胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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一章

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 杜月飛鳥とづきあすかのいったい何がサラを惹きつけたのか、ヘンリー・ソールスベリーは一カ月経っても判らなかった。彼は、ベッドの上で上掛けもかぶらず子どもの様に丸くなって眠っている飛鳥を、侮蔑の眼差しで眺めている。

 飛鳥が持つという特許だろうか? だが特殊ガラスという分野に、サラが関心があるとは聞いていない。彼女に尋ねれば済む話だが、飛鳥が英国にいることはサラには隠している。

 もうじき、サラの論文がヘンリーとの共同執筆の形で発表される。それを読めば、これは“シューニヤ”の論文だとわかる者もいるはずだ。サラは数学サイト内にその片鱗を残している。彼女の名前は伏せての発表だが、念のためにサイトからは退会させた。飛鳥との接触はそれ以降ないはずだ。以前、サラは「サイト内に友達がいる」と嬉しそうに語っていたことがあった。もっとも、その頃の『友達』は、単に自分に好意的なコメントをくれる人の意味で、ヘンリーは気にも留めていなかった。

 わずか二、三回のチャットに過ぎないと言っていたが、サラが直接会話したのは飛鳥だけだ。自分からは決して他人と接触しようとしないサラが、なぜ飛鳥に英国留学を勧めたのだろうか? 自分に逢わせるため。ヘンリーにはそうとしか考えられなかった。それなのにその理由がどうしても、飛鳥本人から見つけだせなかった。

 こんなことならギャップイヤーを取って、大学入学までの一年間をサラと過ごせば良かった……、と彼の心は後悔しきりだ。わざわざアーネストに頼んで、飛鳥の身元引受人ガーディアンを引き受けてもらってこの体たらく。面目丸つぶれも甚だしい。

 この学校に全く馴染もうとしない、プレップ生のように幼稚な、寝てばかりいる飛鳥。ヘンリーは杜月飛鳥にとっくに愛想が尽きている。
 
 ヘンリーは、わざわざ転校までしてきたのだ。せめてヴィオッティ先生に出会えたことを救いと思い、この恵まれた機会をせいぜい自分のために使う他はない、と自分自身に言い聞かせ、もやもやとした気持ちを振り切るために、日々、ヴァイオリンを手に取っている。

 



 10月に入っても、飛鳥は相変わらずだった。校内で見かけてもいつも一人だ。友達らしい者もいない。与えられた環境をどう過ごすかは自分次第。ヘンリーは取り立てて無視することもなかったが、あえて声をかけることもしなかった。

 ただ、飛鳥が寝ている時間は減ったかもしれない。相変わらず夜は早いが、机に向かっている時間は長くなった。当然だ。わざわざ日本から来ているのだから、それで普通だ。




 それは、ハーフタームを一週間後に控えた土曜日の昼のことだった。
 遅れてカレッジ・スカラーの食堂に入ったヘンリーは、その不自然な空気に眉をひそめた。

 ここは、彼のいたエリオットと同じく奨学生のための寮の食堂だといっても、三ツ星レストランのシェフが作った料理をボーイが給仕するエリオットとはまったく異なっている。むきだしの長テーブルと、両サイドにベンチが並んでいるだけの簡素な食堂で、食事も自分でトレイにのせていくセルフサービスだ。教師とともに食事することもない。昼食時には寮監が不在なことも珍しくなく、そんな時は、スカラーたちのだらしない様子ですぐにわかる。

 昼食時間も終わりに近い、スカラーたちのまばらに残るテーブルに忍び笑いが漏れ聞こえる。そのテーブルのかたわらに飛鳥が立ち竦んで俯いていた。ヘンリーは近寄って初めて、何が起きているのか理解した。飛鳥の足元に、彼のものであろうジャケットとローブが、残飯にまみれて無残に放り出されていたのだ。
 テーブルにいる連中はヘンリーに気づくと誇らしそうに笑った。
 ヘンリーは表情を変えずにその場まで来ると、自分のトレイの中身を滑り落とした。
 食器が大きな音を立てて崩れ落ち、スープが飛び散る。ヘンリーは振り返り飛鳥の前に立った。

「すまない、トヅキ。きみの制服を不注意で汚してしまった。僕に弁償させて欲しい」

 飛鳥は目をみはり、唖然としてヘンリーを見つめた。彼の発した言葉の意味が理解できなかった。

「今ならまだ間にあう。外出許可をもらいに行こう」

 やっとの思いで飛鳥は口を開いた。「その必要はありません。洗濯すればいい」

 ヘンリーは口の端を上げて皮肉げに笑い、飛鳥を睨めつけた。

「きみは、僕が、自分のしたことに責任を持たない男だと?」
「必要ありません」
「どうか、僕に、僕の責任を果たす許可をくれないか?」

 ヘンリーは片眉を上げ、飛鳥に見下ろすような視線を向けてイライラとした口調で続けた。プリーズと言われ、飛鳥はさらに動揺し、返す言葉に迷っていた。これ以上意地を張ると、逆にヘンリーに恥をかかすことになる。

 飛鳥の沈黙をイエスと受け取ったヘンリーは、冷たく見下した視線をテーブルの寮長に向けた。

「ウイリアムズ、すまないが、きみ、ここを片づけておいてくれるかい? それから、それを洗濯に出して届けてくれたまえ」

 二人はテーブルを挟んで睨みあった。
 やがてロバート・ウイリアムズが無表情のまま、「OK」と応じたことで、ヘンリーは視線を外し、彼は飛鳥の腕を掴んで食堂を後にした。




「どうして僕らがこれの後始末をやらされなきゃいけないのさ?」
 下級生たちは床を片づけながら不満そうに言いあい、ロバートをちらちらと見上げている。
「黙っていてやるから、落とし前をつけろってことさ」
 ロバートは憮然と答えた。

 ヘンリーはアスカ・トヅキを嫌っていると思っていたのに! 
 なんだってあんなやつを庇うんだ!

 胸に、そんな不満を渦巻かせながら。

「それに、あいつに人種差別だって騒がれたら面倒だろ。だから僕たちを庇ってくれたんだ」

 そんな訳がない。だがロバートは、それ以外に周囲を納得させる理由を思いつかなかった。悔しさに唇を噛み、吐き捨てるようにそう言うほか、術がなかったのだ。





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