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3. おとうと

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「ハハハ。やはりまだ子供だな、十市とおちは」
 
 自分にしがみつく娘を見下ろして、大海人おおあまの皇子みこが笑う。
 十市はハッと恥ずかしくなって、父の上衣から手を離した。
 
「父上は……なんとも思われないのですか?」
 
 十市が固い声で尋ねた。
 ずっと気になっていたのだ、父はどう思っているのか。
 母が――父にとってはかつての妻が、今では自分の兄の妻となっていることに。
 
「兄はお寂しいのだよ」
「え……」
 
 父から返ってきた答えはまったくの予想外で、十市は思わず父の横顔をまじまじと見つめてしまった。
 
「天皇にはたくさんの妻と子がおられる。吾も人のことは云えないが、それは必ずしも自分の望んだことではない。おのが理想の道を突き進むためには、ときに自分のまことの心に蓋をする必要があるものなのだ」
 
 そう云った父はもはや十市のほうを見てはおらず、どこか遠くに目を向けている。
 
「すでに弟の子を産み、とうが立った額田ぬかたを娶ったところで、天皇にとっては大した益もないだろう。それでも天皇が額田を側に置くのは……」
「あなた!」
 
 大海人おおあまの言葉を遮るように、険のある声が響いた。
 十市と大海人が声のした方に顔を向けると、小さな男の子の手を引いた大柄な女がこちらを睨みつけるようにして立っている。
 大海人の妻の一人、鸕野讃良うののさららの皇女ひめみこだった。
 頭の上で一つに髷を結った流行の髪型はあまり似合っていないが、長身の鸕野讃良がすると迫力が増すようであった。
 一緒にいる子供は草壁くさかべの皇子みこだろう。大海人と鸕野讃良のあいだに産まれた皇子で、五、六歳になろうというところか。
 
 十市が草壁に向かって小さく笑いかけると、草壁がはにかんだような笑みを浮かべた。片側の頬に浮きでた笑窪えくぼが可愛らしい。
 
「あなた、探しましたよ。そろそろ草壁とも遊んでやってくださいまし。この子も寂しがっておりますゆえ」
 
 十市の存在など丸きり目に入っていないかのような口ぶりで、鸕野讃良が大海人に詰め寄った。
 
「あぁ。少しだけ待ってくれないか。十市とは久しぶりに顔を合わせたのだ」
 
 大海人の返事に、鸕野讃良がチラリと十市を見やった。
 自分に向けられた冷ややかな視線に、十市は身を震わせる。その鋭利な視線は先ほど十市を怯ませた天皇の視線によく似ていた。

 鸕野讃良は天皇の娘だ。天皇が蘇我倉そがのくら山田やまだの石川いしかわ麻呂まろの二番目の娘、遠智おちのいらつめとのあいだに儲けた子である。
 天皇には多くの子供がいるが、この鸕野讃良皇女がもっともその血を濃く受け継いでいる、と十市は思っていた。
 
「父上、私はもう十分です。久しぶりにお話ができて嬉しかった。草壁はまだ小さいし、きっと父上と遊びたがっております。行ってあげてください」
 
 十市は父の顔を見上げ、にっこりと笑顔を作った。
 もう少し父と話したいとの思いもあったが、鸕野讃良から向けられる刃のような視線に耐えかねたのだ。
 昔からなんとなく恨まれているような気はしていた。もっともその悪感情の矛先は、十市というより、その背後に透けて見える母の方であろうが……。
 
「……すまない。また会いにゆくから、それまで額田や吹芡刀自ふふきのとじの云うことをよく訊いて、健やかに過ごすのだぞ」
「はい」
 
 父らしい言葉に、十市はもう一度にっこりと微笑んでみせた。
 大海人皇子が草壁の手を取り、親子三人で歩いてゆく背中を見送る。
 
「よろしかったのですか、十市さま。大海人さまとは御話の途中だったのでは……」
 
 後ろに控えて今までのやり取りを見守っていたらしい吹芡刀自が気づかうように十市に寄り添った。
 
「いいのよ、もう」
 
 十市は力なく笑ってから、大きく息をついた。
 
「……とおちー!」
 
 今度は誰?
 自分の名を呼ぶ声に、十市は辟易してしまう。
 やはり人の集まる場所は嫌いだ。気の休まる暇がない。
 十市は仕方なく振り返り――そこに、よく見知った少年の姿をみとめて、ほっと安堵の溜め息をついた。
 
「あら、高市たけち。お前も来ていたの?」
 
 十市の顔に今日初めて自然と笑みがこぼれた。
「高市」と呼ばれた少年がニカっと歯を見せて笑う。その笑い方が、先ほどまで隣にいた父とよく似ていて、十市は少しだけ複雑な気分になった。
 
 高市たけちの皇子みこは十市の異母弟の一人である。
 十市とは歳が近いこともあり、子供の頃から親しくしていた。
 
「あちらに綺麗な場所があるんだ、花が満開で……。十市にもぜひ見てもらいたい!」
 
 高市が嬉しそうに目を輝かせている。
 そういえば花を見ることが目的の集まりだった、と十市はあらためて思い出した。
 花のことなど頭の片隅にもない大人ばかりのなか、高市だけは純粋に花を愛でに来ているらしかった。
 
「いっしょに見に行こう」
 
 そう云って、高市が十市の手をぎゅっと握った。
 少し膝を曲げて十市と目線を合わせる高市。ほんの少し前に踏み出せば、鼻先どうしが触れ合ってしまいそうなほど近くに高市の顔があった。ついこの間までは十市の鼻先ほどの背丈しかなかったのに、いつのまにか、十市の身長を超えている。
 
 そんな二人の様子に、吹芡刀自が眉を顰めていた。
 もう小さな子供ではない男女ふたりが必要以上に親しくすることを案じているのだろう。
 ふいに十市は吹芡刀自を困らせたくなった。
 
「うん、私も見たい。行きましょう、高市」
 
 十市は高市の手を握り返して微笑んだ。
 高市が一瞬おどろいたように息を呑んだが、すぐに満面の笑みを浮かべて、十市の手を引いて駆けだす。
 
「あっ、十市さま!」
 
 吹芡刀自の声が聞こえたが、十市は聞こえぬ振りをして、高市の後をついていく。
 今日は多くの視線に晒されたが、高市のように温かく柔らかな親愛の情を向けてくれた者はほとんどなかった。
 父や母は勿論、天皇や鸕野讃良皇女とも血の繋がりはあるはずなのに。彼らから向けられる感情のほとんどは冷たくて鋭いものばかりなのだ。
 十市は疲れていた。
 自分を取り巻く様々な悪意や思惑に……。
 
「ほら、彼処あそこだよ」
 
 高市の指さす方向に目をやると、たしかに見事な梅の木が並んでいる。
 風に吹かれて芳しい梅のにおいが漂ってくる。それは十市の苦手なみずのにおいを薄めてくれるようだった。
 
「あ……!」

 梅の木立のあいだに探し求めていた人物が……いた。
 十市は思わず前のめりに身を乗り出す。

 は何人かの舎人とねりらしき若者たちに囲まれて、笑っていた。
 背の高い彼は周囲の人々から頭半分飛び出していて、十市のいる場所からでもその横顔を窺い見ることができる。
 高市と繋がれていた手をそれとなく離すと、高市が「えっ」というように十市を見た。
 十市は隣の高市を見ないようにして、ただ一直線に前を向く。

 彼――大友おおともの皇子みこのいる方角を。

 大友の取り巻きの中には女もいて、十市は何故か不愉快な気分になる。

 ――あぁ、私も彼と話したい。

 十市はそう思ったが、大友の周りにはたくさんの見知らぬ人々がいて、臆病な十市の足はすくんでしまう。

「どうしたの?」
「なんでもない」

 高市の問いかけに、十市はゆるゆると首を振った。すると、高市は再び十市の手を取って、彼のいる方とは反対の方向へと歩き出す。
 十市は高市の手を振り払うこともできず、彼から遠ざかるしかなかった。

 大友皇子は天皇の息子の一人だ。
 父親を「バケモノ」と云った彼。

 ――もう一度、話をしてみたかった。

 十市は「大友が自分に気づいてくれはしないだろうか」と、念じてみたが……。

 その祈りが届くことはなかった。



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