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一章
寮室内の蛍1
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ヘンリーは、土曜の夜からまる一日半戻ってこなかった。
月曜日の朝、ベッドに腰かけている彼を見つけて、飛鳥は心底ほっとした。
「おはよう、アスカ」
すでに制服に着替え終えているヘンリーは、普段と変わらぬ声をかける。
「おはよう」
飛鳥は曖昧な笑顔で挨拶を返し、もそもそとベッドから抜け出して洗面し、着替え始めた。さすがに来たばかりの頃のように、人前での着替えを恥ずかしく思うこともなくなった。それに気遣いの人であるヘンリーは、今も変わらず視線を外しておいてくれる。飛鳥は確認するようにチラリと彼を見やる。だが予想に反して、彼はぼんやりと飛鳥を見つめていた。
「何?」
飛鳥はどぎまぎしてしまい、声を上ずらせて訊ねた。
「ああ、髪を切ったんだなと思って」
それだけで、特に似合うとも変だとも、感想はなかった。
飛鳥は、どうもいつもと様子の違うヘンリーに戸惑いはしたが、彼が土曜日のことを特に怒っているふうでもなかったので、取りあえず安堵する。
部屋から出ようとすると、「きみは僕のものなんて嫌かもしれないけれど、今日は全体朝礼だ。せめてローブは使ってくれないか? 着用なしだと懲罰を受けることになる。それに、その恰好では風邪をひくよ」と、土曜と同じようにローブを肩にかけられた。くるぶし近くまであった丈は、短く詰めてあった。
僕は、あんなに失礼なことを言ったのに……。
ちくりと後悔に苛まれたのと、ヘンリーのいつもの支配的な命令するような視線とは違う、心配そうで、どこか不安そうにも見える瞳に申し訳なさを感じて、飛鳥は素直に従うことにした。
「ありがとう。お借りします」
ヘンリーはほっとしたように微笑し、悠然と飛鳥に肩を並べて、飴色に光る廊下を軋ませ、歩きだした。
食堂でも、授業でも、何の問題もなく一日が過ぎていく。飛鳥に嫌がらせをしていた連中はすっかり成りを潜めている。というよりも、徹底して無視する方針に変えたらしい。
まぁ、プリントを貰えなかったり、ノートを捨てられたりするよりそっちの方がずっとマシか。
やはり想像していた以上にヘンリーのローブには効果があるようだ。今日の飛鳥は土曜日のことを知らないはずの他寮生からも、からまれることがなかったのだ。
どうしてみんな、これがヘンリーのものだって判るのだろう?
周囲のあからさまな態度の変化がこのローブのせいなのは、いくら鈍い飛鳥にでも判った。解らないのはその理由だ。
スカラーのトップただ一人だけに与えられる銀ボタン制度のことを、彼はいまだに知らなかった。ヘンリーのローブは、一般制服とは異なって留め具が銀製だ。制服の銀のボタン、そしてローブの銀の留め具は、彼がこの学校でトップの成績を収めている最優秀の生徒と認められている証である。
ともあれ、このローブがすさまじい嫉妬と羨望を招いていることにさえ気づきもせず、飛鳥は今日のカリキュラムを無事終えた。
部屋に戻ると、大きな見覚えのある段ボール箱がいくつも置いてあった。
「やっと届いたんだ!」
日本を発つ前に自分で梱包して船便で送った荷物が、二カ月を経て到着していた。飛鳥は嬉しさに小躍りしながら、早速、ウキウキと梱包を解きにかかる。
「それは何なの?」
部屋に戻るなりヘンリーは様変わりした自室に目を瞠り、唖然として立ち尽くしていた。
飛鳥の机の上には大きなモニターが置かれ、その周辺の床には、何なのか見当もつかない機材がところ狭しと置かれている。それらの機械の真ん中に飛鳥が座り込んで、嬉々としてケーブルを繋いでいるのだ。
まるでサラの部屋だ――。
マナーハウスのサラの部屋も、増殖するパソコン機材といくつものコードに占領されている。
サラも同じように床に座り込んでは、お気に入りのノートパソコンを開いていた。
「あ、おかえり、ヘンリー」
ひたいの中央で無造作に前髪を輪ゴムで括った、みるからに奇妙な髪型をした飛鳥がキラキラと瞳を輝かせて、満面の笑顔でヘンリーを見上げる。
こんなふうに笑うのか……。
今まで見てきた臆病そうな遠慮がちな笑みとは違う、心からの嬉しそうな飛鳥の顔を目にして、ヘンリーはまたも自責の念に駆られていた。
飛鳥はサラと同じなのだ。ヘンリーとは別の世界に生きている。自分のルールに当てはめて、勝手に期待したり失望したり。自分はなんと愚か者なのだろうか、と。
あまりにも居たたまれずに、ヘンリーは眉根を寄せ唇を固く閉じると、踵を返して部屋をあとにしていた。
月曜日の朝、ベッドに腰かけている彼を見つけて、飛鳥は心底ほっとした。
「おはよう、アスカ」
すでに制服に着替え終えているヘンリーは、普段と変わらぬ声をかける。
「おはよう」
飛鳥は曖昧な笑顔で挨拶を返し、もそもそとベッドから抜け出して洗面し、着替え始めた。さすがに来たばかりの頃のように、人前での着替えを恥ずかしく思うこともなくなった。それに気遣いの人であるヘンリーは、今も変わらず視線を外しておいてくれる。飛鳥は確認するようにチラリと彼を見やる。だが予想に反して、彼はぼんやりと飛鳥を見つめていた。
「何?」
飛鳥はどぎまぎしてしまい、声を上ずらせて訊ねた。
「ああ、髪を切ったんだなと思って」
それだけで、特に似合うとも変だとも、感想はなかった。
飛鳥は、どうもいつもと様子の違うヘンリーに戸惑いはしたが、彼が土曜日のことを特に怒っているふうでもなかったので、取りあえず安堵する。
部屋から出ようとすると、「きみは僕のものなんて嫌かもしれないけれど、今日は全体朝礼だ。せめてローブは使ってくれないか? 着用なしだと懲罰を受けることになる。それに、その恰好では風邪をひくよ」と、土曜と同じようにローブを肩にかけられた。くるぶし近くまであった丈は、短く詰めてあった。
僕は、あんなに失礼なことを言ったのに……。
ちくりと後悔に苛まれたのと、ヘンリーのいつもの支配的な命令するような視線とは違う、心配そうで、どこか不安そうにも見える瞳に申し訳なさを感じて、飛鳥は素直に従うことにした。
「ありがとう。お借りします」
ヘンリーはほっとしたように微笑し、悠然と飛鳥に肩を並べて、飴色に光る廊下を軋ませ、歩きだした。
食堂でも、授業でも、何の問題もなく一日が過ぎていく。飛鳥に嫌がらせをしていた連中はすっかり成りを潜めている。というよりも、徹底して無視する方針に変えたらしい。
まぁ、プリントを貰えなかったり、ノートを捨てられたりするよりそっちの方がずっとマシか。
やはり想像していた以上にヘンリーのローブには効果があるようだ。今日の飛鳥は土曜日のことを知らないはずの他寮生からも、からまれることがなかったのだ。
どうしてみんな、これがヘンリーのものだって判るのだろう?
周囲のあからさまな態度の変化がこのローブのせいなのは、いくら鈍い飛鳥にでも判った。解らないのはその理由だ。
スカラーのトップただ一人だけに与えられる銀ボタン制度のことを、彼はいまだに知らなかった。ヘンリーのローブは、一般制服とは異なって留め具が銀製だ。制服の銀のボタン、そしてローブの銀の留め具は、彼がこの学校でトップの成績を収めている最優秀の生徒と認められている証である。
ともあれ、このローブがすさまじい嫉妬と羨望を招いていることにさえ気づきもせず、飛鳥は今日のカリキュラムを無事終えた。
部屋に戻ると、大きな見覚えのある段ボール箱がいくつも置いてあった。
「やっと届いたんだ!」
日本を発つ前に自分で梱包して船便で送った荷物が、二カ月を経て到着していた。飛鳥は嬉しさに小躍りしながら、早速、ウキウキと梱包を解きにかかる。
「それは何なの?」
部屋に戻るなりヘンリーは様変わりした自室に目を瞠り、唖然として立ち尽くしていた。
飛鳥の机の上には大きなモニターが置かれ、その周辺の床には、何なのか見当もつかない機材がところ狭しと置かれている。それらの機械の真ん中に飛鳥が座り込んで、嬉々としてケーブルを繋いでいるのだ。
まるでサラの部屋だ――。
マナーハウスのサラの部屋も、増殖するパソコン機材といくつものコードに占領されている。
サラも同じように床に座り込んでは、お気に入りのノートパソコンを開いていた。
「あ、おかえり、ヘンリー」
ひたいの中央で無造作に前髪を輪ゴムで括った、みるからに奇妙な髪型をした飛鳥がキラキラと瞳を輝かせて、満面の笑顔でヘンリーを見上げる。
こんなふうに笑うのか……。
今まで見てきた臆病そうな遠慮がちな笑みとは違う、心からの嬉しそうな飛鳥の顔を目にして、ヘンリーはまたも自責の念に駆られていた。
飛鳥はサラと同じなのだ。ヘンリーとは別の世界に生きている。自分のルールに当てはめて、勝手に期待したり失望したり。自分はなんと愚か者なのだろうか、と。
あまりにも居たたまれずに、ヘンリーは眉根を寄せ唇を固く閉じると、踵を返して部屋をあとにしていた。
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