蒼昊の額縁

蒼乃悠生

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 沈む。
 ゆっくりと、沈む。
 身を委ねて、沈んでいく。

(水の中……)

 ゴポゴポと音を立てながら、体は沈んでいく。
 目をゆっくりと開けると、白い光が見える。
 ゆらゆらと光は揺れる。

(私……)

 虚ろな瞳で光を見つめた。
 体は沈んでいく。光は遠くなる。
 手を伸ばしてみても、光に届かない。
 指先は光を求めるように伸びるが、触れるのは空気の泡だけ。
 それでも、女は小さな泡たちに触れる度に表情を緩ませる。

(このまま落ちていきたい)

 目をそっと閉じる。
 音が聞こえない世界。
 光も届かなくなる海の底。
 女は引っ張られるように体を沈めていく。

(同じ世界で生きていたのに)

 彼女の頭に蘇る記憶。
 一人の青年。
 青年は屈託のない笑顔を見せる。
 その笑顔を見る度に胸が締め付けられて苦しい。
 なのに、彼女は悲しみに似た愛情を抱く。

(時が全てを壊した)

 青年の姿は泡となって消える。
 目を開けて、小さな泡を目で追う。
 この泡と同じだ。
 青年は一瞬で消える。
 掴めない場所へ行ってしまう。
 重ねて見てしまった彼女の目に涙が溢れ、海と同化する。

(だから)

 彼が眠る海と共に眠りにつこう。
 二度と起きることのない長い時間を。
 会うことができない世界とお別れをして、幻想という夢で会う。

(貴方に包まれて眠りたい)

 光が届かぬ海の底で。
 希望も絶望もない底で。
 ただ静かに時を止めたい。

「あなたは悲しみを解する心を持っておりますか?」

 落ち着いた声色。男性のもの。しかし、聞いたことのない声。
 その声を心で聞く。
 彼女は再び目を開けた。

(悲しみを、解する……?)

 彼の言葉を繰り返す。
 しかし、分からない。
 言葉の意味ではない。その心の意味が頭に浮かばないのだ。
 不意に背中に小さな衝撃を受ける。
 手や足の肌に触れる砂。
 海底まで沈んだようだ。
 
(その心を持つあなたは、あの時代を生きる事が辛かったのではないですか?)

 答えは返ってこない。
 死と背中合わせ。
 明日、一時間後、いや、一分後には死ぬかもしれない、血と黒で塗り潰された時代。
 鉛の弾で体に穴が開き、生を破壊される恐怖を、いつも背後からひしひしと感じていただろう。
 自分の周りに立つ仲間達。
 一人倒れる。
 そして、また一人倒れる。
 そして、また一人、二人、三人倒れていく。
 ドミノ倒しのように死の連鎖が止まらない世界。

(そんな世界の悲しみを解することは、私にはできない)

 胸元に手を当て、そしてぎゅっと掴む。
 苦しいから。

(人の死を悲しめば悲しむほど、心が抉られるぐらい痛い、苦しい)

 一人二人じゃないから。
 数え切れない人数の悲しみを理解することは、心を真っ赤に染め上げ、ぐちゃっと潰すことと同じ
 耐え切れない。
 心は鉄のように硬く、強くない。

(それでもあなたは生きるしかなかった。前を見るしかなかった。屍を越えて、歩く足を止めることは決して許されなかった)

 体がふわりと浮く。

(そんな貴方に、心から惹かれた)

 体はゆっくりと浮上していく。
 決して彼女の意思ではない。
 まるで海が押し上げているように。

(黒い世界の中で、眩しいくらいの笑顔を見せる貴方の強さに、心を鷲掴みされた)

 だから、思う。
 会いたい、と。
 無謀で無茶な願いを心に秘める。
 その心を暴かれないように海に沈んだというのに、どうして体は浮くのか。
 見えてきた米粒のように小さかった光の粒は、掌の大きなになり、そして、全ての視界を支配した。





 ピピピピピ
 ピピピピピ

 時計のアラームが鳴る。
 なかなか開かない瞼。
 時計のボタンを探しながら押すと、時計は何事もなかったかのように静けさを取り戻した。
 寝ぼけ眼をこする。
 指を濡らす水。

「……涙?」

 彼女は呟いた。
 涙の意味が分からない。
 小首を傾げながら、上半身を起こすと、胸元に微かな痛みに気付いた。
 右手を添えると、すぅと消える痛み。

(変な気持ちがする)

 胸が痛い。
 いや、胸が苦しいような気がする。
 適切な言葉を頭の中で探す。

(胸がキュッとする……切ない……?)

 それでも最も当てはまる言葉が見つからない。
 不意に耳に入る水の音。

「雨だ」

 ザーザーと音を立てて降る雨に気づかなかった。
 彼女は窓に近づき、そこから見える風景は、空は黒い雨雲で暗く、どんよりとしていた。
 ずっと眺めていると、気分が落ち込んでくるような気がする。

「はぁ」

 溜息をつく。
 と、車がぎりぎり二台通るような幅の狭い道路の真ん中で一人立つ男に気付いた。

(傘もささずになにしてるんだろ)

 異様な光景だ。
 大雨が降っているにも関わらず、男はただ立っている。傘も持っていない。雨に打たれる姿。

(カッターシャツにズボン……学生? 社会人?)

 二階から見下ろす。
 顔が見えない為、服装を見て推測するしかない。
 
(あ、シャツインしてる。真面目な人なんだろなぁ)

 よく見れば、カッターシャツをズボンの中に綺麗に入れている。
 興味がある訳ではないが、彼の性格が少し分かったような気がして、彼女は目が離せなくなっていた。

「て、見てるんじゃなくて。傘、貸した方がいいよね!?」

 傘を持って、足早に外に出る。
 彼がいるであろう場所に着いた時には、既に彼の姿はなかった。

「あれ?」

 周りを見渡してみても、人らしき影すら見つからない。
 あの短時間でどこに行ってしまったのだろうか。 
 おかしいなぁと、小首を傾げる。
 そして、彼がいたであろう道に視線を移した時、小さな黒い影を見つけた。
 近づいて拾い上げてみる。
 それは道路に落ちていることが似合わないもの。

「腕時計……」

 黒い革のベルト、銀色の本体。
 時を止め、折れた針。
 小さな傷に、大きな傷、そして大きな凹み。
 素人から見ても、これは決して修復できないだろう。
 痛々しい。
 しかし。

「何故こんなところに腕時計があるんだろう」

 よく見れば、腕時計のデザインに違和感がある。少しクラシックなものに感じた。
 本体の裏には、傷のような刻印の跡もある。

「千、九百……?」

 指先でなぞるように刻印にかかる黒い砂を落とす。しかし、後からついたであろう傷が時を消していて読めない。

「あれ」

 ふと疑問に思った。
 雨が降っているのに、どうしてこの腕時計は濡れていないのだろうか。

「とりあえず、部屋に戻ろう」

 傘を貸す相手もいない。
 いつまでもこの道端にいる意味もない。
 狐につままれたような気持ちで腕時計を持っていく。
 普段と変わらず、ドアノブを握ったところで気付いた。

「指が黒い……」

 指先を中心に黒い砂のようなものが付着している。
 指先同士を擦り付けると、ザラザラとした感触があり、液体ではないのが分かる。だが、仮に砂だとしても、指にが付着するだろうか。
 不気味に思いながらも、彼女は部屋に入った。
 小さなテーブルに腕時計を置き、電灯の下で指先を眺める。
 手をいろんな角度で見ていると、薄っすらではあるが赤み帯びていることに気付いた。

(血……?)

 まさかとは思った。
 腕時計に目をやると、テーブルにも黒い砂が落ちている。
 その砂を指でなぞってみると、やはりこれも赤み帯びているように見える。

「もしかして」

 黒革のバンドの内側を爪で軽く引っ掻いてみると黒い砂が落ちた。
 これが何なのか。
 内側に付着している理由。
 ある仮説が脳裏によぎった時、背中がゾクっと震えた。そして、怖いと感じた瞬間、投げるように腕時計を手放した。
 部屋に設置している時計の秒針の音が、静まり返った部屋に響く。


 カチコチ
 カチコチ


 そんな風に乱暴しないで。
 時計にそう言われているような気がして、頭を垂れた。
 思い切って、彼女は腕時計を手に取ろうと勇気を振り絞るが、あと一ミリで触れる距離になると途端に躊躇ってしまう。
 しかし、時計の秒針が彼女の背中を押す。

(んもう! なんなのよぅ!!)

 誰のものか分からない。
 仮に黒い砂が血だったとして、付着している理由も、あの道端に落ちていた訳も分からない。
 放っておくこともできたのに、何故か手にとっていた。
 ヤケ糞になって、腕時計を持ち、直ることはないだろうから、血を洗い流すことにした。
 キッチンの流しで、ざっくりと洗い流す。
 くすんでいた腕時計は輝きを取り戻すように光が戻ってきた。

(おぉ)

 すると不思議なことに、大体洗えればいいやと思っていた気持ちに変化が起きる。
 ここの凹みにこびり付いた砂をとろう。
 この小さな傷にに入り込んだ血を綺麗にしよう。
 そう思ってくるのだ。
 みるみるするうちに、傷や凹みは直らなくても、革のバンドも銀の本体も生まれ変わったようにサッパリとしている。
 次に思うことが、

(これ、直らないかな?)

 部品を変えてしまえば、また動き出すんじゃないか。
 ピカピカになった腕時計を掲げながら思う。
 傷も凹みもできてしまったら、とても辛い。
 酷ければ酷いほど、手放したくなる。
 汚れていれば尚更だ。
 しかし、今のこの腕時計を見たら、気持ちが少しでも変わるだろう。

(でも、これ、人のだしなぁ)

 水気をタオルで拭いて仕上げる。
 綺麗になった腕時計を警察に持っていくべきだろう。
 今日は幸い朝から大学の授業もない。

「よし、落し物を届けてから学校に行こう」

 小さな紙袋に腕時計を収めた。
 そう。
 確かに入れた。
 しかし、警察に落し物を届けに行った時には、紙袋から姿を消した。まるで帰る場所を見つけたかのように。
 その日の夜。
 また夢を見た。




 見たことのない丘。
 草は低く、花は咲いていない。
 その彼は、一人で座っていた。
 膝を抱える背中は、ちょっぴりと寂しそうに見えて、彼女は黙ってその背中を見つめる。
 アイロンをかけられているのか、シワの少ないシャツ。それに紺色のズボン。
 左手首には、腕時計。

「あ」

 思わず声が漏れ、片手で口を塞ぐ。
 彼が付けている腕時計は、道端で拾った腕時計にそっくりだったから。
 彼女の声に気付いた彼は、ゆっくりと首をこちらに向けた。

「こんにちは」

 まさかの挨拶に、彼女は動揺し、すぐに声が出なかった。
 言葉にならない声が漏れている間、彼はそっと口の端を控えめに吊り上げる。

「こ、こんにちは」

 やっと音が言葉になり、ほっとする。
 見たことはないが、優しそうな顔だった。
 彼女はどうしても気になってしまい、つい腕時計に視線が向く。
 彼は不思議そうに彼女を見ると、腕時計を指差した。

「これ?」
「えっと、この前道で拾った時計に似ている気がして」

 そう言うと、彼は腕時計を外しながら彼女に近づく。そして、背があまり変わらない彼は腕時計をそっと差し出した。

「拾ったものと同じ?」

 手に持つと、より分かる綺麗な時計。
 凹みもなければ、小さな傷もない。
 艶のある黒い革のベルト。
 見た目は違うような印象を持つが、あの拾った腕時計が傷ついていなかったとしたら、きっとこんな時計だったんだろう。

「よく似てます」

 彼女はそれだけを言って、口元を綻ばせる。
 嬉しかった。
 あの腕時計が使ってもらえているような、そんな気がして。
 彼に返すと、彼は腕時計を付けながら口を開いた。

「その拾った腕時計、どうしたのですか?」
「とりあえず洗いました。汚れていたんで。見違えるくらい凄く綺麗になって! ……でも、途中で失くしちゃったんですけど」

 失くしてしまったことが悔いである。
 視線を落とし、口をへの字に閉じた。

「警察に届ける途中に失くしちゃったから、元の持ち主さんのところに帰れなくなっちゃったのは残念だな、て」

 少しだけ溜息をついた。
 しかし、ハッと我に返る。

(知らない人にベラベラとしゃべっちゃってる!)

「ごめんなさい! どうでもいいことを沢山話しちゃって。あなたには関係ないのに」

 無理に笑うと、彼は彼女をじっと見つめていた。
 そして、フッと笑う。
 その表情は優しさだけでなく、影のように切なさ、悲しさが見え隠れしている。
 人ではなく、強いて言えば神のような、この世ならざる者と接している感覚に陥り、思わず息を飲み込む。

「腕時計、ありがとう」

 彼は静かに言った。
 特別の物なのか。
 腕時計を丁寧に触れ、そして彼女に笑いかける。とても嬉しそうに。

「え、え?」

 狼狽する彼女の頭に手を置く。

「国のように大きなものも、この腕時計のように小さなものも、傷つけば悲しい、失えば寂しい」

 彼の体の周りに小さな水の泡が生まれる。
 ポツ、ポツポツと、それは増えていく。

「貴女を僕の感情にかぶらせて申し訳ない」

 悪びれるように眉を寄せ、視線を落とす。
 その間も生まれては消える、水の泡。
 その水の泡は、意思を持っているかのようにくっつき始めた。

「しかし、貴女の人間性を垣間見て嬉しかった」

 水の泡が合わされば、生まれる汚れなき水。
 彼女は手を伸ばした。
 この人は、このまま消える。
 そう頭が訴えたから。

「待って」

 彼は腕時計に手を添え、微笑む。
 増えた水に囲まれて、弾けた泡と共に彼の体も少しずつ消えていく。
 空気と合わさるように、消滅していく様を見て、彼女は思い切り前に体を出して、彼に手を伸ばす。
 しかし、掴んだのは空気。

「待ってええええ!!!」





 ピピピピピ
 ピピピピピ

 アラームの音が鳴り響く。
 彼女は静かに目を開けた。
 なんだろう、この体の重たさは。
 気も重たい。
 目覚まし時計に顔を向けないまま、手を這わせる。アラームを止めるボタンを手探りし、カチッと押した。
 静まり返る部屋。
 途端に、彼女の双眸から溢れる水の粒。
 しかし、溢れるものは涙だけではない。
 この感情。
 胸を締め付ける、この感情が苦しい。
 胸元をギュッと握り締めても、一向に楽にならない。
 体を小さくしてみても、歯を食いしばってみても、弱まることのない苦しみ。
 これが何なのかと聞かれたら、
 喪失感。
 そう答えるだろう。
 だが、何かを失ったわけではない。
 何も失っていないし、無くしてもいないし、亡くなってもいない。
 それならば、この涙は、この苦しみは何だと言うのだろうか。

(止まらない、止まらない)

 声が漏れる。

(どうしてこんなに悲しいの?どうして、苦しいの?)

 誰も答えてはくれない。

(どうして……いなくなっちゃったの……?)


『何故人は悲しむのか』
『何故悲しいと感じるのか』
『悲しみの向こうに何があるのか』
『この過程と答えに人としての本質があると、僕は思う』

 深い悲しみは海と共に沈ませよう。
 そこに貴女を連れては行かない。
 僕は静かに悲しみを抱いて眠る。
 この広い海のどこかで、誰にも知られることなく、この体が全て海と同化するまで。


 貴女が綺麗にしてくれた腕時計を、海の底に置いてく。
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