胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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一章

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 小川に沿った遊歩道から少し奥に入ったベンチに、この寒空の下、ヘンリー・ソールスベリーが優雅に寛いでいた。
「判ったぞ、黒幕が誰か」エドワード・グレイは彼の横に腰をおろし、開口一番に告げた。
 
「アデル・マーレイ?」
「なんだ、知っていたのか」

 ヘンリーのいつも通りの平坦な声音にエドワードは、拍子抜けた、つまらなそうな反応を返して体を背もたれに倒した。

「手口がね、馬鹿の一つ覚えだから。そうじゃないかって思っただけだよ。僕も、厩舎と睡眠薬には何度か世話になったからね」
「あー、あったな、そんなことも……」


 ヘンリーはエリオット入学当初、始終先輩方にからまれていた。その筆頭がくだんのアデル・マーレイだった。嫌がらせで睡眠薬を飲まされれば、意識を失う前に自分で口に指を突っ込んで吐き戻していたし、何マイルも離れた場所にある馬場の厩舎に閉じ込められれば、夜中に裸馬を駆って自力で寮まで戻ったものだった。


「それで、どういう繋がり? マーレイがオックスフォードからわざわざ僕に逢いにきてくれた、って訳でもないだろ?」
「ああ、Dクラブだ。マーレイは今期Dクラブの会長で、下にウイスタンの卒業生が三人いる。劇場で飛鳥に声をかけたのが、その中の一人の弟で、実行犯はそいつらだ」
「しつこいな、まったく。腕一本折ったくらいで」
 ヘンリーは、憎々し気にマーレイを思いだす。
「腕よりも、恨んでいるのはこれだろうな」と、エドガーは自分の頬から顎に指先を滑らせる。
「自業自得だ。女の子じゃあるまいし。そのうち僕に責任を取って娶ってくれ、とでも言いだすんじゃないだろうね?」


 ヘンリーと三学年上のマーレイとの因縁めいた対決は、馬術の障害競技でたけなわを迎えた。マーレイが自分で張った罠に自分で嵌り、落馬して上半身と右腕、そして顔に大怪我を負って敗退したことで決着は付いたはずだった。

 それが今さら、なぜ――。

 ――少数派マイノリティが暴力で主張することを止めることができるのなら

 ふと、飛鳥の言葉がヘンリーの脳裏を過っていた。

 残念ながら、英国の支配階級はきみのように甘くはないよ。少数派がその支配から逃れるには、それ以上の力で相手を抑圧するしかない、そう考えながらも、ヘンリーはその場で飛鳥に告げることはしなかった。

 視線をふっと漂わせ、誰に、というでもなくヘンリーはその唇に淋し気な笑みをのせる。



「それにしても、どうしてアスカなんだろう?」
「そりゃ、お前のローブのせいだろ? お前のペットだと思われているんだ」

 無視しても、庇護しても、疎んじられることになるのか。

 ヘンリーは、大きくため息を吐き、組んだ膝の上で肘を立てその頬を支えると、顔を傾けてエドワードを見上げる。

「じゃあ、どうすればいいと思う、エド?」
「ロレンツォを使えよ」

 ヘンリーは露骨に顔をしかめる。あっけらかんとしたエドワードは、そんな彼の様子を揶揄うように唇を跳ね上げる。

「デヴィッドじゃ、アーネストの様にはいかないぞ。この学校ウイスタンでDクラブを押さえられるのは、家柄と影響力じゃピカイチのロレンツォ・ルベリーニくらいだろ」


 Dクラブは、オックスフォード大学の極少数の会員で結成されるエリート組織だ。ここへの入会推薦をちらつかせれば、大抵の奴ならなんだってやる。大学時代Dクラブに所属できただけで、エリートとしての一生が保証されたも同じなのだから。


「ルベリーニは……」
 ヘンリーは顔を歪めて言いよどんだ。
「生理的に駄目なんだ。思いだすだけで鳥肌が立つ」
「いまだにか!」
 エドワードは腹を抱えて豪快に笑いだす。


 エリオット校での初めての聖ジョージの日のイベントで仮装行列パレードの姫君役に扮したヘンリーの前に、観客席から男の子がいきなり薔薇の花束を抱えてやってきた。ご丁寧にヘンリーの手を取って甲にキスして、片膝ついての正式のプロポーズ。ヘンリーはいまだにこのネタで仲間内からからかわれている。彼にとっては、悪夢としか言いようのない黒歴史だ。


「あの時、あいつの腕を捻りあげなかった自分を褒めてやりたいよ。よく我慢しただろ? 渡されたのが英国の国花である薔薇じゃなかったら、きっとその場で地面に叩きつけて踏みにじっていたよ」

 いやいや、その後のお前の対応も大概だったと思うぜ……。

 と、心の中で呟きながら、エドワードは賢明にニヤニヤと笑いを噛み殺すだけにしておいた。あまり正直に笑い転げると、この男は本当にへそを曲げてしまう。このプライドの高い厄介極まりない友人の扱いは、加減と引き際が大事だ。


「それにしても、あの時の馬鹿が、あのルベリーニとはね」

 エドワードはヘンリーに同情を示すためか、大袈裟に唇を歪めてみせた。


 ルベリーニ一族は、イタリアの黒い貴族、カトリックの守護者と呼ばれている、その系譜は中世から連綿と続いている大貴族だ。現在でも欧州社交界、金融界で強い影響力を持つ一族でもある。確かに、傲慢なDクラブでも、ルベリーニを敵に回すようなことはしないだろう。


 ヘンリーは困ったように苦笑して言った。
「僕だってそうさ。敵に回したくないけれどね。正直なところ、トラウマだよ。自分でも不思議なほど嫌悪感が沸いてくるんだ」

 エドワードは肩を竦めてみせた。それよりほかに仕様がなかったのだ。

「我慢しろ。アスカのためだ。あんな何の後ろ盾もないアジア人留学生、殺されたところで簡単に揉み消されるぞ。アーネストの家をガーディアンにつけても、かまわず仕掛けてきたんだ。相当アスカは、それにお前にしろ、舐められていると思った方がいい」


 これまでエドワードは、これっぽっちも飛鳥自身に興味も関心もなかった。だが上映会で、真っ青な顔にフラフラの身体で最後まで場を仕切り、技術上の一切をこなし、舞台裏であったトラブルを乗り切っていった彼を目の当たりにし、称賛に値すると認めずにはいられなくなっていた。
 その極めつけが、後片付けで、ゴミとしか思えないような飛鳥の製作した一群の作品だ。紙とペラペラのプラスチック、ガムテープで留められたビニール袋に蛇腹ホースでできた手作り感満載の機材本体を見たときには、さすがに驚愕した。こんなものであれだけのスクリーンを作ることができるのか! と、ヘンリーが彼の才能に入れ込む気持ちが、彼にも理解できたのだ。
 だから今ではエドワード自身がヘンリーと同じように、飛鳥を応援してやりたい、くだらない争いから守ってやりたいと思っている。彼はそんな単純な、一本気な性質の持ち主なのだ。



 片やヘンリーはこれまで、飛鳥に絡んでくるのは、寮長のロバート・ウイリアムズの一派くらいだと思っていたのだ。せいぜいパンフレットを書き換えて観客を奪い、上映会を失敗させようとするくらいが関の山のつまらない小者。だが相手がアデル・マーレイとなると、がぜん話は変わってくる。マーレイがオックスフォードに入学してからのDクラブの悪行の噂は目にあまるものだ。犯罪すれすれなんて可愛いものじゃない。警察ざたの事件をいくつも親の権力で揉み消している。


「そうだね、エド。きみの言う通りだ。僕ばかりが我儘も言っていられないな」

 ヘンリーは、仕方がないなと目を細め、エドワードと顔を見合わせると薄く笑い合った。




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