胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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一章

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「珍しいね。きみが部屋にいるなんて」
 自室に戻った飛鳥は、壁に寄りかかったくつろいだ姿勢でベッドに足を伸ばし、その上にノートを開いているヘンリーに声を掛けた。だがヘッドフォンをしているせいか、彼の返事はなかった。
 飛鳥が目の前まできて、やっと気づいた彼は顔をあげ、ヘッドフォンを外した。

「お疲れさま。進んでいるかい?」
「うん。今日は三学年が二人、手伝ってくれたよ。それにデヴィッドも」
「そう、それは良かった」

 ヘンリーは、ノートに視線を落としペンを走らせている。飛鳥がそれ以上話かけなかったからか、彼はまたヘッドフォンをつけた。


 飛鳥は自分の机について、横向きに腰かけた。そして、じっと集中して俯いたまま顔を上げることのないヘンリーを、安心して眺め始めた。

 どうして皆、こんなにもこの人に夢中なのだろうかと、そんな疑問に飛鳥は囚われていたのだ。デヴィッドにしろ、アーネストにしろ、寮の皆も。寮長のロバート・ウイリアムズなんて、ヘンリーに認められたくてキリキリしている。ヘンリーはいつも人の輪の中心にいて、皆の視線を集めることが当たり前のような人なのだ。

 その本人は、長い指先でベッドをトントンと叩いてリズムを取ったり、人差し指を立てて指揮棒を振るように動かしたりしながら、熱心にヘッドフォンから流れる曲に聞き入っている。そして、時折、曲を止めてノートに何か書き綴っている。

 綺麗な人だってことは確かだ。上品な仕草はどこまでも優雅で、洗練されていて、こうして見ているだけでも見飽きることがない。華やかなのにとても繊細な整った顔立ち。理知的なひたいにかかる、ちょっとした動作で揺れる金の髪や、伏せられたけぶる睫毛、そして何よりも、あの強い、神秘的な色の瞳。

 そのセレスト・ブルーの瞳が、いきなり飛鳥を捉えた。


「何?」と、ヘンリーはヘッドフォンを外して首を傾げる。
「えっと、その、何しているのかなって」
 ドギマギしながら目を逸らした飛鳥に、ヘンリーは優し気な口調で、「オケ用の曲をヴァイオリン独奏に編曲しているんだ」と、ノートに挟んである楽譜と五線譜を向ける。
「すごいなぁ、そんなことまでできるの!」

 多才なのは知っていたけれど、弾くだけじゃないのか!

「音楽は3歳から習っているからね。このくらい普通だよ」
「ヘンリーの普通の基準って?」
 感心したように吐息を漏らし、飛鳥は興味津々でさらに質問を重ねた。
「うーん、難しい質問だね。僕の場合は、まず伯爵家嫡男って階級クラスで8割判断されるだろ。そこから商家ってことで1割引。残ったうちの2割が学歴や成績、交友関係、あとの1割が僕自身。楽器の演奏ができるのは、上流階級アッパークラスでは、普通だな。編曲や作曲になると、自分の中での、できて当然のことかな。好きでやっていることだから」

 面倒くさい! ヘンリーの? それとも英国人の? 思考法ってどうしてこう回りくどいんだろう……。

 飛鳥は戸惑いを隠せず、その瞳を丸くしたまま更に訊ねた。

「自分自身が1割しかないって……。じゃ、きみにとっては、1割の自分よりも9割の肩書が大切ってこと?」
「そうだよ。当然だろ? それが僕の階級だ。僕が受け継ぐ土地に住む何千人もの村人は、僕が何かヘマをやらかして土地を売らなくちゃいけなくなったら、先祖代々住んでいた場所から追い出されることになるんだ。今はもう、昔みたいに領地を統治しているわけじゃないけれど、彼らにとって、僕はいまだに領主さまの坊ちゃんだ。僕は、受け継ぐものに見合った人間に、彼らに対して恥ずかしくない、尊敬されるべき人間になりたい。それが僕の普通の基準かな」

「きみって、いつもそんな事を考えて行動しているの?」
「まあね。でも失敗もするよ。一度、エリオットで盛大に切れてしまったよ」

 飛鳥の驚いたような、呆れたような口調を気にするふうもなく、ヘンリーは遠くを見るように目を細め、懐かしそうなようすで、くすりと笑っていた。

「そのたった一回で、今まで築き上げてきたものをすべてぶち壊して、エリオットを敵に回してしまった」
「本当は、転校したくなかったの?」

 飛鳥はヘンリーの、どう受け取ればいいのか判らない、複雑な表情に質問を重ねた。ヘンリーは穏やかに笑って首を振った。

「ここに来て良かったよ。きみに会えた。それに……」
 思いだすかのように、彼は天井に目をやり晴れ晴れと微笑む。
「後悔はしていないよ。階級や、肩書、僕自身、すべてを捨ててもいいくらい大切な人がいるって再認識できた」


 そうか、これがきっと、皆がヘンリーに憧れる理由。
 人の上に立つ人間としての矜持、公平さ、そのための努力……。そして、統治者としての理想を追いながらも、そのすべてを捨ててもいいほどに、誰かを愛している心。その誰かに、皆、なりたいんだ。彼の特別なたった一人に――。

 飛鳥はやっと納得がいったような気がした。そして、今までずっと感じていて、自分の中で説明のつかなかったヘンリーに対する嫌悪感の理由を漠然と理解した。 

「きみは残酷なひとだね」

 ヘンリーは笑みを消して飛鳥を凝視し、ゆっくりとその瞳を怒りで満たしていく。

「どういう意味だ?」
「普通、自分の100%で誰かを想ったりしない。それって、きみにとっては、その誰か以外は塵ほどの価値もないってことだろ? 毎日そんなに頑張って築き上げている自分すら捨ててしまえるんなら、そんなきみを好きになる人って自虐的じゃないか」

 デヴィッドもアーネストもそれを判っていて、でも認めたくないからあんなに不安を抱えているのだ。

 一瞬、驚いて目を瞠ったヘンリーの瞳から怒りの影がすっと消え、笑みが浮かんだ。
 今度は飛鳥が驚く番だった。また余計な事を言った、と口から出た言葉をすぐに後悔していたのに……。

「そうだよ! やっと解ってもらえた」
 嬉しそうなヘンリーを飛鳥はまったく理解できず、若干の恐怖を感じながら凝視していた。
「彼女は僕のすべてなんだ。初めからそう言っているのに、誰もが僕を支配したがる。きみが解ってくれて嬉しいよ」

 ――ヘンリーに好きって言っちゃ駄目だよ。それは彼が最も嫌がる感情だからね。

 デヴィッドの言葉が飛鳥のなかで蘇っていた。

 友情であれ、恋愛感情であれ、ヘンリーには、受け取る気ははなからない。彼にとって、愛は支配だ。そして、彼は支配者にすべてを捧げて、他に回す情愛はないということらしい。

 こうもあけすけに言われて、飛鳥はかえってすっきりしていた。

「僕は支配するのも、されるのも嫌だ。自由でいたい」



 ヘンリーはちょっと驚いたような顔をしていたが、すぐさま、嬉しそうな笑顔で頷いていた。




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