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一章
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ヘンリーが正しく公平であろうとすればするほど、飛鳥は惨めになる。手を差し伸べられる度に、心に見えない傷がついていくみたいだ。優しさや思いやりとは違う義務感。彼の公正さの底に、支配階級の傲慢さが見え隠れするようで、憐れみを施されている気分になるからだ。
だけど、ここではそれが当然で正しい、尊敬されるべき行為なのだ。彼が悪いんじゃない。それが英国人というもので、折り合いのつけられない自分が悪い。
彼は、エリオットからライバル校であるウイスタン校に転校してきて、わずか一カ月で能力の差を見せつけ、他を圧倒し、あっという間に自分の地位を確立した。要は、それが彼のやり方だ。支配する側とされる側がいること、そして、どうやって支配するかを、彼は誰よりも熟知している。
飛鳥は、そのどちらにもなれない。なりたくなかった。
けれど助けてくれようとしたヘンリーに、ろくにお礼を言わなかったばかりか、生意気な口をきいて彼の怒りを買ってしまった。恩を仇で返すとはまさにこのことだ。たとえ好意からではなくても、飛鳥はそれで助かったのだ。
彼は制服代さえまともに払えない飛鳥に恥をかかせないために、あんな提案をしてくれたのだ。それをまともに受け取って余計なことまで言って、輪をかけて彼を不快にさせた。これでは嫌われて当然だ。
英語は得意なつもりだったが、しょせん母国語じゃないのだ。どうしても表現が直接的になってしまって、本当に言いたいことの半分も伝えられない。
杜月飛鳥は消灯時間を過ぎても戻ってこない、ヘンリーの空っぽのベッドに視線を据えたまま枕に顔を埋めていた。
寝起きに会話するものじゃない、とつくづく後悔にくれながら。
ヘンリー・ソールスベリーは、大司教の城跡の崩れかかった石塀にもたれて、夜空を眺めていた。この時期には珍しく、厚い雲の切れ間から星空が覗いている。月が空の高みからあざ笑うかのように、こちらを見下ろしている。何百年も前に権政を誇った権力者の、崩れ落ちた今がここにある。今の彼に相応しい荒涼とした薄闇に身を浸し、彼は一人静かに物思いにふけっているのだ。
権力闘争には関わらない、僕はこいつらとは違う。
それはずっと、ヘンリーの根幹にある信念だった。それなのに別の形で、彼自身そんな世界に組み込まれていたなどと――。この日飛鳥に思い知らされるまで、気づきもしなかったのだ。
「ほら、温まれ」
砂利を踏む音とともにエドワード・グレイが現れ、ウイスキーの小瓶を投げてよこした。
「グラスは?」
「あるわけないだろ」
エドワードはヘンリーの横に腰を下ろしながら答える。
「変な薬いりじゃないだろうね?」
「貸せよ」
彼の手から瓶を奪い取り、エドワードは蓋を開けてぐびぐびと飲んでみせる。ヘンリーも今度は受け取って、一口、二口と飲み下した。
「どうしたんだ? 珍しくしおらしいじゃないか?」
「自己嫌悪にどっぷり浸っているんだ」
「お前がそんな単語を知っているとはな!」
「エド、僕は傲慢かい?」
ヘンリーは、エドワードの肩に頭を預け、囁くように訊いた。
「自信と傲慢は紙一重だな。だが、お前はちゃんとその境界を心得ていると、俺は思っている」
エドワードは子どもにするように、ヘンリーの頭をガシガシ撫でてやった。
「誰かにそんなことを言われたのか?」
「僕の友達のフリはできない、と」
エドワードは唖然としてヘンリーの顔を覗き込んだ。
「なかなかの強者だな……」
ヘンリーが、他人に言われたことで傷ついている。そっちの方が驚きだ! パブリックスクールに上がってから、この男はどんな目に遭わされようと、炎のような瞳で相手を叩きのめしてきたのに!
「自己満足の親切はいらない、と言われた。僕の無配慮な行動のせいで不快な思いをさせたのに、僕は償うことすら許してもらえなかった」
ヘンリーは苦しそうに眉をひそめている。エドワードは、彼の頭をかき抱いて、「友達のフリができないのなら、本当の友達になればいいんじゃないのか?」と、慰めるように背中をポンポン叩いた。
「僕の傲慢さを許してもらえると思えない」
重症だな……。今までまったく他人に興味も関心もなかったこいつが、初めて予想外の相手から手ひどく拒絶された、ってとこか。まぁ、可哀想だがいい薬だ、と内心の想いは呑み込んで、エドワードはわざと突き放すような言い方をした。
「なら、諦めろ」と。
ヘンリーは、エドワードに擦りつけるように首を横に振っている。
「じゃあ、許してもらえるまで耐えるしかないな」
エドワードはヘンリーを引っ張り上げて立たせ、「パブにでも行こう。酒が足りない」と、ヘンリーの背中をバシッと叩いた。
「この恰好で?」
ヘンリーは胸元にエンブレムが赤で刺繍された紺色のスカッシュのユニフォームのままなのだ。
「制服よりはましだ」
「そういえばお腹がすいたよ。昼食も夕食も食べ損ねたのだった」
「さぁ、行くぞ」
エドワードは彼の背中を押して促している。
「次からは、外に出るときくらい私服で来いよ」
返事がない。
「まさか私服を持ってないのか?」
「カレッジ・スカラーは外出時も制服着用だ」
「おい、冗談だろ?」
エドワードは腹を抱えて笑い、ヘンリーも釣られて苦笑する。
「次までに、用意しておくよ」
そう、次までに……。次が、許される可能性が少しでもあるのなら、諦めない。
そんな想いを胸に、ヘンリーは力を込めて自分の拳をぎゅっと握りしめていた。
だけど、ここではそれが当然で正しい、尊敬されるべき行為なのだ。彼が悪いんじゃない。それが英国人というもので、折り合いのつけられない自分が悪い。
彼は、エリオットからライバル校であるウイスタン校に転校してきて、わずか一カ月で能力の差を見せつけ、他を圧倒し、あっという間に自分の地位を確立した。要は、それが彼のやり方だ。支配する側とされる側がいること、そして、どうやって支配するかを、彼は誰よりも熟知している。
飛鳥は、そのどちらにもなれない。なりたくなかった。
けれど助けてくれようとしたヘンリーに、ろくにお礼を言わなかったばかりか、生意気な口をきいて彼の怒りを買ってしまった。恩を仇で返すとはまさにこのことだ。たとえ好意からではなくても、飛鳥はそれで助かったのだ。
彼は制服代さえまともに払えない飛鳥に恥をかかせないために、あんな提案をしてくれたのだ。それをまともに受け取って余計なことまで言って、輪をかけて彼を不快にさせた。これでは嫌われて当然だ。
英語は得意なつもりだったが、しょせん母国語じゃないのだ。どうしても表現が直接的になってしまって、本当に言いたいことの半分も伝えられない。
杜月飛鳥は消灯時間を過ぎても戻ってこない、ヘンリーの空っぽのベッドに視線を据えたまま枕に顔を埋めていた。
寝起きに会話するものじゃない、とつくづく後悔にくれながら。
ヘンリー・ソールスベリーは、大司教の城跡の崩れかかった石塀にもたれて、夜空を眺めていた。この時期には珍しく、厚い雲の切れ間から星空が覗いている。月が空の高みからあざ笑うかのように、こちらを見下ろしている。何百年も前に権政を誇った権力者の、崩れ落ちた今がここにある。今の彼に相応しい荒涼とした薄闇に身を浸し、彼は一人静かに物思いにふけっているのだ。
権力闘争には関わらない、僕はこいつらとは違う。
それはずっと、ヘンリーの根幹にある信念だった。それなのに別の形で、彼自身そんな世界に組み込まれていたなどと――。この日飛鳥に思い知らされるまで、気づきもしなかったのだ。
「ほら、温まれ」
砂利を踏む音とともにエドワード・グレイが現れ、ウイスキーの小瓶を投げてよこした。
「グラスは?」
「あるわけないだろ」
エドワードはヘンリーの横に腰を下ろしながら答える。
「変な薬いりじゃないだろうね?」
「貸せよ」
彼の手から瓶を奪い取り、エドワードは蓋を開けてぐびぐびと飲んでみせる。ヘンリーも今度は受け取って、一口、二口と飲み下した。
「どうしたんだ? 珍しくしおらしいじゃないか?」
「自己嫌悪にどっぷり浸っているんだ」
「お前がそんな単語を知っているとはな!」
「エド、僕は傲慢かい?」
ヘンリーは、エドワードの肩に頭を預け、囁くように訊いた。
「自信と傲慢は紙一重だな。だが、お前はちゃんとその境界を心得ていると、俺は思っている」
エドワードは子どもにするように、ヘンリーの頭をガシガシ撫でてやった。
「誰かにそんなことを言われたのか?」
「僕の友達のフリはできない、と」
エドワードは唖然としてヘンリーの顔を覗き込んだ。
「なかなかの強者だな……」
ヘンリーが、他人に言われたことで傷ついている。そっちの方が驚きだ! パブリックスクールに上がってから、この男はどんな目に遭わされようと、炎のような瞳で相手を叩きのめしてきたのに!
「自己満足の親切はいらない、と言われた。僕の無配慮な行動のせいで不快な思いをさせたのに、僕は償うことすら許してもらえなかった」
ヘンリーは苦しそうに眉をひそめている。エドワードは、彼の頭をかき抱いて、「友達のフリができないのなら、本当の友達になればいいんじゃないのか?」と、慰めるように背中をポンポン叩いた。
「僕の傲慢さを許してもらえると思えない」
重症だな……。今までまったく他人に興味も関心もなかったこいつが、初めて予想外の相手から手ひどく拒絶された、ってとこか。まぁ、可哀想だがいい薬だ、と内心の想いは呑み込んで、エドワードはわざと突き放すような言い方をした。
「なら、諦めろ」と。
ヘンリーは、エドワードに擦りつけるように首を横に振っている。
「じゃあ、許してもらえるまで耐えるしかないな」
エドワードはヘンリーを引っ張り上げて立たせ、「パブにでも行こう。酒が足りない」と、ヘンリーの背中をバシッと叩いた。
「この恰好で?」
ヘンリーは胸元にエンブレムが赤で刺繍された紺色のスカッシュのユニフォームのままなのだ。
「制服よりはましだ」
「そういえばお腹がすいたよ。昼食も夕食も食べ損ねたのだった」
「さぁ、行くぞ」
エドワードは彼の背中を押して促している。
「次からは、外に出るときくらい私服で来いよ」
返事がない。
「まさか私服を持ってないのか?」
「カレッジ・スカラーは外出時も制服着用だ」
「おい、冗談だろ?」
エドワードは腹を抱えて笑い、ヘンリーも釣られて苦笑する。
「次までに、用意しておくよ」
そう、次までに……。次が、許される可能性が少しでもあるのなら、諦めない。
そんな想いを胸に、ヘンリーは力を込めて自分の拳をぎゅっと握りしめていた。
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