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5. 誓い

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 鈍色の雲が空全体を覆っていた。そのせいで、日中だというのに太陽の光は全く差さず、大津の宮は暗く陰気な雰囲気に包まれている。
 おまけに寒い。
 空を向いて吐いた息が白く浮かび上がっては消えていく。
 大友おおともの皇子みこは両手を口元に当てて、ハァっと息を吹きかけた。
 かじかんだ指先に少しだけ血の気が戻る。そのまま両の掌でパチンと頬を叩いてみると、ようやく活力が漲ってきた気がした。

 ――あの方の御前ごぜんだ、気合いを入れなければ。

 大友は自分を叱咤すると、内裏だいりへと足を踏み入れた。
 御簾みすの向こうに人の気配はない。
 天皇はまだ来ていないようだった。

 大友は板間に腰を下ろすと、さて今日は何のために自分が呼ばれたのか、と思案した。

 まさか、また海を渡り、とう新羅しらぎと戦おうというのではあるまいな。
 大友は五年前の白村江はくそんこうでの戦を思い起こす。勿論、大友自身が実際の戦場に立つことはなかったが、彼の教師を勤める百済くだら人たちから、その時の話を嫌というほど訊かされた。兵力、装備、経験……そのどれもが唐・新羅の大軍と我ら・百済の軍とでは雲泥の差であった、と彼らは悔しそうに語ってみせるのだ。

 大国との圧倒的な力の差に打ちのめされた彼らの話は、大友の胸を打った。

 それだけではない。
 先の戦では、天皇の実母であり、大友にとっては祖母にあたる皇極こうぎょく天皇てんのうも遷幸先の筑紫の地で崩御してしまったのだ。
 あの方は己が理想のためには血縁者を手にかけることすらいとわないが、一方で、非常に情の深い人でもある、と大友は推察していた。
 白村江での敗戦が天皇に暗い影を落としたことは間違いない。

 大友が思案に暮れるうちに、御簾が微かに揺れた。

「よく来たな、大友。息災だったか」

 そう告げた天皇の声は、少し掠れていた。
 とっくに聞き慣れたはずなのに、その声はいつも大友を緊張させる。

「は……! すこぶる快調でございます」

 大友が恐縮して答えると、

「そうかそうか。渡来人らもお前のことを誉めておったぞ。これからもこの調子で励むが良い」

 天皇の声が、心なしか弾んでいる。  
 息子を誉められ無邪気に喜んでいるのかもしれない。
 大友は天皇を指して「情が深い」と見抜いた自分の観察眼に密かに自信を得たのだった。

「ところで、今日はお前にい話があるのだ」
「……はい」

 好い話、と云われて素直に喜べるほど、大友は無垢ではなかった。
 天皇にとっての「好い話」が、大友にとっても「好い話」であるとは限らないが、いずれにせよ、がえんずる以外の選択肢はない。

鎌足かまたり

 天皇が大友の背後に向かって声を投げた。
 大友がハッとして振り返ると、いつからそこに居たのか、一人の小男が斜め後ろに控えているではないか。
 部屋の隅にこんもりとうずくまった黒い影。
 中臣なかとみの鎌足かまたりであった。
 もともと小柄な男ではあったが、ますます小さくなった気がして、大友は妙な物哀しさを覚えた。

「大友皇子もすでに二十歳を越えられた。もう一人、新たな妃を迎えられては如何いかがでしょうか」
「なに?」

 大友にはすでに妻と子がいた。
 鎌足の娘・耳面みみも刀自とじとのあいだに儲けた娘である。最近ようやく歩くようになった、と嬉しそうに話していた妻の顔が思い浮かぶ。

「皇子たるもの、複数の妻を持つは当然のこと。大友さまは、そろそろ皇女ひめを娶られるべきである、とやつかれは考えます」

 鎌足が、まるで大友の心を読んだかのような絶妙な間合いで、口を添えた。

 はて、鎌足はいったい誰のことを指しているのか、と大友は訝しむ。
 用心深いこの男のことだ、大友の妃にふさわしい相手をすでに見繕っているに違いない。

「相手は、十市とおちの皇女ひめみこだ」

 はやく云いたくて堪らない、とでもいうように天皇がいかにも愉しげに告げた。

「十市皇女というと……皇太弟と額田ぬかたのおおきみの息女ですね」

 大友が確認するようにその名を口にすると、

然様さようでございます」

 鎌足がうやうやしく首肯してみせる。

 ふと、大友の脳裏にすすきの野の光景が広がった。
 冴え冴えとした月の光が、サワサワと揺れる薄を銀色に照らしていた、あの秋の夜。
 罠にかかった兎のように震えていた、あの少女。
 それは、大友の記憶の片隅に、そこだけは絶対に侵せない領域として、確固として存在する――美しい想い出だった。

 ――あの少女を妃に?

「どうだ、大友。吾はこの上なく好い話だと思うが」

 天皇に促され、大友は、束の間、逡巡した。しかし、

「謹んでお受けいたします」

 自分でも意外なほどするりと口から出てきたのは「だく」の答え。
 大友は内心の驚きが表に出ないよう気を付けながら、深々と頭を垂れた。

「さすが大友さま! いつ唐や新羅の大軍に攻め込まれるやもしれぬ現在いま、内部の結束は何よりも大事でございます。そのためには不埒な輩が付け入る隙もないほどに、天皇と皇太弟の結び付きを強くする必要があるのです」

 一見、臣下としておもねっているようで、その実、幼い子供に云い聞かせるような鎌足の口調に、大友はばくとした不快感を覚えた。
 すでに天皇は自分の娘を四人も大海人おおあまの皇子みこへ差し出している。
 世間では、「大海人皇子から額田王を奪ったことへの償いではないか」などという口さがない噂もあったが、そのような栓もない私情を挟んだ問題であるわけがない、と大友は信じていた。

 天皇は皇太弟を誰よりも信頼している。
 そして、誰よりも――おそれている。

 天皇は太陽のように苛烈な人である。
 自分の思い描く理想へと邁進する姿、それは何者をも寄せ付けないほどに眩しい。
 大友は、父のそうした姿を遠巻きに眺めていることしかできない自分の非力さが恨めしかった。気性の荒いバケモノのような父をうまく飼い馴らし、その手綱を引くことができるのは、今のところ、鎌足しかいないのだ。
 だが、その苛烈さは破滅と紙一重でもある。
 己の発する強烈な光で、己の身すら焼き尽くしてしまうのではないか。
 大友は人知れず、父を案じているのだった。

 そんな父に比べて、大海人皇子はまさに近寄るものすべてを包み込む大海のごとき人だ。
 現に、彼を慕って集う舎人とねりは多い。
 何より額田王が最初に選んだのも、大海人皇子だった。
 兄がどれほど恋い焦がれても手に入らないものを、弟は始めから持っていた。

 天皇が抱える弟への名伏しがたい劣等感を、大友皇子と中臣鎌足だけは正しく理解しているのである。

「大友」

 御簾の向こうの影がゆらりと動く。

「大友、お前は吾の自慢の息子だ」
「っ……!」

 息が詰まった。
 大友は床の板目を見つめながら、喉元に込み上げた得体の知れないカタマリを何とか飲み下そうと息を呑む。

 感激していた。……父の言葉に。

 大友の生母は伊賀の采女うねめで、身分が低い。
 だから、大友が父の後を継いで天皇になる可能性はない。
 それでも、自分のことを「自慢の息子」であると云ってくれた。
 さらに、皇太弟の第一皇女である十市皇女をも与えてくれるという。

 皇太弟は次代の天皇である。
 自分が即位することは叶わなくとも、息子として天皇を、いずれは義息として次代の天皇を、陰に陽に支えることなら出来るはずだ。

 大友は父の期待に応えたい、と心から願った。
 そして、必ずそうしてみせる、と固く誓ったのだった。


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