胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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一章

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「きみたちにとって音楽とは何だね?」

 世界的に有名なイタリアの名ヴァイオリニスト、フェデリコ・ヴィオッティを特別講師に迎えての第一回目授業の冒頭での問いである。

「なくてはならないものです」
「僕の夢です」
「情熱です」

 十名の音楽スカラーが一人ひとり答えていくのを、70歳を超える老ヴァイオリニストはニコニコと笑顔で頷きながら聞いている。

「きみは、ソールスベリー?」
 最後に残ったヘンリーに番が回ってきた。
「言葉です」
 ヴィオッティは、目を細めて、フォッ、フォッ、フォッ、と大笑いする。



「ひとつ、きみの言葉で語ってくれるかの?」

 授業が終わった後ヴィオッティに呼び止められ、ヘンリーは一人、教室に残された。望まれるまま、彼はヴァイオリンをかまえ奏で始める。

『ラ・カンパネラ』、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第二番第三楽章だ。
 曲が終わると、ヴィオッティはその大きな手でパンッ、パンッ、パンッ、と拍手をし、楽しそうに笑いながら、「珠玉の音の連なり。きみのその言葉はセレナーデだな。そして、常に楽譜に正確だ」と、茶目っ気たっぷりな表情で評する。
「正しい文法と正確な発音でないと通じないんです」
 ヘンリーは少し気恥ずかしげに微笑んだ。
「それは厄介なミューズだ」
 老ヴァイオリニストの言葉にヘンリーは軽く目をみはり、次いで嬉しそうに微笑み頷く。


 ヘンリーにとって、サラとのコミュニケーションは初めの頃よりもずっと楽になっている。だが彼女は、表情を読んだり細やかな心情を汲み取ることが苦手だ。ヘンリーが気持ちや感情を判って欲しいときには、言葉で伝えるよりも、ヴァイオリンを弾く方がずっと早い。サラはその音色の色彩を視、温度を感じてヘンリーを理解してくれる。
 彼女以外では、これまで好き勝手に評されてきたヘンリーだった。それが、ここでのヴィオッティの的を射た批評に、彼は初めて自分が理解されたような気がして、心が温かいもので満ちるのを感じたのだ。


「きみが愛を語る相手は、そのたった一人のミューズなのかな?」

 ヘンリーは頷いた。ヴィオッティは指を組み合わせると、しばらくの間、瞑目していた。

「きみのミューズ以外にも語りかけ、会話したいとは思わんかね? 聴衆は、ミューズに嫉妬し、羨望し、自分がそのただ一人でありたいと想いを募らせるばかりだ」
「彼女以外に語りたい言葉を、僕は持ち合わせていません」

 ヘンリーは目を伏せ、きっぱりと言い切った。

「それはまた、情熱的な想いだな。だが恋じゃない。きみの音はストイックで情愛に溢れているが、官能がない」

 ヴィオッティは、その瞳で優しく包み込むようにヘンリーを見つめていた。

「きみはまだ若い。もっと世界を広げてみなさい。楽しみなさい。まずは、この年寄りと会話してみないかね?」

 おもむろに自身のヴァイオリンをケースから出し、ヴィオッティは、そのボディを慈しむように撫でる。そして「バッハは、ついてこられるかな?」と、「2つのヴァイオリンのための協奏曲」のさわりのパートを弾いてみせる。

「はい」
 ヴィオッティに続きヘンリーも、自分のヴァイオリンをかまえる。



 教室の外では、音楽スカラー達が耳をそばだて、固唾を飲んで成行きを見守っている。

 演奏が終わった時、老ヴァイオリニストは一言、「恋をしなさい、ソールスベリー」と言った。

 ヘンリーは、ただ笑顔で黙礼を返した。





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