だからな、外で持たせているんだ」
持たせているって、誰に?
そんな飛鳥の疑念の眼差しを勘違いしたのか、ロレンツォはニコニコと笑って早口で説明を続けた。
「心配しなくても、今回は失敗しないように色々考えたんだ。赤い薔薇はやめたよ。プロポーズするわけじゃないしな。下手なことをしたら、また突き返される」
「大丈夫だよ」
「すごく緊張しているんだ」
ロレンツォはじっと手を組み合わせて、いまだ幕の上がらない舞台に視線を流し凝視する。
好きっていうよりも、憧れ? 尊敬? ちょっと違うかな……。
飛鳥はロレンツォの真剣な眼差しに、恋だの愛だのとは違う一種のストイックさを感じていた。
だから、心の中でそっと呟いた。ロレンツォ、頑張れ! と。
開演のブザーが鳴った。
会場は満席で立ち見客までいる。
燕尾服姿のヘンリーの登場に、一斉に拍手が上がった。
『ベートーヴェン、ヴァイオリン協奏曲二長調作品61』
ははっ、ヘンリー絶好調だ。あんなに悩んでいたのが嘘みたいだ。一人で弾くときと同じように、いや、それ以上に楽しんでいる。
そんなににやにや笑いながら弾いていたらおかしいよ、て注意したのに「そう?」と聞き流された。そしてやっぱり笑いながら弾いている。
だけど、このオーケストラはヘンリーが引っ張っているんだ。視線で。わずかな所作で。全体を統制しているのはヘンリーだ。彼だからみんな安心してついていける。やっぱり、彼は、すごい。
そんな事を思いながら、自分も同じ様に満面の笑みで聴き入っているとは、飛鳥は気づいていない。
隣に座るロレンツォは始まった時と同じ姿勢のまま、上品な長い指を固く組みあわせて祈るように身じろぎもせず舞台に見入っている。
四十分を超える曲を終え、場内が拍手と歓声で沸き返る中、ロレンツォは席から立ち上がり正礼装の燕尾服の上からカレッジ・スカラーのローブを羽織った。飛鳥はロレンツォを見上げて、その手を一瞬だけ、ぎゅっと握る。ロレンツォは真剣な瞳で頷くと、急ぎ足で舞台に向かった。その後ろを花束を抱えた黒ずくめの男が追従する。
舞台上では、菫色のワンピースを着た少女が、ヘンリーに花束を渡したところだった。
「コンサートを終えたら、マーケットへ行こう。ウイスタンのクリスマス・マーケットは規模や催し物の多彩さで、国内でも有数の人気観光スポットなんだよ」
夕方からのコンサート本番を控えて、詰めのリハーサル準備をしながら、ヘンリー・ソールスベリーは杜月飛鳥に声をかけた。
ベッドに腰かけたまま難しい顔で考え込んでいた飛鳥は、それには答えず逆に質問を返した。
「コンサート、花でも持っていった方がいいのかな?」
「僕に?」
ヘンリーは嬉しそうに、晴れやかな笑みを見せる。
「それは、どうもありがとう」
機嫌の良さそうなヘンリーに勇気づけられ、飛鳥は言いにくそうに、頼まれ事も口にしてみた。
「もしも……。もしもだよ、カーテンコールで、ロレンツォがきみに花束を渡したら、きみは受け取る?」
ヘンリーはクスッと笑って、「受け取るよ。もしかして、前に言ったことを気にしていたの? 僕も昔のことを根に持ちすぎだった、て反省していたんだ。今はもう同じ寮の仲間なんだし、気持ちを改めたよ」
思いがけないヘンリーの返答だ。飛鳥はほっとしたように顔をほころばす。
「そうか、良かったよ。えっと、マーケットはどうしたらいい、? コンサートの後――」
「楽屋口で待っていて」
飛鳥が頷くと、ヘンリーは、じゃ、また後で、と軽く弾むように言い、部屋を後にした。
――彼が、きみを介して僕に近付こうとするなら、容赦はしないよ。
と言うほど、ヘンリーはロレンツォを毛嫌いしていたのに、意外なほどまともな返事をもらえた。飛鳥は心底安堵していた。ヘンリーが彼を嫌う理由も、なぜそこまで? と思うような些細な事だったし、ロレンツォは明るく気さくで社交的ないい奴だ。それなのに、彼と飛鳥に向けるヘンリーの視線はあまり違い過ぎる。だから飛鳥は、ロレンツォにある種の後ろめたさを感じていた。
迷惑ならやめるから、花を渡してもかまわないか訊いて欲しい。そうロレンツォに頼まれた時、これは「僕を介して近づこうとする」の範疇に入るのかどうか、と飛鳥はずいぶん迷ってしまった。けれど、思い切って訊いてみて良かった。
飛鳥は、さっぱりした顔で授業に向かっている。
ヘンリーたち音楽クラスは、朝から授業をぬけてリハーサルがある。だが一般の生徒は普段通り。課外授業がカットになるだけだ。
数学の授業で会えるかな、と、飛鳥はロレンツォの喜ぶ顔を想像しながら、階段を飛ぶようにかけていた。
「舞台と役者が揃ったよ」
音楽クラスの面々がそれぞれの楽器を抱えて市街地にある劇場に移動する道中の門前ゲート内ですれ違いざま、ヘンリーはエドワードに早口で告げた。
「今日?」
小声で呟かれた声にヘンリーは無言で頷く。だが、なお問いたそうなエドワードを尻目に、皆の後を追って足早に通り過ぎて行った。
いよいよコンサートの開始時間が迫っている。開場とともに流れ込んだ人混みが落ち着いた頃合いを見計らって、ロレンツォは悠然と座席に腰をおろした。すでに隣に陣取っている飛鳥の耳許に顔をよせ、小声だが、いささか興奮気味に礼を言う。
「アスカ、本当にありがとう」
「あれ? 花は?」
手ぶらで座る彼に、飛鳥はきょとんと首を傾げる。
「ここは暑いだろ。傷むと嫌だからな、外で持たせているんだ」
持たせているって、誰に?
そんな飛鳥の疑念の眼差しを勘違いしたのか、ロレンツォはニコニコと笑って早口で説明を続けた。
「心配しなくても、今回は失敗しないように色々考えたんだ。赤い薔薇はやめたよ。プロポーズするわけじゃないしな。下手なことをしたら、また突き返される」
「大丈夫だよ」
「すごく緊張しているんだ」
ロレンツォはじっと手を組み合わせて、いまだ幕の上がらない舞台に視線を流し凝視する。
好きっていうよりも、憧れ? 尊敬? ちょっと違うかな……。
飛鳥はロレンツォの真剣な眼差しに、恋だの愛だのとは違う一種のストイックさを感じていた。
だから、心の中でそっと呟いた。ロレンツォ、頑張れ! と。
開演のブザーが鳴った。
会場は満席で立ち見客までいる。
燕尾服姿のヘンリーの登場に、一斉に拍手が上がった。
『ベートーヴェン、ヴァイオリン協奏曲二長調作品61』
ははっ、ヘンリー絶好調だ。あんなに悩んでいたのが嘘みたいだ。一人で弾くときと同じように、いや、それ以上に楽しんでいる。
そんなににやにや笑いながら弾いていたらおかしいよ、て注意したのに「そう?」と聞き流された。そしてやっぱり笑いながら弾いている。
だけど、このオーケストラはヘンリーが引っ張っているんだ。視線で。わずかな所作で。全体を統制しているのはヘンリーだ。彼だからみんな安心してついていける。やっぱり、彼は、すごい。
そんな事を思いながら、自分も同じ様に満面の笑みで聴き入っているとは、飛鳥は気づいていない。
隣に座るロレンツォは始まった時と同じ姿勢のまま、上品な長い指を固く組みあわせて祈るように身じろぎもせず舞台に見入っている。
四十分を超える曲を終え、場内が拍手と歓声で沸き返る中、ロレンツォは席から立ち上がり正礼装の燕尾服の上からカレッジ・スカラーのローブを羽織った。飛鳥はロレンツォを見上げて、その手を一瞬だけ、ぎゅっと握る。ロレンツォは真剣な瞳で頷くと、急ぎ足で舞台に向かった。その後ろを花束を抱えた黒ずくめの男が追従する。
舞台上では、菫色のワンピースを着た少女が、ヘンリーに花束を渡したところだった。
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