執事の嗜み

桃瀬わさび

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本編

鴉1 〚ケヴィン〛

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 五感の中で、記憶と一番密接に結びついているのは嗅覚だという。
 その説に違わず、久方ぶりに足を踏み入れた王城でどっしりとした絨毯と大理石の醸し出す匂いを嗅いだ時、一瞬にしてあの頃に舞い戻った心地がした。
 あの頃。
 誰にでも牙を剥くどうしようもない駄犬が、下手を売って大怪我を負い、命すら危ういところをユリアナ様に拾われたあのとき。
 ―――今思い返しても、理解に苦しみますね。
 元は平民といえ妾姫の立場。いかに死にそうで追われている犬がいたからといって、王宮に連れ帰るなどとは愚の骨頂としか思えない。
 けれど、そんな愚かなことを、さも当然かのように行ってしまうのがユリアナ様という人だ。

「ええっと、お名前はー?」
「誰が名乗るか」
「じゃあ付けなきゃ!何にしましょう、うーん、うちの息子がヴィルだからー、ヴィのつく名前がいいわね。エレヴィ、エドヴィン、うーんなんか違うわね、ケヴィン!ケヴィンにしましょう!」
「ユリアナ様、お体に障ります。あまりはしゃがれてはなりません。」
「まぁ。じいのケチ。」

 ぷっと膨れた女を、細い目をより細くして優しく見つめた白衣の男が、どうやら俺の手当をしたらしい。
 瀕死の重症だったというのに、追手も近づいており見つかったら一瞬でとどめを刺されそうな切迫した状況だったというのに、やけにきらきらした女が駆け寄る姿を最後に意識が途絶え、起きたらこれだ。
 殺られる前にふたりくらいは道連れにしてやると手に縛り付けていたナイフも既になく、血と泥の匂いは洗い流されて、花と石鹸と消毒液の香りだけが鼻につく。
 質素ながらも陽当たりの良い清潔な部屋は、この白衣の男の居室らしい。
 いささか力の抜ける状況に、平和そのもののふたりのやり取りに、妙に脱力して清潔な寝台に沈み込んだ。

「そこの医者、完治までは?」
「緩やかな治療ですと次の満月の頃には。激痛を伴う治療ですと、月が5回沈む頃には治るでしょう。」
「月が5回か。それまで世話になる。今の俺には何もないが、必ずこの恩は返そう。」

 じっと男の細い目を見つめれば、観察するような瞳がそこにあった。
 この男は、この女ほど呑気にはできていないらしい。怪我人を助けることと、油断することは別だとよくわかっている。
 もし敵意を見せようものなら、俺を動けなくして元の場所に投げ捨てるくらいのことはするだろう。
 唯一動かせる右手を動かし、拳で唇に触れ、それを胸に宛てて二度叩く。
 裏社会の誓いの仕草だ。口に出したことを守れなかったときは、心ノ臓を差し出すという意味。
 はっとした顔をした男は、今度は神妙な顔で頷いた。この分だと、どうやらこの意味を知っているらしい。
 虫も殺せないような柔和な顔つきでなかなかどうして、食えない男だと思った。


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